王子は考える
城の2階のテラスから少年が身を乗り出して下を見ていた。大人であってもこの高さから落ちたら骨折等の大怪我をしてしまうだろう。この下は庭になっていて芝生がひいてあるから少しは柔らかい。しかし頭から落ちれば、あるいは、どうなるかわからない。少年の視界の左半分は木が生い茂っていて、地面がよく見えない。右側は芝生が見えているが、そこには特別なにも落ちてはいなかった。
少年は手をかけていたテラスの手すりを更に強く握る。
「こんなところに登るなんて…!」
身を翻すと、部屋の中心で口元を両手で抑え放心状態の少女と、その後ろにちょうど扉を開けた状態で固まってこちらを見ている騎士がいた。
「オリバー!」
「はい!」
さっと敬礼して、オリバーと呼ばれた騎士が部屋に入らずそのまま駆けていった。開いた扉は後ろにいたメイドが代わりに支える。
オリバーは廊下を走りながらすれ違う騎士やメイドに指示を出した。特別な指示はされていないが、言わんとすることはすぐにわかった。あのとき、自分が扉を開けたときには部屋の中にはハロルド王子とシャーロット様の2人しかいなかった。しかし2人は3人目を──イザベラ様を呼びながらテラスの向こうを見ていたのだから。そして振り返った時のあの表情。
「イザベラ様が2階から落ちた!すぐに東の庭へ人を呼べ!」
どんなに我儘が酷く嫌われていようとも、国で最も大きく古い公爵家のご令嬢だ。何かあれば居合わせた自分は勿論、王子にも責任が追及されるかもしれない。汗が額を伝った。
生きているとよいのだが。生きてさえいれば治癒魔法でなんとかなる筈だ。王室には過去最強とうたわれる優秀な魔術師がいる。
ハロルド王子は次に、まだ放心状態のシャーロットへ声をかけた。口元を抑えていた小さな手が、今はスカートを握っている。
「シャーロット様、私達も急ぎましょう」
「わ、私のせいじゃないもん!」
「わかっていますよ」
「私悪くないもん!お姉様が…」
ヒック、と嗚咽が出て、続く言葉を飲んだ。スカートの裾をぎゅっと握る手が震えている。両目には涙が溢れそうに溜まっていて、瞬きすると大粒の涙が零れだした。
近付いてハロルド王子が手を差し出すと、片方の手をスカートから離し、ジャケットの端を握ってきた。
「お姉様が死んじゃったらどうしよう…!」
「大丈夫。きっと、無事ですから。魔術師もすぐによびます」
「私のせいだっ…お姉様ぁ」
この高さだ。万が一も有り得る。
声を上げて泣く姿が、とても幼く見える少女の手を引き、部屋を出た。扉を支えたまま何が起きたのかわからないと言った顔でおろおろするメイドに少女を引き渡すと、両手を広げてだっこをねだり、メイドに抱えあげられた。そしてメイドの首に手を回し、縋るように泣き続けた。
「イザベラ様がテラスから落ちた。私達も東の庭へ行きましょう」
「か、しこまりました…!」
そんな、まさか、信じられないというような顔をした。先程の騎士とは違って、状況を理解できていなかったのだろう。驚きながらも頷いた。
(ああ、私も信じられないよ)
「万が一の時はシャーロット様はそのまま連れ帰ってください」
せっかく、お話できる機会を設けていただいたのに、どうしてこうなったのか。
廊下を駆けながら、ハロルド王子は今までにないくらい自分の心臓の音を大きく感じた。額には冷や汗が伝っていた。
ウェルジア王国の現国王であるリチャード王とその正妻であるレイチェル王妃のもとに生まれた第一子がハロルド王子である。次期国王として必要な教養をすべて教え込まれ、容姿端麗、物腰柔らかで誠実な少年に育った。
対して1つ年下の第二王子であるチャールズ王子は、出来の良い兄と比べられることに反抗し、やんちゃで俺様な少年に育っていた。王族に必要な教養や最低限のマナーは身に付いているが、自由奔放に動き回り、勉学よりも体を鍛えたり、人と交流することを好んだ。俺様だが面倒見は良く、騎士達には慕われている。そんなチャールズ王子を持ち上げる人間達ももちろんいた。
しかし同じ両親から生まれた兄弟であり本人達は仲が悪いわけでもなく、よっぽどの事件が起きない限りはハロルド王子の即位は変わらない。そしてそのよっぽどの事件というのが起きるような人柄ではないことは皆が知っていた。
