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23 猫は旧友と再会し、ウサギは過去を肯定する

「…」


 声がした様な気がしたので、イリジャは顔を上げた。

 外の喧噪とはうって変わった静けさが、医務室のある一角にはあった。

 無論、窓一枚隔てた外は、相変わらず騒がしいのだ。この部屋の中にも、モニターが置かれている。ただ、人いきれで気分の悪くなった観客のために、その音はずいぶんと抑えられている。


「大丈夫か?」


 うん、とつぶやかながら、キディは自分の額から目にかけて乗せられていた濡れタオルを取り、ゆっくりと身体を起こそうとする。だがまだ頭がふらつくのか、すぐに手を横についてしまう。ベッドの側の椅子に座っていたイリジャはそれを見て、背中を支えた。


「まだ無理しない方がいいぞ」

「大丈夫… 試合は?」

「9回が始まった。招待チームの攻撃。でも、…ああ、もう一人アウトになってる」


 モニターには、カウント数も出ている。ストライクが一つ、ボールが二つ。そしてアウトが一つ。


「でも、ま、よくやったよな。この回点が取れなくても、この後、必死で守れば、招待チーム、勝つぜ」

「ごめん、イリジャ」

「何。別に気にすんなよ。お前結構軽かったし」

「そうじゃ、なくて」


 キディは顔を上げた。


「ずっと、忘れていて、ごめん」


 途端、イリジャは大きく目を見開いた。


「お前、ずっと近くに居たんだよね。俺があの街に住み着く様になってから」

「―――おい」

「なのに俺、ずっと思い出さなくて、ごめん」


 どうして気付くことができなかったのだろう、とキディは思う。この友人。幼なじみだった男のことを。

 イリジャは黙ってぽんぽん、と彼の背中を叩いた。


「謝ることはないさ」

「だって」

「俺だって、あの時までは、無理に思い出そうとも思わなかった。だってそうだろう、お前が当局に連れていかれたって聞いて、もう駄目だ、と思ってた。それはないだろう、と思った。思っただけだよ。どうしようもない、って思うしかなかったんだ」


 それはそうだろう、とキディは思う。中等学校生だろうが何だろうが、テロ行為で捕まったなら、それはもう、行き先は判っていた。

 自分に、その覚悟があったかどうかまで、今の混乱した頭ではよくは判らない。

 記憶をたどる道がつながったとは言え、その時の感情の一つ一つまで、すぐに思い出せる訳ではない。たとえ消されなかったとしても、忘れてしまうことは多いのだ。


「ただ、あのクーデターの中継の時に、お前の姿を見たんだ」

「…」

「見間違いか、と最初は思ったんだ。だけど、あのひとと一緒に居た。だから、画面の中で、妙にお前、目についた」

「マーティのこと?」

「そう。お前が、D・Dのファンだったことを、何故か、俺その時、妙に思い出してた。そうしたら、矢も盾もたまらなくなって」

「あの時の映像、見た人が多かったんだろうな」

「それはそうだろ。会社でもそうだった。もう、仕事どころじゃない」

「仕事、してたんだ」


 キディはくす、と笑う。そうその方が、よっぽど似合う。


「これでも、な。ロイシャンで、クロシャール社の支社に居たんだ。販売担当」

「クロシャール社の」

「お前の、お袋さんの会社だよな。でもそれは関係なかった」

「そうだよね。お前結構安定したとこって好きだよね」

「お前は相変わらず、そうじゃない」


 ははは、とキディは表情一つ変える訳じゃなく、声だけで笑った。


「あのひとが、お前にそうしろ、って言ったのか?」

「いや」


 イリジャは首を横に振った。


「俺が長期休暇を申請したら、社長が御自ら出てきたんだ。シビアだね。理由を聞いても、給料の保証とか一切せずに、認めたのは休暇そのもの、だけだったよ。でもまあ、それだけでも、会社にそのまま居ていいんだから、御の字ってところかな」

