17 奇妙な女性、ビーダ―退場、ウサギ登板
「おお~っ打ったぁぁぁ」
イリジャは前の座席を思わず掴んで身を乗り出した。スタンド座席の、球が落ちたあたりでは歓声が上がっている。
「すげえじゃねえの。こっちのチーム」
「そう… だね」
キディは生返事をする。彼は未だに、自分の正面に見えるベンチに座っているのが自分の相棒だ、という現実がよく理解できていなかった。
確かに相棒はこの街――― コアンファンに仕事に行く、と言ったはずだ。その仕事がこれだっていうのだろうか。
*
2アウトから、五番のテディベァルが、蜂蜜色の頭にヘルメットを乗せてバッターボックスに入った。肩につくかつかないか、程度の髪の毛は、量があるのか、ヘルメットからあちこちはみ出していた。
ふらふらとバットを揺らせながら、見逃しの三振。回は一回の裏に変わった。
「ほんじゃーいっちょ、守ってくるかあ」
テディベァルはバットをグラブに持ち替えると、自分のポジションであるレフトへと軽やかに走っていった。
「打たれるなよ?」
マーチ・ラビットはベンチを出て行くビーダーに向かって、半ば嫌みの混じった言葉を投げた。すると彼はにやり、とマーチ・ラビットに笑って返した。
主審の合図で、サンライズの攻撃が始まった。一番はライトのボトキンからだった。
スタンドから歓声が上がる。どうやらサンライズを応援する集団のものの様だった。観客は無論、対戦相手のことなど知らない。何となく不利だよな、とマーチ・ラビットは思った。
「監督、投球練習してきますよ」
「好きにしろ」
正直言って、ただベンチで座っている、というのは彼の性には合わなかった。替えの捕手のエンドローズを手招きすると、マーチ・ラビットはブルペンに入って行った。
何球か、キャッチボールをとりあえずとしていたら、ひゅん、という音が彼の耳には届いた。
いや、届いた様な気がしただけかもしれない。彼は思わずマウンドの方を見る。目を見張る。
「ストラックアウト!」
あっという間の三球三振だった。マーチ・ラビットは思わずその様子に目を取られる。二番打者も同様だった。三度、ヒュ・ホイの手の中に、乾いた音が響いたと思ったら、もうその打者の攻撃は終わっていた。
「すっげ~」
とエンドローズもその様子に目を見張る。練習の時にも何度かビーダーの投げっぷりは見てきたはずなのに。
「実戦になるとまるで違うじゃねーかよ…」
マーチ・ラビットは思わず目を細めた。
「俺こいつの後な訳?」
何となく、ビーダーに一試合任せたい様な気がしてきた。
三人目をゴロで打ち取り、ビーダーは駆け足気味にベンチへと戻ってくる。
「これじゃあ俺の出番なんてないよなあ」
やや皮肉を込めて言うマーチ・ラビットに、ビーダーは近づくと、にやり、と笑った。
「冗談じゃない」
その表情を目の当たりにした時、マーチ・ラビットはぎょっとした。
「俺はね、マーティ、あんたのピッチングを見たいのよ」
「俺よりずっと、正確で速いじゃないか」
「そういう問題じゃないんだよ」
口元を歪めてビーダーは笑った。だがマーチ・ラビットが驚いたのは、その笑顔ではなかった。目だ。
「お前さあ」
「ん?」
「投げてる時の目って、サメの様だぜ?」
「あれ、サメなんてよく知ってるね、マーティ」
ポケットに手を突っ込むと、ビーダーはベンチへ戻ろうとする。
「レーゲンボーゲンにはサメはいないのにさ」
*
「ここ、空いているかしら」
不意に声を掛けられ、キディは顔を上げた。通路に中年の女性が立っていた。隣の席。キディは自分の右隣をふっと見る。通路に面した場所に彼らは座っていた。
「あ、はい…」
前の方、とは言え、全部が全部埋まっている訳ではない。できるだけ仲間内で固まりたい、と思ってる者は、少し後ろに行っても皆で見ようと思うものである。キディの隣は、ちょうど一つぶん、席が空いていた。
ありがとう、と女性は言って、イリジャとキディの前を通してもらい、席に座った。
「お一人なんですか?」
「ええ。ベースボールが好きなの」
女性は、ややつばの広い、白い帽子をかぶり、すっきりとした筒型をした緑色のワンピースを身につけていた。白い、太いベルトがくっきりと映えている。
「お二人で見に来たの? ここの方?」
彼女はゆったりとした口調で訊ねる。
「いえ、ハルゲウから…」
「まあ、ずいぶんと遠くから…」