そんなハロルド王子とチャールズ王子が対等に張り合えることが1つだけあった。結婚と世継ぎの問題だ。
ハロルド王子は誠実過ぎて、なかなか特定の令嬢と仲良くなることはできないのではないか、と言われていた。若くから執務を手伝っており、貴族のご令嬢と触れ合う機会もない。慕われており人気も当然あるが、夜会に出る前の年齢だからかまだ遠巻きに見られている。
対してチャールズ王子は騎士団の練習場や、親しくなった公爵家の令嬢とも交流があり人気がある。特定の令嬢と婚約していないのは、まだまだ遊びたい盛りなのか、兄であるハロルド王子が婚約前であることに気を遣っているのか、どちらかもしくは両方だと言われている。
リチャード王は自身の若い頃がチャールズ王子のようであったこともあり、ハロルド王子のことを心配していた。
「手伝いばかりせずに自分の好きなことをしたらどうだ」
「父上の…そして民の為になることが嬉しいんです。それが私の好きなことです」
久しぶりに王族が揃って夕食を囲んでいる。広い食卓には王と王妃、二人の王子が座っていて、その後ろには給仕係が何人もお皿やワインを運んでいる。
「では裏方ばかりの仕事ではなく、たまには夜会にも顔を出したらどうだ」
「いえ、13歳のデビューを記念すべきものにしたいので」
「ハロルド…真面目なことは喜ばしいが、先が思いやられるな」
リチャード王は食事の手を止めて、ため息をついた。
ハロルド王子は眉尻を下げながらも微笑みを絶やさなかった。
チャールズ王子が食事の手は止めずに、助け船を出す。
「兄上がしっかりしてれば俺は好きに出来るから、ずっとこのままでもいいよ。世継ぎが心配なら俺がいるから大丈夫だって」
「お前は別の意味で心配だ」
「チャールズはもう少し落ち着いた方がいいわ」
嗜める両親を余所に、ハロルド王子は内心嬉しかった。
チャールズは軟派な成りをして口調も砕けさせているが、本当は心優しい弟だ。自分に求められていることをよく理解し、再現に努めている。いかにも自分の為のように言葉にしているが、私に気を遣ってくれているのが分かる。
「それで、そこまで言うからには、ダンスに誘う相手は決まっているんだろうな」
「ええ、セントフォード公爵家のイザベラ様をお誘いしています」
驚き食事の手を止める三人。給仕係達は手を止めはしないものの、視線を交差させ、二人の会話に耳を澄ませているようだった。
リチャード王子が真っ先に声を上げた。
「はあ?兄上が知らないわけないよな?酷い我儘だって噂だぜ」
「ウィリアムの娘か…確かにセントフォードを蔑ろにするわけにはいかないが…」
「お会いしたことはありますの?」
二人の言葉を繋げるように、レイチェル王妃が尋ねた。何かロマンチックなエピソードがあるのかとわくわくしているような少女のような目をしていた。
ハロルド王子も食事の手を止め、にこやかに応える。
「ありません」
「まあ!それでは何故?」
「彼女がセントフォード公爵家の長女で、私は第一王子、そして年が同じです」
「そんなことで決めるな!子爵でも公爵でも、会って見て好きに選べばよいのだ。私達にはそれが許されている。国内で見つからないなら、お前もロクタリーヌに行けば良い」
「そうね…せっかく王族の恋愛が許されている国ですもの、家柄に縛られることはないわ」
父上は隣国のロクタリーヌに留学した際、母上に一目惚れしそのま連れ帰ってきた。セントフォード公爵家と王族は結び付きが強いが、近年はロクタリーヌ国との方が関係が深い。同盟を組んだ頃からだ。しかしそろそろ弛んできている国内の地盤を固めねばならない。王族が平民と結婚しても許された時代とは変わってきているのだ。
チャールズも情勢はわかっていて、結婚相手は慎重に選ばねばならぬことは分かっているのだろう。黙ったままだった。
父上と母上は少し楽観的なところがある。
「まずお誘いするのはイザベラ様が良いと思いました。もちろん好きになるかわかりませんから、夜会では他のご令嬢ともお話してみて考えますよ」
そう言うと両親は納得してくれた。
ダンスを1曲踊っただけでは婚約とはならない。1曲だけなら家同士の付き合いではよくある話だ。デビューの夜会では特に、顔見せと結婚相手を探すために色んな人と踊ることが多いが、私はイザベラ様以外と踊る気はなかった。変に期待を持たせてもその後が大変だ。
