騙されるまい
ダンスの練習も二度目ともなると、少しは馴れてきた。
先生からは、視線を下げずに目を合わせる、にこやかにする、とダンス以外のことばかりを注意された。そうは言われても、この近さで殿下のお顔をまじまじ見るなんて…それに目が合うってことは私のことも見られているってことで、とても緊張した。
殿下は相変わらず優しく微笑んでいて、王族ってやっぱり凄いなあと思った。私が噂の我儘令嬢だってわかってても、こんなに爽やかにいられるなんて。
ハロルド殿下は愛国心が強く、贅沢で怠惰な生活よりも、民の為に忙しく動き回ることを好まれているようだった。若くから陛下の執務を手伝い、国や民の為に動く姿は、貴族はもちろん庶民の人達にも慕われていた。ハロルド殿下が王位を継げば、この国はもっと豊かになるだろうと既に期待されている。
私を夜会に誘ったのも周囲の期待に応える為だろうか。
顔を上げられるようにと、殿下の提案で軽く会話をしながら踊った。その話の中からも殿下が真面目で優しく、民のことを思っているのがわかった。本当にお優しい方だ。
その日の帰り道、チャールズ陛下とすれ違った。
ハロルド殿下と同じブロンズヘアに青い瞳で、顔立ちは凛々しく、噂の通り俺様な感じが容姿からもわかった。兄弟でこんなにも雰囲気が変わるものなのね。私もシャルとは全然タイプが違うけど。チャールズ殿下の視線は厳しかった。
ハロルド殿下が私を紹介して下さったので、名乗り、挨拶をした。
「はじめまして、ウィリアム・セントフォードの娘、イザベラと申します」
「…兄上が我儘令嬢を躾けてるって噂本当だったんだな」
言葉もなかなかに辛辣だ。悪い人ではないと聞いているので、単純に正直なのだろう。ダニエル様とハロルド殿下がフォローしてくれたが、私はなかなか顔をあげることができなかった。
私が我儘令嬢だったことと周囲からの評価を思い出される。
「チャールズ、イザベラ様が緊張なさってます。またきちんと紹介しますから」
「また、ね。…わかりました。それでは失礼します」
最後は言葉も丁寧に、にこりとして頭を下げて去っていった。
その背中を見送ったあと、ふと力が抜けた。緊張していたようだ。そして同時に、ハロルド殿下に対してはもう緊張してないことに気付いた。気を抜きすぎかしら。
「イザベラ様、弟がすみませんでした」
「いえ、本当のことですし…寧ろ何かご無礼がありましたらご指摘ください」
「では…1つだけ宜しいですか?」
「はい」
ハロルド殿下にも気付かれてしまったかもしれない。
緊張感がないと指摘されるだろうか。
「イザベラ様は表情がかたいです。微笑んで見せれば大抵の人はあのようなことは言えません」
何を言われるかと思えば、ハロルド殿下はとんでもない勘違いをされている。私の噂を知らないのかしら。以前の私を──私の噂を知っているなら、チャールズ殿下のような反応が普通だ。王子くらいでなければ面と向かっては言わないかもしれないが、影で同じことを言うだろう。
「そんなことはありません!」
「でもイザベラ様は私が微笑んだいたらお願いを聞いてくれますよね?」
「…殿下がお綺麗だからですよ」
「女性には敵いませんよ。とりわけイザベラ様のような美人には」
「そ、な…、え…?」
じっと目を覗き込みながら真剣な顔で言われて、顔が火照るのを感じた。何て言い返したらよいかわからない。
私が微笑んだところで、何か企んでいるのではと、演技して騙そうとしているのではと思われてしまう。確かにモデルのような整った顔立ちをしているが、殿下だってダニエル様だって、両親もシャルも、みんな綺麗な顔をしている。私だけ特別って訳でもない。
そうか。特別ではないんだ。
「失礼しました。殿下にとっては挨拶のようなものですよね。すみません、馴れておらず…勘違いするところでした」
「こんなに美しいのに褒められ馴れていないなんて珍しいですね。私はもちろん本気ですが、挨拶と捉えていただいても構いません…笑っている方が可愛いですよ」
無愛想にしていては駄目だということかしら。男性が女性を褒めるのは日常茶飯事で、微笑んで返すのが礼儀だと、遠回しに教えてくれているのだろうか。
確かに先程のチャールズ殿下は最初の表情は少し怖かった。けど、最後の自然な微笑みには好感が持てた。ハロルド殿下もいつもにこやかで惹かれるものがある。
