99 狂気を塞き止めたのは、絆
(清廉なる一滴)
押し寄せる濁った狂気を、笑って両手を広げて受け入れる。
揉みくちゃにされ、ずたずたに引き裂かれ、全てが塗り潰されて、
私は飛び上がった。
見えない翼を背中に抱き、青い大空を目指してさらに勢いを付ける。
ただ今は、どこまでも昇って行きたい、ただそれだけだった。
昇って行く。
昇って行く。
どこまでも青い空が続く。
濃密な青い空はどこまで行っても青いばかりで、
いつの間にか前に進んでいるのかも分からなくなった。
ふと、その青い空は確かな密度を持って存在していることに気付いた。
液体の感触。
周りは、透明な液体で満ち満ちていた。
私の体にも浸透してくる。
純粋な願い。
あんなにもけたたましく鳴り響いていた音が、今はない。
笑ってはいなかった。
呆けていた。
その場に佇んでしまっている。
この感覚を不思議がる。
とうの昔に狂ってしまった私には、全く理解することができなかった。
それは、あまりにも美しかったのだ。
***
「おかーたん、おかーたん…………」
娘は母に抱きつき、ただひたすらに呼び続けていた。
娘はどれほど泣き続けたのだろう?
娘はどれほど呼び続けたのだろう?
母が半濁した瞳を宙に向けて泣き叫んだのはいつだったか?
母の見開かれた瞳は濁りきって何も見ず、突如として高らかに笑い始めたのいつだったか?
今まで食事も取らずに床に就いていた母が、何の前触れもなく立ち上がり、まるで飛ぼうかという仕種を取ったせいで、娘が跳ね飛ばされたのはいつだったか?
娘が呆然としてしまったのは一瞬だけだった。
飛び立とうとする母を留めるかのように押し倒し、胸の上で泣きながら呼び掛け続ける。
帰ってきてほしいのだ。
ただその一心で。
◇◇◇◇◇◇
(遡りし断章 柘榴)
白き光は聖なる光
暗き光は闇の光
そのペンダントは九つ色に光を変える
闇色の光は私を破滅に導き
白き光が私を一時の幸せへと導く
私が願ったのは何なのか
二人が持つは、本物とレプリカ
分かたれたものは互いに惹かれ合い、あり得ぬ感情を形作る
それが偽りかどうかは今際の際に問題ではなく、
結果は残酷な物でしかなかった
白き光は暗き光へ変貌するまでの仮初の姿
捏造された幸せは、不幸へと繋がるだけのまやかし
そして、ペンダントは白き光を放ち始める
動かしたのは、純粋な涙
◇◇◇◇◇◇
その願いは温かかった。
そして気付かされる。
私は誰?
私の裡から帰ってきた答えは二つあった。
フォルティア=ホワイトハートと言う仮初の人格
ガーネット=ブリージングと言う隠された人格
私は迷いなく片方を選択した。
ここは、どこ?
その疑問が浮かぶと、目の前の情景が一変した。
ここは私の故郷。
シャルトとシャルティアと私の三人で暮らしてきた家。
この温かいものはなに?