「ふうん」

「すねるなよ、キディ」

「その名で、まだ俺を呼ぶ?」

「呼ばれたいのは、お前だろ?」


 その言葉に、伏せがちになっていたキディの瞳は、ふっと広がった。


「最初はさ、記憶を取り戻させてやろう、なんて息巻いてもいたんだぜ? 『マヌカン』に入り込む前とかは」


 キディはやや困った様な顔で、首を傾げた。


「けどさ、何か、お前ずいぶん楽しそうだったから」

「楽しそう?」

「あんまり楽しそうだから、その相棒と、何か妙な仲なんじゃないかって疑ったりもしたぜ?」


 キディは苦笑する。そんなことを考えていたのか。時間の流れを妙に彼は感じる。


「奴とはそういう仲にはならなかったよ」


 他の誰となったとしても。


 キディはその言葉を飲み込んだ。それはこの幼なじみに言う言葉ではないだろう。

 そんな彼の含みに気付いたのか気付かないのか、イリジャは苦笑しながら続けた。


「でも、そう。楽しかったのは確か。俺は正直言って、思い出したくなかった」

「うん」

「でも、思い出さなくてはならない、と思ってしまったんだ。楽しかったけど、あのままでは、俺も相棒も、何処にも行けないから」

「そうだな」


 イリジャはそう言って、キディの髪の毛をかき回した。


「でもこれは本当だぜ? 俺は、お前が思い出さなくても、もっと時間かけても、友達付き合いしたいと思ったよ?」


 キディは無言で相手を見上げた。


「いや本当」

「別に疑ってはいないよ」


   *


「あと一人」


 その言葉が、マーチ・ラビットの中で大きく響いた。9回表の自分達の攻撃は、結局無得点に終わった。どうしても、この一点を守るしかない。

 あの時の様に、自分とも誰ともつかない名前を連呼されることは無くなった。その代わりに彼に集中するのは、この試合の行方だった。

 連合に参加できれば、この星系でリーグの公式戦をすることも多くなるだろう。ベースボール・ファンにとって、それはたまらないことに違いない。

 今までは、この地のローカル・チーム同士の対戦しかできなかった。たまに来る招待チームは、レベルが違いすぎた。

 しかし参加が可能になれば、状況は変わるのだ。

 たとえ当初は下のリーグに居たとしても、上がる可能性が約束される。あのコモドドラゴンズが、ナンバー3に落ちるかどうかの瀬戸際から、ナンバー1リーグにのし上がってきた様に。