「ええ、でもたまには休み取ってもいいかな、って」
「そう… 仕事熱心なのね」
ふふ、と女性は笑った。ひざに両肘を、あごをその上に乗せ、しばらく黙ってゆったりと試合を眺めていた。
キディはその様子を見ながら、何となく、右腕のあたりにむずむずするものを感じていた。
試合は三回の裏になっていた。二回になり、サンライズ側も一軍投手を出してきたことから、対戦チームもなかなか打てなくなった。スクェアは詰まって三塁にフライ。ペトローネが三遊間に打って一塁に出たが、その後のウィンディが三振、投手のストンウェルが犠牲フライに失敗して3アウト、チェンジ。
「あれ、あのストンウェルって投手、俺何か見覚えあるけど」
「それはそうでしょうね」
イリジャの声に、横の女性が応える様につぶやいたので、キディは驚いて顔を向けた。
「ご存じなんですか?」
「ええ。私ベースボール好きですからね。あなた方は、全星域リーグの方のことはご存じない?」
視線をグラウンドから離さず、彼女は続けた。
「あの投手は、私の目が正しければ、元コモドドラゴンズの投手、ノブル・ストンウェルだわ」
「ストンウェル…って言ってましたね」
「私はよく知っているわ。あの投手はあのチームに居た頃は、強烈な攻め方で有名だったから。普段は大人しい顔をしてるというのに」
「へえ…」
キディはオペラグラスを構え直し、投手の顔に焦点を合わせる。確かに、そこには厳しい表情があった。
いや、厳しいというよりは。キディは思う。凶暴だ。かっと敵を見据えるあの目。なのに笑みを浮かべているの様に見える口元。彼はふと背筋が寒くなる。
セットポジションから、サンライズの四番、スパーギンへの第一球…
カーン、と突き抜けた音が、場内に響いた。
「打ったー!!」
周囲の観客がおおおおおおおおおお、と声を上げ、腕を突き上げる。真芯で捕らえたストレートの速い球は、勢いもそのままに、レフトスタンドへと吸い込まれて行ったのだ。
キディはまだオペラグラスを握ったままだった。そのまま、ストンウェル投手の表情を追った。立ち上がりの一球を狙われたというのに、その口元は変わらず、不敵なまでの笑みを浮かべている。
「あのストンウェル投手はね、点を取られると、目が座るのよ」
「それは怖いなあ」
「イリジャも知っていたの?」
「や、見たことあるかなあ、って感じ。でもコモドドラゴンズのひとだったのかー。だったらきっと、昔TVか何かで見たんだろうなあ」
「あなたは見たことが無いかしら?」
女性は首を傾げて訊ねる。キディはオペラグラスを外し、彼女の方を見た。目線が合う。
「いえ」
女性はにっこりと笑った。
*
ははは、とマーチ・ラビットは思わず笑ってしまう自分に半ばあきれていた。
ブルペンで投げながら、時々マウンドの様子をうかがっているのだが、ビーダーの口元の笑みがだんだん大きくなっている様な気がするのだ。
特にそれは、スパーギンにソロホームランを打たれてから顕著だった。くっ、とユニフォームの上着と同じ色の帽子を深めにかぶり、投げる体勢になる前に、一度打者に向かって、腰に手を当て、ビーダーは見下ろす様な視線を投げる。
挑発してるのか、とマーチ・ラビットはややはらはらする。だがその一方で、何が起こるのか、と期待している自分も居た。
そんな盟友と、自分自身に向かって、彼はふと笑わずにはいられなかった。
実際、何だか判らない「わくわく」する気持ちが、じりじりと彼の中で湧きつつあるのは確かだった。
右の手で、左の腕を押さえる。背中を、何かが押している。
四回の裏。八番のイムレを三振に抑え、九番の、現在彼らに向かって投げているマッシュがバッターボックスに入った。
お、とマーチ・ラビットは思う。マウンドではそう気付かなかったが、小柄な選手だった。しかも足は長いのに、胴は短い、という投手泣かせの体型だった。
マーチ・ラビットはふと思い立って、ブルペンを出た。何だね、という顔で監督が彼の方を向いた。
「大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
「や、何となく…」
ふん、と鼻を鳴らし、監督はベンチにふんぞり返る。
「何が起こると思うね、ラビイ」
「何がどうって訳じゃないですがね…」
そう、実際何が起こるか、なんて想像はできないはずなのだ。
