18 何となく婦人と話しこんでしまう猫
思わず前の座席を握りしめていた。
キディはその姿がグラウンドに飛び出してから、ずっと、オペラグラスから目が離せずにいた。
「調子良かったのに、交代とはなあ」
イリジャはぼやく。
「だけど審判にその調子では仕方ないわね」
と横の女性も言う。だがキディにはそのどちらの言葉も耳には入っていなかった。
マウンドに立つ、あの男は、一体誰なんだ?
あのグラビアの中にヒーロー然として居た男の姿がだぶる。似ている。あのユニフォームの配色が、コモドドラゴンズのD・Dの姿に。
「…お」
第一球がいい音を立てて、捕手のミットの中に飛び込んだ。一番打者のボトキンは、それを見送った。
マーチ・ラビットはちら、と一塁を見ると、第二球を投げる。長身の彼が、思い切り振りかぶって投げる姿は、豪快で―――キディは思わずレンズ越しに見惚れた。
第三球。結局ボトキンは、三球のど真ん中ストレートを、手も出さずに見送った。
「何やってるんだろうなあ…サンライズの先頭打者ともあろうひとが」
イリジャはつぶやく。
「そうよね。先頭打者は戦闘打者というくらいだし」
そんな言葉あっただろうか、とキディは頭をかしげる。オペラグラスから目を離して、手元の紙コップを取ろうとする。
「あ、もう無い」
「何か買ってくるか? 飲み物。ポップコーンなんかもあったぜ」
イリジャは立ち上がる。
「いいよ、もうじき売り子ちゃん達も回ってくるだろうし…」
「喉乾いてんじゃねえの? 俺ちょっと、トイレにも行ってくるからさ、ちゃんと俺の場所、確保しといてくれよ」
あ、と言う間も無く、イリジャは通路の階段をとっとと上がって行く。するとふと、キディは何となく落ち着かない気持ちになっている自分に気付いた。
そんなにイリジャを頼りにしている、という訳ではないのだが、どうもこの女性には、ちょっと距離を置きたい衝動にかられるのだ。別段彼女が嫌な訳ではない。ただ、落ち着かないのだ。訳もなく。
「あっという間に3アウトだわ」
彼女はフィールドを食い入る様に見ながら言う。
「あっと言う間、でしたか?」
「そうよ。ああ見ていなかったのね。二番も三番も、ほとんど皆見送りだったわ」
「…え」
それは妙だ、と彼は思う。
「何でそんなこと、するんでしょう? だって、最初の投手には」
「どうなのかしらね。でも、何となく、一番から三番まで、皆投手の方はじっと見ていたようね。あのラビイという名の投手」
「…そうですか?」
「球より、あれじゃまるで、投手そのものを見ているようにしか思えなかったわよ」
彼は思わず自分の顔がひきつるのを感じた。彼女の言葉に何かつなげようとするのだが、その言葉がどうしても見つからない。
代わって出てきたのは、こんな言葉だった。
「…それにしても、本当に、野球お好きなんですね」
話題をそらす。癖になっているのだ。
「ええ。息子が好きだったの」
「息子さん、ですか?」
「でももう居ないのだけど」
あ、と彼は思わず声を上げる。彼女はそんなキディを見て、口元を上げる。
「別にいいのよ。ちょっとやんちゃすぎた子でね。でももう、今会うことができたとしても、子供だなんて、言えない年齢だわ」
「あの、歳伺っていいですか?」
「あら、女性に歳を聞くの?」
「いえ、―――あの、その息子さんの」
「そうね…… 居なくなった時が、17だったかしら。生きていれば、もう…そうね、あなたくらいじゃないかしら。あなたおいくつ? 24か5、くらいに見えるけど」
「だいたいそのくらいです」
「あら、自分の歳にそのくらい、も無いでしょう、男のひとが」
キディは苦笑して、それには答えなかった。
「はじめは夫よね。ベースボールが好きだったのは。私はそうでもなかったわ」
ああまた過去形だ、とキディは思う。今は、居ない、ということだろうか。
「一人息子でね。私も彼も、色々仕事で忙しかったのだけど、それでも何とかと一緒に居る時間は作って、できるだけ、いい環境にしてあげようと思ったわ」
「いいご家庭だったんですね」
「そうかしら」
「そう聞こえますけど」
彼女はふふ、と笑った。その時、カーン、と音が聞こえた。
「あら、打ったわ」
いつの間にか2アウト、走者は一、二塁となっていた。そして迎える打者はテディベァルだった。
「あらお行儀の悪い」
「お、お行儀って」
「だってほら、せっかくのユニフォームをあんなにひらひらに」
「きっときっちりした服が嫌いなんですよ」
「あら、ユニフォームって動きやすいものだと思うけれど?」
「そういう意味ではないと思います……」
そうなの、と彼女はまだ腑に落ちない、と言った調子で首をかしげる。
「私はね、キディ君」
はっ、として彼は彼女の方を向いた。
名前を言っただろうか。
でもいや、自分はイリジャと話していた訳だし、何処かで名前は出たのかもしれない。そう自分を納得させる。どうであったか、すぐ前のことなのに、記憶が混乱している。
「こう言っては何だけど、ああいうユニフォームがとても楽で楽で楽な服にしか思えない様な暮らしをしてきたのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ」
しかしそういう彼女は格別動きにくそうな服を着ている訳ではない。ただ、すっきりしたデザインで、上等そうだな、とはキディにも判った。
