13 もう一歩踏み出せない猫
「彼は、これを知ってる?」
「ううん、マーティが仕事で出て行ってから、俺はこの話を聞かされたから… ああ、何か今回、長いね、そういえば」
「そう言えば」
そうだったかもしれない、と彼女は今更の様に思う。キディは残ったミルクティを飲み干した。
「でもキディ君、これを、帰ってきた彼には、言うつもり?」
「判らない」
ぱらぱら、と雑誌をめくりながら、彼はそう答える。
「どうしようかな、と思ってる。だって奴がホントの昔の自分を知りたいと思ってるか、俺は知らない」
「知ろうとは、思わない?」
「あなたは? ゼルダさん」
切り返され、彼女はぐっと言葉に詰まる。知りたい、とは思う。だがそれが、彼のことを思って、というよりは、かなりの部分、自分の好奇心であることは認めざるを得ない。
「何かね、俺の記憶の中で、少しだけ残ってる部分があってね。それが時々夢に出て来るんだけど」
淡々と、キディは語る。何? と彼女は問い返した。
「ばらばらな光景なんだよね。すごく。でもつなぎ合わせてみると、こんなことが判るんだ。俺は、叫んでるの。でもその時、俺は後ろから両腕を掴まれてるの。前に居る誰かに俺は、叫んでるの。『何でだよ親父!』って」
ゼルダは息を呑む。返す言葉が見つからない。
「ものすごく断片的なんだけど、それだけは明確なんだ。その『親父』って人の顔も、曖昧。何か、もし写真とか何か見れば、判るのかもしれないけど、こういう顔、って俺が説明することはできない。そういう曖昧な映像が、俺の中にはあるの」
それって。ゼルダは想像を巡らす。
「それって… まさか、そのひとが、あなたを」
「どうだろ」
キディは首を軽く傾げる。相変わらず、その顔には表情の一つも無い。彼女の「恋人」と、食事をした時に見たりする、笑顔を今日は一つも見ていないことに、彼女は気付いた。
「あとは、最近気付いたんだけど。元新聞社だったリストランテって知ってる?」
「ううん、それって近いのかしら」
「割と。ほら、星の窓がある所」
「ああ、あれ。―――あれ、新聞社だったの?」
「ゼルダさんは、知らなかったの?」
知っていそうなのに、と彼は驚く。常識の類ではなかったのだろうか。
「俺、あの建物には見覚えがあるんだ。何でなのか知らないけれど、あの星形の窓のある建物が元新聞社だってことを知ってた。俺がこっち来て、そんなこと、一度も聞いたことが無いのに」
「ってことは、あなたは、そこに昔行ったことがある?」
「のかもしれない。でもそれって、もう一つの記憶よりは、ましな断片だよね。どうせ思い出すだったら、そっちの方から、自分の過去は、探り出したいよね。同じ記憶でも、嫌な切り口って、あるじゃない」
「そうよね」
彼女は自分にとっての「思い出したくない過去」がざわり、と胸をよぎるのを感じる。離婚した時の顛末は今でも考えたくはない。
「だからつまり、マーティが自分でそうしたいと言わない限り、俺もその件については、突っつきたくはないんだけど」
「だけど?」
「探してる奴が居る、ということになれば、話は別だ、と思わないですか?」
「探して――― そのさっきのフォトグラファさんのこと?」
「それもあるけど」
キディは目を伏せる。
「そのひとは、ジュラって言うんだけど」
ぺらぺら、と彼は「PHOTO/SPORTS」のページを繰る。
「ほら、ここにphoto by… って出てるでしょ。このひと」
「この雑誌に載るってのは、かなり有名なひとじゃない。どうしてその人が?」
「俺に近づいてきた。今の店の同僚。でも隠しもしなかった。俺に対して、この写真があると言ったのはそのひと」
「それって、あなたを通して、彼に会わせてくれってことなのかしら」
「それも考えたんだけど」