「ただ、何となく…」
その時、わぁぁぁぁ、と観客の声が上がった。彼ははっとしてグラウンドに視線を移した。
そして、次の瞬間、彼はグラウンドに飛び出していた。
ふん、と監督は姿勢も変えずに、つぶやく。
「全くあの男、昔と何も変わっとりゃせんよ」
*
「あら、何があったのかしら」
のんびりとした口調で、隣に座った女性はキディに問いかけた。
「何か、ストンウェル投手が、審判に向かって、判定に文句があった様ですよ」
キディに代わって、イリジャが彼女の問いに答える。
「ああら」
女性は呆れた様に両肩をすくめた。
「プロさんがいけないことね。このままでは退場になってしまうのではないかしら?」
「いや、そうでもない様ですよ?」
イリジャはにやにやと笑いながら、グラウンドを指さした。
*
「何だってあれがボールだって言うんだよっ?!」
まずその言葉が、マーチ・ラビットの耳には飛び込んできた。まだその時には、彼はベンチの所に居たのである。
ビーダーは主審のもとに走り寄ると、今しがた、四球の判定を下した相手に向かって、叫んだ。
「ほんの少し、外れていた」
「そんなことはない」
ビーダーは帽子をとった。その凶悪なまでの視線が、露わになる。口元から笑みが消えていた。
「戻りなさい!」
「俺に命令するんじゃねえっ!」
その声を聞きつけたチームメンバー達は、守備位置を離れ、様子をうかがう様にして、そろそろと近づいてきていた。彼らは皆、この男がその様な態度を取る所を見たことは無かった。何が起こるのか、予想がまるでできなかったのだ。
「全くもって、どいつもこいつもまるで変わらん」
監督はベンチの中でつぶやく。だがそれを聞く者はいない。
ラビイさん、とエンドローズもブルペンからも出てくる。マーチ・ラビットは、ダイヤモンドのラインぎりぎりで、事態がどう転ぶのか、タイミングをはかっていた。
「本審を侮辱するのか?」
「あれは何処をどうとったって、ストライクだ。あんたの見間違えだ」
「判定に文句があるのなら、退場してもらうが」
「退場?」
くす、とビーダーの顔が笑みとも怒りともしれない表情に歪む。
「退場オッケーだね! でも一回その前に」
ビーダーは主審に向かって、腕を振り上げ、殴りかかろうとして―――
できなかった。ぐ、と腕と背中が、大きな何かで、引き留められていた。
「よお」
背後から、マーチ・ラビットが羽交い締めにしていたのだ。
「あんたが、そうするとはねえ」
「いいから落ち着けよ」
「大人になったものだよなあ、あんたが」
離せよ、とビーダーは腕を振り解く。そしてやってらんねえ、とつぶやくと、そのままベンチへと歩き出した。
「退場!」
主審の声が、改めて響く。言われるまでもなく、とばかりにビーダーはさっさとベンチに入り込み、足と手を組んで座った。
仕方ねえなあ、と監督はつぶやき、よっこいしょ、とかけ声を上げながらベンチから立ち上がった。
「ラビイ、そのままやれ!」
ちっ、とマーチ・ラビットは舌打ちをした。いずれ交代はあるだろう、と思っていたが、こういう形とは。
「それから」
監督は付け足す。何処からそんな声が出るんだ、というくらいの大声で、叫んだ。
「テディベァル!」
「へいよっ!」
即座に呼ばれた青年は答える。
「サードへ行け! センターのスクェアがレフトへ、センターには先生が入れ!」
いきなりのポジションチェンジに、驚きながらも皆、言われた位置についていく。
なかなか事態を飲み込めないマーチ・ラビットは、とんとん、と腕をつつかれるのを感じた。エンドローズが彼のグローブを差し出していた。
「あ、ありがとう」
「頼みますよ、ラビイさん」
頼みますよ、と言われても。
マーチ・ラビットはボールを受け取ると、決められた数の投球練習を始めた。
ヒュ・ホイは気楽に気楽に、と言うように、マスク越しに笑顔を向けてくる。それを見てマーチ・ラビットも笑顔を返す。
ふとふわぁ、と声がするので彼はちら、と右を見る。と、三塁に移ったテディベァルがあくびをしていた。大丈夫だろうか、とマーチ・ラビットは思ったが、その様子は奇妙に彼の肩から力を抜かせた。
ま、どうこう考えても仕方ないよな。彼は心中つぶやく。
「プレイ!」
主審が試合の再開を宣言する。一塁の走者は走る様子は無い。ワインドアップから、彼は第一球を投げた。