 その時の姿を、観客はD・D=マーチ・ラビットに重ね合わせている。当の本人が、それを一番よく知っていた。

 そして彼は、と言えば。

 ぱんぱん、と最後の打者を前にして、ロージンパウダーを手にしながら、地面に目をやる。

 全てがすべて、戻ってきた訳ではない。

 細かい所など、全く判らないし、おそらくは子供の頃の記憶など、ぼんやりとした光の中、という印象でしかない。

 光の中で、自分は顔も思い出せない誰かと、ベースボールをしていた。

 もう少し鮮明な記憶の中でも、ベースボールをしている自分が居た。

 だが何を考えていたのか、まるで判らない。そこには、光が見られなかった。

 楽しくは、無かった。

 いや、始めは楽しかったのかもしれない。

 ナンバー2リーグでどんどん勝ち進み、とうとう優勝した時には。

 飛ぶ紙吹雪。歓声。ゆっくりとした、光に包まれた光景。

 なのに、その光が、次第に色を無くしていった。

 他人事の様に、その光景が、彼の中を通り抜けて行く。彼は投球モーションを取る。振りかぶる。投げる。


「ストラーイク!」


 アウトコースぎりぎりの球に、審判はそう判定を下す。

 落ち着いて、とばかりにヒュ・ホイはマスクの向こう側でにっこりと笑う。このまま、野球をやらせてやりたい、と彼は思う。こんな連中と、やって行けたらいい、と思う。

 他人事の様に過ぎて行く光景の中で、彼は孤立していた。

 彗星のような登場と、突然のチームの快進撃。

 自分一人に理由があった訳ではない、と当時の彼は思っていたのかもしれない。彼が発端であったかもしれないが、チーム全体も、彼に奮起されて、強くなっていったのだ。

 だが、周囲はそう見なかった。彼一人の力で、強くなった様に、報道した。

 少しだったら、それはまだ良かったかもしれない。

 だが、報道はエスカレートするばかりだった。実際彼は絵になった。映像媒体にはうってつけの素材だった。放送の視聴率は上がり、雑誌の売り上げも違う。利用が利用を生んだ。

 当の本人は、そんなことはどうでも良かった。ただベースボールをやっていられればそれだけで良かった。

 なのに、周囲がは口を揃えて言う。「そんな訳がないだろう」

 本人は、どうでもよかったから、沢山の報道に、いちいち適当に答えていた。

 何も考えていなかったのかもしれない。ただ目の前に飛ぶ蠅がうるさいから振り払っていただけ、という意識だったのかもしれない。

 それが、当のチームメイトから反感を買う羽目になるとは、彼自身気付いていなかったに違いない。

 今になれば判る、と彼は思う。誰でもない、ただの「でかウサギ」である今であれば。

 当時の周囲は「違う者」に敏感だった。

 それが同じ仕事をしているのに、自分より優秀で待遇も良い者だったら。自分が欲しいものをどうでもいい様に扱われたら。

 誰もがそう考えていたとは限らないが、そう考える者は居ただろう。そのくらい、当時のベースボール・ヒーローは、世間に疎かった。

 だから、気付いた時には、自分の首が絞められて呼吸困難になる寸前だった。

 俺は違う、と叫んでも、誰も聞く耳を持たなかった。


 自分はただ、ベースボールが好きでやっているだけなのに。


 連盟が、内乱続きで悪名高い星系への派遣を、新参者のチームに命じた時、真っ先にその理由に連盟に対するD・Dの態度を持ち出したのは、他ならぬチームメイトだった。

 何故そんなことを言われなくてはならない、とD・Dは思った。

 そんな場所に行って、もし何かがあったらどうする、と責められても、どう答えたものなのか判らなかった。そもそも何故それが自分のせいにされるのかが、彼にはさっぱり判らなかった。

 出る釘だ、とマーチ・ラビットは考える。D・Dは、「出る釘」だった。

 第二球。

 ど真ん中へ、力を込めて投げる。打者は少しだけ振り遅れて、ライト方向へファウル。ふう、と彼は息をつく。

 もう若くはない。昔の様に飛ばして行くことはできない。必要も無い。

 時間は、紛れもなく、彼の身体にも内側にも流れていた。

 今なら、その時のチームの事情も、理解できる。

 何故自分が初めは歓迎されたのに、次第にそうでなくなっていったのか。自分のどんな発言が、連盟に反感を買わせたのか。そしてその「発言」の大半は自分自身の言葉ではなく、報道が言わせた言葉だったのか。

 だから彼は逃げた。

 D・Dという名を、どうしても告げる訳にはいかなかった。

 たとえそこで、テロ行為の犯人の一味と目されたとしても、その時の彼にはどうしても。息ができなくなる前に、逃げなくてはならなかったのだ。

 無責任にも程がある、と今の彼なら思う。

 だが今判ったところで、過去を変えることはできない。もしそれが可能だったとしても、彼は変える気もなかった。

 自分はなるべくして、ここにこういう形で居るのだ、と彼は思う。

 その上で、思う。

 自分はベースボールが好きなのだ。こうして、試合をすることが、楽しいのだ。勝ちたいのだ。

 ぐっ、とボールを掴む。最後の一球となるだろうか。

 ヒュ・ホイのサインにうなづき、彼は大きく振りかぶった。


 歓声が、球場全体にわき上がった。

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