その疑問に意識を向けると、私の体の上に何か軽くて動くものがいると認識できた。
私の胸が温かいもので濡れている。
それが、シャルティアの流した涙だった。
そっか、私にはシャルティアがいるんだ。
私の『意志』が、四肢に伝わって行く。
両腕が、ゆっくりと動き出した。
静かに、でも、確実にシャルティアを抱きしめてくれた。
シャルティアの瞳が驚愕に揺れるのが見て取れる。
強ばる体を優しく抱きしめながら、私は万感の思いを込めて囁いた。
「ごめんね。つらかったよね。ありがとう、ルティのおかげで帰ってくることができたよ」
うろたえていただけだった瞳が忙しなく動き出し、急速に涙が形作られていった。
「……おかーたん、おかーたん!!!」
また泣き出してしまったシャルティアを抱きしめながら、私は謝罪の言葉をただひたすらに伝えていた。
******
部屋の有様は、それはもうひどいものだった。
全てが散らかってしまっており、何もなされてはいなかった。
重く、……重い体を引きずるようにして、部屋を片付ける。
シャルティアのために食事を作り、私もどうにか喉に通した。
これが、帰ってきたからの初めての食事だったのだ。
どれだけの長い時間が過ぎたのだろう。
後から考えると不思議で不思議でしょうがないのだが、今、その考えに辿り着くことはなかった。
あの時とは違う。
隣には不安そうなまなざしで手伝うシャルティアがいるのだ。
一人きりではない。
だから、頑張れる。
とは言うものの、結局の所体力が持たない。
すぐに床に伏せてしまう。
「ごめんなさいね、どうしても体が動いてくれないの。休ませてくれるかしら」
「……もう、行っちゃったり、しないよね?おかーたん」
「大丈夫だよ。ルティが一緒にいてくれたら大丈夫だからね」
「……ほんとー?ぜったい?」
「もちろんだよ……だから、お願い、少し、寝かせてくれるかしら」
内心、不安が無いと言えば嘘になる。でも、ここで私が完全に体を壊してしまったら、誰がシャルティアを育てていけるのだろう。
そう言い聞かせて、眠りに就いた。
◇◇◇◇◇◇
(遡りし断章 その根源)
そうして私はこんな所にいるの?
何のためにいるの?
月明かりも星明かりも届かない昏い夜。
初めて一人、彷徨った出会いの夜。
虹色に輝くものは私に向かって落ちてきて、
私自身を焼き尽くしたはずだった。
創り出されたのは一体いつだったのか。
いや、作り変えられたのではなかったのかもしれない。
何のためにいるの?
その答えはペンダントではなく、
私自身がすでに持っていたもの。
『兄を捜すため?』
『いや、そうじゃない。』
『……私自身の身の破滅のため。』
◇◇◇◇◇◇
悪夢は遡った。
どうしてこうなってしまったのか分からない。
私自身の心の奥底に眠る衝動が、私を狂気へと駆り立てようとする。
狂気に身を任せてしまえば、楽になれるというのに。
こんな懊悩を抱え込む必要もないのに。
『がんばって』
我に返る。
私にはシャルティアがいる。
シャルティアのためには、狂気に身を委ねてはいけなかった。
犠牲となったのは私の体。
めっきり弱ってしまった。
起きるたびに忘れてしまう夢のせいで、満足に眠ることは望めなくなった。
思い出してしまえば、すっきりするのだろうか?
思い出すのは……あまりにも怖い。
私は、フォルティア=ホワイトハートで十分なのだ。
過去なんて取り戻す必要はないと、
教えてくれた人がいた。
無理はしない方がいい。
******
体調を崩してから一カ月が経過した。
少しづつ少しづつ体は慣れて行ったようで、今では体力もそれなりに回復していた。
ここでの生活は少し不便だ。
近くの村へ買い出しに行くにも、それだけで半日は潰れてしまう。
大きな街道にも面していない小さな村だ。
それでも、ある程度の……生活に必要な物ぐらいなら手に入る。
そろそろ買い出しに行かないといけないだろうか?
「一緒に、お買い物にいこっか?」
「え?おかーたん、だいじょーぶなの?」
「ルティにはいろいろ手伝ってもらっているから、ずいぶんと楽になったの。でもね、もうそろそろいくつか底をついちゃう物があるでしょ?買いに行かないといけないの」
ルティに心配されながら、二人一緒に買い物に行った。
幸いなことに、私が倒れることはなかった。
気付けば、いつの間にか悪夢を見ることもなくなっていた。
……もしくは、悪夢が私の生活を侵さなくなってしまっただけなのか?
それは、この生活を受け入れることができたからなのだろう。
シャルトがいなくても、シャルティアはずっとそばにいたから、寂しさは感じなかった。
それ以上に、忙しかったのだ。
だから、忘れることもできたのだろう。
………………あの日まで。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
次話投稿は、2/10(土)です。
※予定修正しました。