セントフォード以外の公爵家はそこまで上下がはっきりしていないから、必ずどこかに歪みが出る。一番古く大きな公爵家で、前騎士団長の祖父と現宰相の父を持つイザベラ様と結婚するのは国内に歪みを待たせずかつ実権を強固なものにするのに最適だ。久しぶりのセントフォードと王族の婚姻はロマンチストな国民にとっても喜ばれるだろう。
しかし何度家を訪ねても彼女と出会うことが出来なかった。それは逆に、彼女が自身に求められていることを分かっており、だからこその行動だとも言えた。王子の相手にと期待され、出会ってしまえばあとは一目惚れなどと理由をつけて周囲を固めれば婚約できる。彼女は我儘だなんだと言われているが頭が悪いわけではない。むしろ賢い。糾弾されないギリギリのラインを楽しんでいるようにも見える。事実、よくない噂は流れていても、その証拠はなく、家柄か彼女自身かを求める求婚は多いときく。
貴族と違い王族には恋愛結婚が許されている。そして民はそれを求めている。愛し合う二人だからこそ国を愛し、尽くし、守れるのだと信じられている。世に出回る絵本や物語がそうさせているのかもしれない。会ったこともなく無理やり婚約したとなれば、どこからか噂は流れ、信頼にヒビが入るだろう。
何ヵ月も経っても、両親の不在時に伺っても、一向に会えないので、仕方なく母上の手を借りた。それがお茶会だった。
出席者は母上と私、セントフォード公爵家のクロエ様、そしてその娘、イザベラ様とシャーロット様。
ようやく会えた。絵で見ていたよりも綺麗な方だった。クロエ様に似ているが、それよりも切れ長な目で凛々しい顔立ちをされている。挨拶でにこりと笑ったかと思うと、お茶を飲みながら始終しかめ面をしていた。ご丁寧に、母上とクロエ様には見えないように正面に座る私にだけ向けられている。
(これは相当嫌われているな)
イザベラ様と私の間にはシャーロット様が座り、お茶とお菓子を楽しんでいる。イザベラ様ほど明確な敵意は向けられていないが、避けられているようだった。優しく可愛らしい顔立ちでウィリアム様に似ている。イザベラ様にお菓子を勧めたりして可愛らしかった。イザベラ様はというとお菓子を無視してしかめ面でお茶を飲み続けている。
イザベラ様の笑顔が見たいなと思った。作り笑いではなく、本当に笑ったらきっともっと素敵なお顔なんだろうな。
「ねぇ、お母様。私お庭が見たいわ」
「まあ!イザベラ様はお花が好きなの?私自慢の庭なの!ぜひ見てちょうだい」
「イザベラはお茶よりもお外で遊ぶ方が好きなのよね」
「私が案内しましょう」
「そうね、ハロルド、案内して差し上げて」
「はい」
案内役を買ってでると、イザベラ様はキッとこちらを睨んでいた。そんなに怒らなくてもいいのに。
「シャルも行きたい!」
「シャーロットは危ないから残ってお茶しましょう」
クロエ様に嗜められながらも、行くと言ってきかないシャーロット様。イザベラ様は嫌そうな顔でシャーロット様を見ていたが、ふと思い付いたように、にやりと笑った。椅子から降りて、シャーロット様の手をとる。
「シャーロットも一緒においでよ」
「はい!」
「二人とも…!」
クロエ様は困ったように二人を止めようとするので、声をかけた。
「問題ありません。騎士も連れていきますから」
「殿下…申し訳ありません」
「いえ、母上とクロエ様はゆっくりされてください」
既に椅子から降りて手を繋ぎお庭に向かおうとしていた二人に、行きましょうと声をかけて先導した。
二人は手を繋いだまま、後ろをついてきた。その後ろを騎士とメイドが1名ずつ着いてきている。庭の紹介を話している間、シャーロット様は手を繋いでいるのが嬉しいのかイザベラ様を見上げていて、イザベラ様は何かを探してずっとキョロキョロしていた。
「あそこに何か落ちてますわ!」
「ほんとだー!」
イザベラ様が木の根元を指差すと、シャーロット様が駆け出してしまったので私も追いかけた。拾った枝を嬉しそうに空に掲げて見ていた。
「綺麗な赤い実がついてる!」
「シャーロット様、お手は大丈夫ですか?危ないですよ」
「お姉様とよくお庭遊びしてるから大丈夫です」
