目覚めは勿論突然に
目を閉じている筈なのに明るい。白い光の中をチカチカと眩い光がちらついている。
もう朝か。昨日は山のような書類を片づけた後、全力で走って終電に乗ったくらいだし、疲れてカーテンを閉め忘れたのだろう。そうだ、あまりにも疲れていたものだから、電車の座席に座ってすぐに息を整える間も無く寝てしまったくらいだし。
あれ?電車を降りた記憶がないな。じゃあ、ここは、どこだろう?瞼が開かない。それに体の自由がきかない。
「お姉様…っ!」
「イザベラ様!」
はるか頭上で女の子の金切り声と、男の子の焦ったような声が聞こえた。
30に近くなるものの、自分の子供はもちろん、兄弟がいないので甥っ子も姪っ子もいない。うちのマンションには小さなこどもはいなかったと思うんだけど、何かあったんだろうか?と思いながらまた意識を手放した。
いけない、二度寝してしまうなんて。よっぽど疲れていたのかも。今日お休みだったかしら。
ゆっくりと目を開けると、知らない天井が目についた。可愛らしいピンク色で、素材はふわふわしていそうに見える。これは天井というよりも、クッションのような…何だろう?体はふわふわのものに包まれているし、ベッドのようだ。寝起きの回らない頭で考えていると、視界の端に誰かの心配そうな顔が写り込んだ。金色の立派な髭を蓄えた男の人だった。
「イザベラ!よかった!」
両手で挟み込むようにガシッと右手を握られた。起きる前から握られていたらしい左手に右手が重ねられる感触があった。
心配したんだぞ、と泣きそうに顔をしかめている。手を握ったまま後ろを振り返り、何やら指示を出していた。その後に女性の声と、それから扉の閉まる音がした。
もう一度こちらを覗き込んできた顔をよく見ると、立派な髭で貫禄があるように見えるが、皺は少なく、顔立ちは私と同じくらいの年頃だろうか。色白で彫りが深い。そして瞳は翡翠を連想させるような鮮やかな緑色だ。西洋風の美形の知り合いはいなかったと思うけど、見たことはある気がする。俳優さんかな?
キョトンとしたまま顔を見つめ続けていると、再び目があった。
「イザベラ?まだ痛いのか?」
なんとなく私の名を呼ばれた気がした。うん、イザベラとは私の名前だ。そんな気がする。
体に神経をやると、全身が酷い疲労感に包まれていたが、特別に痛むところはなかった。
ふるふると、少しだけ首を振って応えた。
「あんなに元気いっぱいだったのに、すっかり大人しくなってしまって…怖かったのだな。もう大丈夫だよ。治癒魔法をかけてもらったから、少し怠いかもしれないが、直によくなるさ」
左手は私の手を握ったままに、右手で頭を撫でてくれた。大きな掌の温もりに覚えがある。こうして撫でられるのが大好きだ。そうか、この人は、私の…。
「お父様?」
「どうした?何か欲しいものがあるか?」
「…お水を、ください」
寝起きだったからか、声が掠れてしまった。
お父様は少し驚いたような顔をして、優しく笑った。そして私の頭をもう一度撫でて、離れて行った。
「すぐに持ってこさせよう」
再びピンクの天井が視界を埋める。扉の閉まる音がした。
そうか。私、イザベラ・セントフォード。セントフォード公爵家の長女として約13年分の記憶がある。我儘で高慢で、悪の限りを尽くした記憶があるわ。
妹のお気に入りのドレスを汚したり、メイドを虐めて担当から外したり、お庭をめちゃめちゃにして妹のせいにしたり、ご飯が気に入らないと溢したふりをして作り直させたり。ドレスやお菓子をたくさん買ってもらって贅沢三昧したり、国で一番の公爵家であることを笠に、貴族の中では下の位に当たる子爵や男爵のご令嬢を虐めたりもしていた。
ああ、それから、それ以前の、27年分の記憶がぼんやりとある。私きっと電車で寝てしまって、そのまま目を覚ますことなく死んでしまったんだわ。車掌さんに迷惑かけてしまったよね。誰も引き取ってくれる宛なんてないし、ちゃんと火葬してもらえたかしら。見つからないまま腐ってたりなんかしたら、嫌だな。
視界の端に今度は女性がうつり込んだ。コスプレで見たことがあるようなメイド服を着ている。
「お嬢様、お水をお持ちしました。起きられますか?」
1度だけ頷いて体を起こす。メイドと思わしき女性は途中から背中を支えて起きるのを手伝ってくれた。支えたままで、お水の入ったコップも顔の近くまで持ってきてくれる。
「ありがとうございます。自分で飲めます。」
「えっ、あ、はい!どうぞ」
コップを両手で受け取り水を飲む。その間もメイドさんは支えてくれていた。
結構寝ていたのかもしれない。すごく喉が乾いていたので、一息で飲み干した。
「ふーっ、もう一杯貰えますか?」
メイドさんの顔を見ると、すごく驚いた顔をしていた。勢いよく飲み過ぎたかしら。こんなに飲むなんて思わずに1杯しかなかったのかもしれない。
