3.クリスとマリン。
少年はある日、一人の少女に恋をした。
感情というものが不要とされる一族の末端として生まれ落ち、そうあるべきだと信じて生きてきた彼にとって、それは予想だにしない出来事。
そんなイレギュラーは、なんの前触れもなく。
少年が屋敷の中をただ歩いている時に、偶然に起きたのだった。
『あれは……?』
大量の本を持って、フラフラと歩く子供がいる。
それがこの家の令嬢であると気付くのは、少し後のことだった。その時の少年はただ、このままでは転ぶぞ、としか思っていない。
とくに気にかけるつもりもなかったのだが、進行方向から来られては無視できなかった。そのため彼は、その女の子に声をかけたのである。
『…………持ちましょうか?』
『あら、ありがとうございますですわ……!』
言って少年は、何冊かの本を抱えた。
それでも、少女の顔を確認することは出来ない。
『これを、どこまで?』
『もう少し先の、わたくしのお部屋ですわ……!』
それを聞いて、歩き始めた。
その道中のことだ。少年はあることに気付き、こう訊ねた。
『治癒魔法の、専門書……。子供が読んで、意味あるのですか?』
抱えている本のすべてが、大人でも首を傾げてしまうような難解な読み物であること。それをこんな幼い少女が目を通して、理解できるのか、と。
少年には少なくとも無駄に思われた。
何故なら、彼の中には大きな諦念ばかりがあったから。
生まれも育ちも良くない。
そんな自分は、努力をしてもたかが知れていた。
暗殺者の家系に生まれたことが、彼の心に深い闇をかけている。
『意味は、自分で決めますのよ!』
『え……?』
だが、そんな時だった。
少女がよろけながら、そう言ったのは。
『頑張った結果は、結果ですわ。それでも、そこに意味を見出すのは、その人の役目なのです。わたくしはまだ半人前ですが、いつか……!』
大きく頷くようにしてから、やっと顔を見せて少女は笑った。
そして、こう口にする。
『いつか、多くの方に認めてもらえるようになるのですわ……!』――と。
そこには、一点の曇りもない。
未来を信じる光が、あまりにも眩しかった。
『………………あ』
少年は見惚れた。
そして、同時に憧れを抱いた。
それがいずれ恋に変わり、愛へと昇華されるのは時間の問題だった。
それほどまでに、少女――マリンの笑顔は、希望に溢れていたのだ。
『貴方には、なにか夢はありますか?』
『夢……?』
少年――クリスは、唐突に投げられた問いに呆けた声を発する。
しかし、時間をかけて考えても答えはない。
彼に夢など、なかったから。
『きっと、いつか貴方にも夢が出来ますわ! それを叶えましょうね!』
マリンは言って、また歩き出した。
クリスは少し遅れて、それを追いかける。
それは懐かしい記憶。
クリスの中にある、生きる意味――その原風景だった。
◆
クリスは、マリンの部屋の前に立ってそれを思い返す。
あの日から少年の夢、目標は決まっていた。
「お嬢様。私が、必ず貴方を――」
そこまで口にしてから、突然に彼は口に手を当てて咳き込んだ。
しかしその後、少年の手にあったのは――血の塊。
「………………」
冷めた目で、自身の手に付着したそれを見つめる。
手拭いでふき取って、それを仕舞う。
そしてクリスは、何事もなかったように歩き出すのだった。