そうは言っても怪我をされては大変だ。しかしシャーロット様は「ベリーの実に似てます!食べられますか?」と大変気に入られたようで手離す様子もない。枝にトゲはないようで、気をつけていれば無理に取り上げる必要もないと考えた。
「そのままでは美味しくありませんが、持って帰っていただいても宜しいですよ」
女性は幼くても綺麗なものや美味しいものが好きなんだな。もしかしたらイザベラ様もこういった贈り物を渡せば笑ってくれるだろうか…。
振り返ってみると、そこにイザベラ様の姿はなかった。
驚いて辺りを見渡すが見つけられない。騎士とメイドも見失ってしまったのか、イザベラ様はどこかと辺りを探していた。
「あっお姉様!」
シャーロット様が指を差す方を振り返ると、植木の向こう側に、走り去っていくイザベラ様の背中が見えた。
「きっと追いかけっこですわ」
シャーロット様は枝を手にしたままイザベラ様を追いかけ始めた。小さい頃のことを思い出し、思わず笑ってしまった。
本人はお庭遊びと言っていたが、多分違う。後ろを付いて回る弟が疎ましく逃げていた時期が私にもあったな。
騎士とメイドにも声をかけて二人を追いかけた。
庭を抜けて城の中に入り、廊下を走り、階段を駆け登ったりした。一人なら追い付けたが、枝を持ったシャーロット様を手伝っているとなかなか追い付けなかった。2階にたどり着いたときには廊下にイザベラ様の姿はなく、手当たり次第に扉を開けていくしかなかった。途中で奥の部屋から声が聞こえたような気がしてその部屋の扉を開けると、テラスの手すりの上でバランスを崩すイザベラ様の姿が目に入ってきた。
駆け寄ったがその手は空を掴み、ガサガサと木の枝が折れる音と落下音が聞こえた。──そして、冒頭に戻る。
騎士達に介抱され寝かされていたイザベラ様は、顔や手足に擦り傷がたくさんあったが、頭から血を流したりはしておらず、意識はないが息はしていた。受け身をとれたのであろう。頬に触れると温かみがあり、心底ほっとした。
遅れてやってきた王室魔術師のマギアのおかげで外傷はすっかり良くなったが、すぐには目を覚まさないということだった。自宅で安静にするため直ぐに連れ帰られた。その夜は、生きているとわかっていても心配で落ち着かなかった。
翌朝見舞いに行ったが、彼女はまだ眠ったままだった。その姿はまるで眠り姫。はやく目を覚ましてほしいと切に願った。夕方に目が覚めたと伝え聞いた時は、すぐに様子を見に行きたかったが、少し時間を置くことにした。事件を聞いて他の令嬢をと勧める周囲をまず説得した方がよいと考えた。周囲の説得は簡単だ。父上と母上が婚約したときと同じ"一目惚れ"は王族の特権に近い。問題はイザベラ様をどう納得させるか。どうやって、心を開いてもらうか。
はじめから嫌われていた。そして初対面は嫌な思い出として残ってしまっただろう。
何を話せば、何をすれば、何を渡せば…そんなことを考えていると、あっという間に1週間がたった。
「予定通り、ですか」
セントフォード公爵家に向かう馬車のなかで、ダニエルが口を開いた。馬車の中には私とダニエルの二人しかいない。二人きりになる機会をずっと待っていたのだろう。
ダニエルには数年前から側近として1日のほとんどを一緒に過ごしてもらっている。年は3つ上で、勉学も武術も極めており、護衛も兼ねている。口数が少なくそっけないので冷たく思われることもあるが、信頼のおける男だ。
「いいえ、予定外です。予定よりも大変なことになりました」
ダニエルは黙ったまま続きを待っている。
「まさか本当に一目惚れするとは思いませんでした」
「殿下…私には取り繕わなくても良いです。ご命令があれば今からでも糾弾の材料を集めてくることも出来ます」
ため息をつきながらダニエルが言った。信じていないようだ。
私はそれが可笑しくて笑ってしまった。
「私が余所行きの言葉だから信じてないな?」
「それもありますが、あんなことが起こって、一体あのご令嬢のどこに惚れる要素があるのかと」
「ダニエルでもご令嬢をそんな風に言うことがあるんだな。まあ会ってみればわかるよ。彼女は意外に賢い」
「賢いご令嬢が2階のテラスから落ちますか」
「子供っぽいところがあって可愛いんだよ」
「あなたも同じ年の子供でしょう」
段々イライラしてきたダニエルが可笑しくて、会えばわかるよと同じ言葉を重ねて会話を切り上げた。