「すみません。無いようでしたら、もう大丈夫です」
「いいえ!あります!お待ちくださいませ」
水差しを持ってきてくれたので、空のコップを持ち上げ、ついでもらった。その仕種を見たときも驚いていた。飲んでいる間もじっと見つめてきて少し気になったけど、喉が乾いていたので5杯もおかわりした。何も言わずとも空のコップを差し出すとおかわりをついでくれた。
このメイドさん、見たことがある気がするのだけど、名前が出てこない。忘れてしまったのかしら。
「もう大丈夫です。ありがとうございます」
「とんでもございません」
「ところで、ごめんなさい、貴方のお名前が思い出せなくて…どなただったでしょうか?」
「私イザベラ様のお世話をさせていただいておりますルージュでございます」
ルージュさんは空のコップを預り、そのまま深々とお辞儀をした。その向こうに丁度部屋の扉が見えて、誰かが入ってくるのがわかった。
「イザベラ!」
「お母様」
「心配したのよ、よかったわ、本当によかった!」
薄いグリーンの生地に濃いグリーンのレースが大人っぽくあしらわれた上品なスカートを持ち上げて駆け寄り、ベッドの端に座ると私をぎゅっと抱いてくれた。ルージュさんはお母様の声が聞こえた時にすっと頭をあげずに壁際まで下がっていった。
「もう目を覚まさないんじゃないかと、怖かったの。皆心配したのよ!ああ、私の可愛いイザベラ、お顔を見せて」
少し離れると両頬をそっと手で包み、私の顔を除き込んだ。透き通るような肌にグレーの瞳がとても綺麗だ。涙が浮かぶ瞳はいつもよりも薄い色に見えた。髪の色は赤みがかったブラウンで、綺麗にまとめあげられている。
今日のスカートも薄いグリーン。
お母様は緑色が好きだった。お父様の瞳のようだといって、薄いグリーンのドレスや、エメラルドの装飾をよくつけていた。年を重ねても愛し合う二人は政略結婚の多い貴族にしては珍しいおしどり夫婦だった。
「たくさん心配かけてごめんなさい。私があんなことしたからいけなかったんです。自業自得なんです」
「まあ!そんな風に思わなくていいのよ、みんな貴方が大切だから心配したの!無事で何よりだわ……でも、危ないことはもうやめてね」
「はい。もうしません」
「わかってくれて嬉しいわ。貴方は私達の子供なんだからいつかわかってくれると信じてたの。でも教育不足で怖い思いをさせてしまったことは申し訳なく思うわ」
お母様は私の頬を撫でて、もう一度ぎゅっと抱き締めてくれた。背中に手を回して私も抱き締め返す。
イザベラは両親にすごく愛され大切にされているんだな。それなのに悪戯したり、悪いことばかりして、迷惑かけてばっかりだった。これからはもっと家族を大事に、良い子にならなくちゃ。
意識を失う前──今日、目が覚める前のイザベラの最後の記憶は、妹の金切り声を聞いたときだ。
私と妹はお母様に連れられて王妃様が主催のお城でのお茶会に参加していた。妹はお茶会が好きで喜んでいたが、私は不貞腐れていた。お茶会が好きではないのに、今回だけは必ず出なさいと逃げ道を塞がれ無理やり連れてこられたのだ。流石に朝からずっと近くにお母様がいる状況で、走って逃げたりとか駄々を捏ねて暴れたりとかはしなかった。
はじめは澄まし顔で紅茶を飲んでいたが、庭を見たいと言ってうまく抜け出すと、案内役についてきた王子様と何故かついてきた妹を撒いて、お城の中の探索に勤しんだ。騎士やメイドから隠れながら進むうちに辿り着いた部屋の外にお庭が見えた。お茶会の様子を見ようとテラスに出ようとしたところで、部屋の扉が開いた。
「お姉様?ここですか?」
自分の後を付いて回る妹が少し鬱陶しかった。虐めても撒いても何故か見つけてしまうところも嫌いだった。そおっと入ってきた妹を睨み付ける。お互い子供のうちは姉妹でこのような関係が出来てしまってもしょうがない気もする。今の私ならそう言えるが、13歳のイザベラには妹を思い遣る余裕はなかった。
キッと妹を睨み付けると、小さな両手に抱えられた赤い実と桜色の花のついた木の枝が目についた。
「何でそんなもの持ってるの」
「これは…ハロルド殿下が、落ちてるやつは貰っても良いって言って下さったの」
「へー良いなあ、私にも頂戴よ」
「やだ!シャルが見つけたんだもん!」
妹はギュッと枝を握り直した。
特別欲しかったわけじゃない。
でも妹が大事そうに持ってるから奪いたくなった。
「寄越しなさいよ!」
無理やりに奪おうとして妹と揉み合いになる。うまく意識を反らせば手を離させることもできたかもしれないが、一度抱えたものはなかなか離さない妹。負けず嫌いなのか頑固なのか、そういうところは姉妹で似ていた。
「お外にあるからお姉様も自分で見つければいいじゃない!これはシャルのなの!」
あんまり煩くされると誰かが来てしまうかもしれない。