殿下の横を歩くのだから、愛想良くしなくてはならないな。
「ありがとうございます?」
殿下は私を鍛えようとしているのか、褒めたり、いつもより手を長く握ったりと、色々と試してきた。
帰り際に体調を崩されたダニエル様が心配だったが、それ以上に、今日の色々なことを思い出してなかなか寝付けなかった。
シャルがやる気を出してお勉強もダンスも頑張っていたので、暫くは殿下のことを忘れていられたが、土曜日がくると、心がざわついた。
殿下に声をかけられることを、手を握られることを、待望している自分がいる。彼にとっては義理を果たし周囲の期待に応える為のお世辞で、深い意味はない筈なのに。
最後の練習の日、今日は本番と同じ会場でと、いつもと違うところへ案内された。お城の隣に立つ教会──比べると少し小さいがそれなりの大きさのあるお城のような建物──が、全部会場なのだそうだ。玄関ホールを抜けて大きな扉をくぐるとそこは、練習場より遥かに広かった。本番には一体何人が入るのだろう。広い会場は既に装飾が進んでいた。そして奥には数十人もの楽団と指揮者がいた。しっとりとした音楽を奏でている。
今日は先生はいないようで、ダニエル様が一緒に入ってきて、一人で先に楽団の方へと向かった。
ハロルド様に手をひかれながら、会場の中心へと進む。
「準備の途中で、宜しかったのでしょうか?」
「大丈夫です、彼らのリハーサルも兼ねています」
床に描かれた円い絵の中心にくると、そっと私の手を離し、向かい合う。
私達もリハーサルか。
確かに本番でいきなりこの会場を訪れ、そして招待客いっぱいのところに来たら緊張は凄まじかっただろう。天井は高く、装飾はきらびやかで、人がいなくても圧倒される。
いつの間にか音楽はフェードアウトしていた。
お辞儀をして、手をとると、それを待っていたかのように違う曲調の音楽が流れ始める。
踊り始めると、周囲はあまり気にならなくなった。
殿下の洋服が視界の半分以上を占める。今日はいつもより派手な服だ。長めのブーツに白いズボン。ギャザーのついた白いシャツ。濃紺のジャケットに金の刺繍と、細かな細工が施された金の釦。髪の色とよく似合っている。
視線を上げると、目が合った。
「すみません、綺麗なお洋服で、見とれていました」
「私も見とれていましたので」
お互い様です、と微笑まれて、自分のドレスに視線を落とす。今日はいつもの淡い色のふわふわドレスではなく、濃い深緑のシックなドレスだ。
ドレスのことを言われているのに、まるで私が見られていたような、そんな気がしてしまって頬が火照る。
照れ隠しのような、言い訳をする。
「殿下にいただいたドレスを参考に、いつもと違うドレスを新調しましたの。私ももう13歳ですし…」
「よくお似合いです」
顔を上げると、再び目が合った。殿下は微笑んだままだった。
「ありがとうございます」
自然に笑えたかしら。顔を上げたままだと、ずっと殿下と目線が合っていた。ちょうど曲調も盛り上がるところで、私はなんだかうっとりしてしまった。
まるで、王子様にお姫様扱いされて優しく愛されているような、勘違いをしてしまう。
今だけは、勘違いしてもいいかしら。
素敵な殿下と踊れることを喜んでもいいかしら。
例え、この甘い視線が私に向けられたものではなくても。
仮初めのものだったとしても。
それに気付かない振りをして。
素敵な時間だったと、いつか思い出してもいいかしら。
暫く踊ると、1曲目が終わった。
手を離し、1歩下がる。
(ああ、名残惜しいなあ)
何故、こんな風に思ってしまうのだろう。
当日も私は1曲目を終えたら身を引かねばならない。殿下は沢山のご令嬢にダンスを申し込まれるだろう。そして、その中には意中の女性もいるかもしれない。まだいなくても、一目惚れするかもしれない。
私はセントフォード公爵家の長女として生まれたばかりに、殿下の初めてのダンスをご一緒させてもらえる。とても光栄なことだ。でも、それだけ。
1曲目が終われば、今度の夜会が終われば、もうこうしてお会いすることもないかもしれない。
2曲目が流れはじめる。じっと動かない私に、殿下は1歩近付いて声をかけてくれた。
「緊張しましたか? ダンスは完璧です。休憩にしましょうか」
「すみません、ボーッとして。練習、続けましょう」
「少し夜会の準備で疲れてまして。私の息抜きに付き合ってくれませんか?」