ジュラは、マスターの知り合いでここにやってきたと言った。だとしたら、マスター・ウトホフトの考えが、何処かに含まれているのは確かだ。
だがゼルダにそれをそのまま言う訳にはいかない。マスターは組織「赤」の代表でもある。その「知り合い」がその路線上の可能性もあるのだ。
ゼルダは「マーティの正体」に対して関わっても構わない、とキディも思うのだが、組織がらみのことには関わらせてはいけない、と考えていた。あくまで終わった「元」政治犯。その程度でいい、と。
「ゼルダさんは、この雑誌、読んだ?」
少しだけ、彼は矛先を変えてみる。ええ、と彼女は答えた。
「どう思った?」
「どうって…」
「ジュラが、自分は持っていないけど、一番詳しいのは、このバックナンバーだ、って言うんだ」
「でもそれっておかしくない?」
「え?」
「だって、そのひと、マーティをそれで追いかけてきた、って言ってるんでしょ? あなたその人から、見せてもらったから、この雑誌も探していたんでしょ?」
「うん」
「そういう人がどうして、そんな、一番詳しい分の雑誌を持っていない訳?」
「あ、古い方の二冊は、俺が単に手元に置きたかっただけ、なんだけど、一番新しい奴は、ジュラも持っていないんだって。彼も探していたみたい」
「え?」
彼女は眉を寄せる。
「ジュラはその仕事の後、ちょっと辺境に取材に出かけてしまって、ちょうどコモドドラゴンズがレーゲンボーゲンに行って、D・Dが行方不明になったことを知ったのは、帰ってから後だったんだって」
「―――あ」
ぱん、と彼女は自分の頬をはたいた。
「辺境、には色々あるわね」
「うん。たまたまそこの取材が長引いて、しかも、雑誌を買える様な環境でもなかったらしいんだ」
「でも出版社に」
「ところが、一度出回った後、その号が何故か没収になったんだって言うの」
「没収?」
「一度市場に出た分は仕方が無いとして、その号は、結局ジュラが前に撮った膨大な写真のストックから、ライターがかなり気持ちを込めて書いたらしいんだけど、それがどうも、全星域統合スポーツ連盟のひとことで、出版社から没収になったらしいの。だから帰ってきた彼がしまったと思っても」
「もう後の祭りってことね……」
彼女はため息をついた。
「でもどうして、あの内容で?」
「ゼルダさんもう読んだ――― んだよね」
「ええ読んだわ。そう、どうしてあの内容で、そんなことになるのか判らないのよ」
ゼルダは首と手を同時に横に振った。
*
コモドドラゴンズは、その青年を二年使って磨き上げた、と言ってもいい。
何せその青年にとってのベースボールと、彼らプロのチームのベースボールとは違いすぎていた。
そもそも、ゲームに対する感覚が違っていた。かけひきのかの字も彼は知らなかった。ただもう、その時持っている力だけを、ひたすらつぎ込む。
それはそれで悪くはない、と当時の監督、キダー・ビリシガージャは考えた。彼は良い監督なのだが、祝賀会での酒量が多いのが玉に瑕だった。
だが、D・Dを連れてきたエンゲイ副社長はそうは考えなかった。エンゲイは彼を、あの惑星から開放したと同時に、自分の元に縛りつけたのだ。
エンゲイはD・Dを手元に置き、なまりのある言葉を矯正することに始まり、故郷の惑星では充分ではなかった教育と、元々の素質を磨くための訓練を受けさせた。
その二年間が、どの様にD・Dという人間の後々に影響したのかは、エンゲイと、当の本人にしか判らないだろう。
ただ、その二年間のおかげで、D・Dは、ベースボール・プレイヤーとして磨かれていったのは事実である。
*
キディは床に雑誌を広げたまま、ますます混乱していた。
それが誰のことを言っているのか、どうにも理解できなかった。