「だってそうでしょう? 自分のサイズにぴったりさせている訳ではないのに、身体が楽に動く様な服って」
「でも、スポーツですよ?」
「スポーツするにしても、私には私に合ったものを、と作らされたから」
それは、もしかしてかなり上流階級に属するひとではないだろうか。彼は返す言葉が見つからなかった。
「自分の身体に合ったものを、わざわざ作らせるの。だから身体に合っていないものを身につけたことはないわ」
彼女は念を押す様に言う。
「それも、そうなんですか?」
「ええ。野球観戦をしても悪くは無い格好、という奴ね」
それにしては少々上品すぎる、とは思うが。でもまあ、「野球観戦をする貴婦人」だったら納得がいくだろう、と彼はうなづく。
「だから、きっとそれが一番いいことだ、と私はずっと思ってきたのよ。一番いいものを、そのひとの個性に合わせて作らせるってことが」
そうだろうか。彼は軽く目を細める。間違ってはいない、とは思う。だが。
「何か言いたそうな顔ね」
「……ええちょっと」
「たぶん、あなたの方が正しいと思うわ」
「俺が、何を言いたいか判るんですか?」
「正確に、判る訳じゃあないわ」
彼女は少し黙って、フィールドに視線を移した。
「それにしてもねばるわね」
「そうですね…」
そうだった。バッターボックスのテディベァルは、もうずいぶん長い間、その中に居る。
「あ、また…」
かつん、とバットに軽く当てて、テディベァルはボールを背後のネットに当てている。
ファウル! と審判の声が聞こえてた。もう何球、あの打者は当てているのだろう。
オペラグラスを開いて、キディは打者の表情をうかがう。
ヘルメットからも、納まりきれない髪がぴよぴよと跳ねて飛び出している。何やら口が上下しているのは、ガムでも噛んでいるのだろうか。
どう見ても、真面目そうな態度ではない。真面目に投げているだろう投手が苛立っているのも、オペラグラスごしに露骨に判った。
「でもあの子は頭いいのね、きっと」
「頭がいい?」
「サンライズの今の投手のマッシュは、岩石頭なのよ」
「岩石い?」
キディは思わず眉を寄せた。
「そう。すごくいいピッチングをするんだけどね。ただもう、ものすごく真面目すぎるのよ」
「へえ…… じゃあ、あのテディベァルっていう五番は、それを知ってあんなことやってるのかなあ」
「とは限らないけど」
くすくす、と彼女は笑う。
「でも、あの子の態度が、マッシュを苛立たせているのは確かね。いちいちファウルにしているけど、確実に球の乱れは出て来ているわ」
言われてみると、そうだった。主審がまたファウル! と高らかに叫ぶ。
お、とキディはその時声を立てた。捕手が立ち上がったのだ。無駄に体力と時間を掛けるのはやめろ、とでも言うのだろうか。走者が一、二塁に居るというのに、どうやら捕手は敬遠策に出る様だった。
「だったらもっと先にそうしておけばいいのに」
「だから真面目だって言ったでしょう? マッシュはそういうのが嫌いなのよ」
「勝てば、勝ち、だと俺は思うけど」
「あら、そう思うの?」
不思議そうに彼女は問いかけた。まさかそう言うとは思わなかった、と言いたげな口調だった。思いますよ、と彼はつぶやく様に返した。
「どんなことをしてでも――― そりゃあ、程ってものはありますけど…生き残ったら、それで勝ち、だと俺は思うけど…うん」
彼女はそれに答えない。言葉が足りない、とキディは思う。言いたいことを上手く言い表せない。もどかしい。
「だって、…そりゃあ結果が全て、とは俺も思わないし、卑怯な方法で生き残る、ってのはそりゃ、後味は良くないけど…」
彼女は軽く首をかしげた。
「でも、生き残ることが、一番だと俺は思うし。生き残らなかったら、楽しいことも苦しいことも、やってこないし。やってこないと、楽しいことを、掴むことも、できないし」
「まるで戦場でも走ってきたみたいな言い方をするのね」
「戦場?」
そうかもしれない。
キディは思う。
あの冬の惑星は、生き残るということに関しては、戦場の様なものだった。敵は至る所に居た。初めは看守である軍の人間達だった。次に、「仲間」の顔をした、飢えた奴らだった。
辛くなかったと言ったら、嘘なのだ。何も余計なことを考える余裕も無い程、キディはあの惑星で、気持ちを張りつめていたのだ。おかげで今でも時々、表情の出し方を間違える。
今はその状態から解放されている。友達と一緒に、美味しい食事をし、ベースボールの観戦などしている。楽しいことだ。あの惑星に居た時、こんな時間が持てるなどと、考えもできなかった。自分自身が、もっと子供の時、どんなことをしていたのか判らなかったから、こんな楽しい日々があるということすら、判らなくなっていたのだ。
「何処だって、戦場みたいなものじゃないですか? 生きてくためには」
「そうよね。それは私も判るわ」
彼女は真剣な顔で、グラウンドを見据えた。投手のマッシュは、セットポジションから、サイン通りの敬遠の球を投げた。
その時だった。
球は、テディベァルのアウトコース高めにぐん、と上がった…はずだった。
捕手が手を伸ばす。
その捕手は、打者の叫び声を聞いた気がした。いや、叫び声というよりは、雄叫びだった。
テディベァルは軽く膝を曲げると、勢いよく飛び上がった。