なんて気のきく方なんだろう。自分が休憩したいからと相手に気を遣わせない言い方。せっかく殿下と踊れるチャンスを私は自分でふいにしてしまった。
ああ、でも、これ以上勘違いして殿下のことを好きになってしまう前に終わって良かった。
楽団の方々と指揮者の方に頭を下げて、会場を後にする。
会場には両端にテラスがあって、お庭に出ることができた。夜会当日には、きっと抜け出した二人が愛を囁きあったりするんだろう。とてもロマンチックな光景が浮かんだ。
私は当日はきっと壁の花だろう。もしくはセントフォード公爵家を狙うご子息達に声をかけられるかもしれない。だけど、本気で私を想ってくれる人なんていないだろう。我儘令嬢の噂は簡単には消えない。前の記憶を思い出して、まだ1ヶ月か。色々なことがあって、とても長い1ヶ月だった。しかし過ぎてみればあっという間。次の土曜日もきっとあっという間に過ぎて、日常が帰ってくる。
お互いに黙ったまま暫くお庭を歩いた。
ダニエル様の姿は見えないが、おそらく近くにいるのだろう。
迂回しながら、ゆっくりと時間をかけて、お城の前までたどり着いた。
遠くの壁の上には2階と3階のテラスが見える。
そしてその前には、あの日シャーロットが持っていた、赤い実をつけた背の高い木があった。
「殿下、あちらの方へ行ってもよいですか?」
「良いですよ。ですが、あそこは…」
「見てみたいのです」
何を、とは言わなかった。本当は自分が大怪我をした場所に行くなんて少し怖い。けれど見ておきたいのだ。あの木を。ハロルド殿下は頷いて案内してくれた。
近付いて赤い実をよく見ると何の木かわかった。ジャックに教えてもらった──ナナカマドの木だ。
「たしかナナカマドの花言葉は…」
「「安全」」
後ろから聞こえた殿下の声と自分の声が重なった。思わず振り返る。
「殿下もご存じでしたか」
「ええ、あの後調べました」
「私も後から知りました。でも…花言葉の通りの木でしたわ」
この木がなければ私は死んでいたかもしれない。前世の記憶を思い出して心を改めることもなかったかもしれない。そして、
今日のような素敵な思い出も出来なかった。
木の幹に近付き手を触れる。
「守ってくれてありがとう。傷付けてごめんなさい」
小声で感謝を囁く。
私の命の恩人のうちのひとり──1本だ。
「そうだ、少し待っていてください」
そういって殿下は植木の向こうに消えて行った。さっきの言葉を聞かれていたかしら。それだと少し恥ずかしいわ。心のなかで思うだけにすればよかった。
殿下は少しして戻ってくると、私の前に跪き、後ろからすっと花を差し出した。
ちょっとキザな出し方だけど、殿下はそういうことを自然にやってのける紳士だとわかっているので、違和感なく受け入れられた。
「どうぞ」
「綺麗な薔薇ですね。いただいて良いのですか?」
「庭師に怒られてしまいますから、二人だけの秘密にしてくださいね」
「ふふ…ありがとうございます」
庭師のジャックが怒っている姿が想像できた。真っ赤な色がとても綺麗で、お花屋さんで買ったみたいな、立派な1輪の赤い薔薇だった。
殿下の手から受け取る。
この光景もきっといつか幸せだった瞬間として思い出すだろう。
「確か薔薇は本数で花言葉が変わるんでしたね…あ、すみません!特に意味はないとわかっています!」
「いえ、花言葉の通りです。後で調べてみて下さいね」
すっかり乙女気分に浸ってしまった私は余計なことを口にしてしまった。
薔薇は恋愛に関係する花言葉が多かった気がする。だけど、本数によっては、お断りをいれるような花言葉もあった。そろそろ現実を見なくてはいけない。もし、お誘いのキャンセルとか、勘違いしてはダメ、とかだったら大変だ。帰ったらすぐ調べよう。
「今日はもうお送りしましょうか」
「はい」
手を差し出されたので、その上にそっと手をのせる。エスコートにも慣れてきた。自然に出来たと思う。殿下と目線を合わせる余裕もある。
大丈夫。今の私は公爵家の令嬢なんだ。真面目に生きていれば、それなりの人と結婚してそれなりの人生を歩める。お相手は、私が選べる訳もない。こんな私でも良いという方がいれば、喜んで尽くそう。周囲の人の為に生きよう。殿下も、まだお若いのに周囲の期待に応えようと頑張ってらっしゃる。
ふと、殿下が右手を後ろに回したままなことに気付き、なんだか不自然だなと思った。