最初の混乱は、写真を見た時だった。それが相棒だ、ということは、一目で判る。と、同時に、今の相棒とは違う、ということも判る。
若い、ということだけではない。その写真に写っている姿から感じる印象が、今の相棒とずいぶんと食い違うのである。
どちらが好きか、と言えば、キディは迷いもなく、現在の相棒、と答える。この写真の中に居るヒーロー然、とした男など、彼は知らない。
青を基調としたコモドドラゴンズのユニフォームは、写真の中のD・Dにはよく似合っている。だけどマーチ・ラビットにはどうだろうか。
「似合わないよ」
キディは声に出してつぶやく。そしてそのつぶやきは、やがて怒鳴り声に変わっていた。
「似合わないよっ!! あんたはそんな場所で、にっこり笑ってるってのは!」
だって。
キディは今度は言葉には出さない。
この写真の中の奴は、全然本当には笑ってないじゃないか。
顔は、笑っている様に見える。そんな顔をしてみせている。だけどその笑いは、マーチ・ラビットがいつまで経っても探し物が見つからない自分に向かって馬鹿だなあ、と背中を叩く時のそれに、決してかなわない様な気がするのだ。
それが自分に向けられたものだから、ということもあるだろう。自分に向けられた笑顔と、不特定多数の人々に向ける笑顔では、質が違うのかもしれない。
それでも、その写真は、D・Dが821年の最優秀選手賞を取り、五回目のナンバー2リーグ優勝を決めたコモドドラゴンズが、リーグ昇格の決まった時のものなのだ。そんな時にする笑顔だったら、もっと晴れやかでもいいいはずなのに。
なのに、D・Dの笑顔は、普段何気なく自分に向けられるマーチ・ラビットのそれには決してかなわないのだ。
D・Dはこの惑星の騒乱に巻き込まれた、とジュラはキディに言った。
正直言って、キディはその時期の騒乱を探ることに対しては抵抗があった。
その時期は、自分の記憶が始まるのとそう変わらない。あの時期は、首府では有名な「水晶街の騒乱」をはじめ、あちこちが騒がしかった。一つ一つの事件は、独立している場合もあるし、絡みあっている場合もある。独立している様に見えて、深い底で絡みあっている場合もあるし、その逆も然りだった。
D・Dが――― ひいては相棒が関わってしまった事件を探っていくと、何処かで自分の過去に突き当たってしまう可能性は大だった。
だけど。
キディは思う。
いつまでもそのままでは、いられない。
このままで居るのは楽しいし、心地よい。そのままで居られれば、どれだけ楽だろう。
だけどそれはあり得ない。
例えば相棒は、あの彼女とある日いきなり結婚するとか言い出すかもしれない。そうしたら自分はどうだろう。
元々「相棒」でいなくてはいけない理由は、自分にもマーチ・ラビットにも無いのだ。肉親でも恋人でもない25歳と32歳の、いい大人の男が、何事もなく一緒に暮らしているという状況はこの惑星の文化では多くない。
自分はそうしたい、と思ったところで、その感情の正体が、恋愛ではないことは知っている。それ以上を考えなかった訳ではない。自分は本意ではなかったにせよ、そういうことに慣れてしまっている。
ただ、どうしても、それは無駄なことだ、とキディには判っているのだ。それは努力の通用する部分ではない。
ゼルダとの関係はあくまで一つの例である。キディは、こんな日々が長く続くとは考えていなかった。長く続いて欲しい、と思ったところで、それは希望に過ぎない。
そうしていたところで、自分は、何処にも行けないのだ。
明確に「何処に」というものがある訳ではない。ただ、何かが自分の背中を押すのだ。前に進め、と。
前に進んだところで、何があるのか判らない。
もう一度自分はどん底まで沈んだのだ。それ以下は無い。保護が必要な子供でもない。
ただ、まだ一歩踏み出すには、勇気が必要だった。