私は妹から手を離し、自分で取って見せると言って、お庭ではなくテラスに向かった。さっきテラスの近くまで枝が伸びていた木がおそらく同じものだ。
折って取ればいい。そうすれば妹より大きなものがとれるだろう。
テラスの手すりに乗り上がり、枝を折ろうと手をかけて、そして──バランスを崩し落下した。ガサガサと木の枝に引っ掛かりながら落ちたのを覚えている。地面に激突した衝撃はいまいち覚えていない。忘れていて良かった。あまり思い出したくはない。
もしかしたら死んでいたのかも、と想像するとゾッと悪寒が走った。
お母様は体を離すと優しく微笑んでくれた。私もなんだか嬉しくて微笑み返す。美人なお母様とお父様の元に生まれて、愛されて、なんて幸せなんだろう。
「シャーロット?どうしたの、入っておいで」
開いたままの扉から、ひょこっと可愛い女の子が顔をだした。まるでお人形のような可愛らしさで、知っている筈なのに改めて目にすると驚いた。
こちらを伺いながら、そっと部屋に入ってくる。目はまんまると大きな二重で、瞳の色が左右で違い、右がお父様の緑色、左がお母様の灰色と同じだった。髪は金髪に少しピンクがかっていて、胸下まで伸びたゆるふわウーブのそれは輝いていた。淡いピンクのフリフリスカートもよく似合っていて、天使のような姿だ。
後ろ手にメイドさんのスカートを握っていたようで、困った顔でメイドさんが一緒について出てきた。
なんて可愛さでしょう!これが私の妹だなんて!!何故今まであんなに意地悪していたのかしら!
「シャーロット、心配かけてごめんね、もう大丈夫だよ」
声をかけると、一瞬ビクッとして固まり、瞬きを何回かした。大丈夫だよって伝えるように微笑み続けると、メイドさんのスカートを離し、わっと泣き顔で駆け寄ってきた。
お母様の腰に抱きつき一旦顔を埋めると、ちらりと私を見た。
「シャルのこと、怒ってない?」
シャルとはシャーロットの愛称だ。シャーロットは今年で11歳になった。しかし見た目は6歳くらいにも見える。小柄で、顔立ちが幼い可愛さであるのと、少し舌っ足らずな喋り方がそれらを助長している。一人称が自分の名前というのもかなり幼く感じる。
「どうして?」
「シャルが意地悪したから、お姉様が痛い思いした」
「違うよ、私が悪かったの。シャーロットは意地悪なんかしてないわ。それに、ほら、もう痛いのないよ」
笑顔で両手を広げて見せると、お母様がシャーロットを抱えてベッドに膝立ちさせてくれた。
じっと見つめていたシャーロットは、おいで、と言うと、首に手を回しぎゅっと抱き締めてくれた。強く抱き締めてくれて、少し苦しかったけど、心配してくれたんだなと嬉しくなった。
記憶の中ではあまり仲が良い姉妹ではなかった。面と向かって喧嘩したことはないけれど、悪戯した後に泣いてる姿をこっそり見に行ったり、お父様に買ってもらったものを見せびらかしたりと、笑顔で笑い合うようなことはなかった。それでも、たくさんの時間を一緒に過ごしたのも確かだ。怪我をしたお茶会の時に限らず、何かとイザベラの後ろをついてきていた気がする。
私がお勉強の時間に抜けだして探検して遊んでいたら、いつの間にかシャーロットも後ろをついて来ていたことがあった。家庭教師の先生がきたときにクローゼットに隠れていたら、隠れそびれたシャーロットだけ連れ戻されて行ったこともある。後からこっそり部屋を覗いたら、泣きながら机に座って勉強させられていた。逆に、シャーロットだけお母さんに甘やかされてお菓子を貰っていたときは、にこにことこちらを見ている顔が凄くムカついたこともあったなあ。お菓子を奪うのに失敗し癇癪を起こした私はメイドに酷くあたって、物を壊したり、とても迷惑をかけてしまった。
お父様は私に甘くて、お母様はシャーロットに甘い。昔からそうだった。
今も、姉を心配する妹に感動しているようだ。私よりもシャーロットを見て涙を浮かべている。もちろん、私のことも大切に考え、心配してくれていたのは本当だと思うけど。
頭を何度か撫でてあげると、満足したのかシャーロットは離れていき、今度はお母様に抱きついていた。その背中は小さく、振る舞いを何度見てもやはり6、7歳のようだ。お母様が甘やかすから幼いままな気がするけど、それはイザベラにも当てはまることなので、私の口からは言えない。
こんなに可愛い妹を虐めていただなんて、これまでの私は本当に意地が悪い子だったのね。
お母様に愛されている妹が妬ましかったのだろう。両親は私のこともちゃんと愛してくれているのに、イザベラの心が幼いばかりにそれに気づけなかった。
いつの間にか部屋に戻ってきていたお父様が、私とシャーロット、お母様の三人を大きく包み抱きしめてくれた。
決めたわ。せっかく前世の記憶を思い出して、精神年齢が高くなったのだもの。私、良い子になって、家族のため、周りの人のために尽くすことにする!