「あら…殿下、右手を怪我されていますか?」
「気にするほどではありませんよ」
「ダメです!みせてください!薔薇のトゲでしょう…ささっているかもしれません!」
繋いでいた手を離し、反対側に回り込んで殿下の手をとった。
痛くないようにそっと正面側に持ち上げ、指を開くと、人差し指の付け根と掌にいくつか切り傷ができていた。トゲは刺さってなかった。
「カッコ悪いところを見られてしまいましたね」
「私が治します!少しお待ちください」
薔薇を脇に挟んで、空いた手を殿下の手に乗せて気持ちを込める。ふわふわと白く淡い光が手を包み、暫くして光が消えた時には殿下の掌から傷も消えていた。
よかった。成功だ。痕も残っていない。
「ありがとうございます…イザベラ様は治癒魔法が使えるのですね」
「最近覚えまして…良かったです」
ハロルド殿下の掌は、皮が厚く、甘やかされて育ったイザベラの掌とは全然違った。たこが出来ているのは剣の練習だろうか。
「殿下。貴方が傷付けば沢山の人が悲しみます。どうかご無理はなさらぬようお気をつけください」
「ありがとう。その時はイザベラ様も悲しんでくれますか?」
「お戯れはよしてください…勿論です。ですが私がもしお側にいれば、無理をする前になるべくお止めします」
13歳の背中に抱えきれないような重責を追っていらっしゃる。この手で民を支え、良き方向へ導こうと頑張るお姿が、少し心配だった。お疲れのところに私の練習にまで付き合ってくれて、怪我をしてまで花を贈ってくれて、気を遣って遠回しに伝えてくれて、本当にお優しい方だ。
「…ありがとうございます」
じっと掌を見つめていたので、頭上で聞こえた声に顔を上げると、ハロルド殿下は目を細めて柔らかく微笑んでいた。それを嬉しそうだと感じてしまうのは思い上がりだろうか。
「出過ぎた真似をして申し訳ありません…夜会の準備で大変ですよね、しっかり休まれてください。今日は馬車をお借りして一人で帰ります」
「…待ってください。お花。手にしたままでは不便でしょう」
確かに、馬車の乗り降りには不便だ。
ずっと脇に抱えてる訳にもいかないし、薔薇を手にとると、殿下が手を重ねてきた。驚いて私は薔薇を殿下の手に渡してしまった。
「髪飾りの横に差してもいいですか?きっとお似合いだと思います」
仕方なく後ろを向くと、たぶん茎を折った音がして、それからハーフアップで結い上げたところについている髪飾りのあたり──首の上あたりに何かささる感覚がした。
耳が熱い。今日の髪型変じゃないかしら。せっかくいただいた薔薇をなくしたりしないかしら。殿下のことだから、きちんと付けてくれていると思うけど。というか、後ろ姿をまじまじと見られるのも緊張するわね。
「薔薇の花言葉、やっぱり今お伝えしてもいいですか」
心臓の音がとても大きく聞こえる。
何度か会ううちに私は、ハロルド殿下に惹かれていた。殿下にその気がなくとも、イケメンにこんなに優しくされたら誰だって勘違いしちゃうよ。でもきっと次の言葉は期待するような愛の言葉ではなく、この浮かれた気分を吹き飛ばすような台詞だろう。
わざわざお花を名目に後ろを向かせたんだ。正面きっては言えないようなことなんだろう。
さあ、夜会で私はどうすべきか。
「一目惚れ、です」
「…?」
一瞬、何のことだか、わからなかった。
ヒトメボレ?私は夜会で一目惚れをすればいいのか?誰に?殿下に?いや、この場合、殿下から私に薔薇を贈っているから…?
いま殿下はどんな顔をされているんだろう。本気で言ってるのか、これもお世辞なのか。
「本当はもっと一緒にいたいのですが、それでは私が暴走してしまいそうなので…続きはまた夜会で」
結い上げずに垂らしていた髪の毛を一束掬われた。
何がなんだかわからないけど、いま、もしかして、髪にキスされた?
その後、私はどうやって帰ったかよく覚えていない。ハロルド殿下がどんな表情だったか顔を見た記憶もない。
「お姉様その薔薇どうしたの?」とシャルに声をかけられて、はっとした。
薔薇をいただいたときのハロルド殿下を思い出して頬が火照る。びっくりして「朝からつけていたわ」なんて直ぐわかる嘘をついたけど、誰もそれ以上追及してこなかった。セントフォード公爵家の庭に咲いてる薔薇はピンクしかない。
ダニエル様ともう一人付き添いの騎士の方を見送って、次に気付いたら身支度を終えてベッドに座っていた。