吸いたい
日が沈みきり、すっかり辺りが暗くなった夜のこと。長谷川は陰鬱な面持ちをしながら、公園のベンチに腰かけていた。
彼は務めている会社から帰宅する途中であったのだが、どうも真っ直ぐ家に向かう気にならなかった。
「ああ、吸いたいなあ」
長谷川は数日前から、妻に禁煙するよう命じられていた。
彼は大の愛煙家であり、煙草には妻よりも長い間世話になっている。それを、近頃の禁煙ブームにかこつけて、家計の負担がどうのこうのとまくし立てられ、強制的に絶縁させられようとしているのである。
煙草をやめようがやめまいが、どうせ小遣いを上げる気もないだろうに。ならばせめて、哀れな中年男のストレスの逃げ場として、煙草くらい許してくれてもいいだろう。
「どうしよう。家に帰る前に、こっそり一本吸ってしまおうか」
長谷川はまだ、煙草を所持していた。買い置きのが少しばかり残っていたのである。
ライターもあるし、吸おうと思えば吸える。だが、あの鬼嫁のことだ。すぐ身体にしみ込んだ煙草の匂いを嗅ぎつけ、意志が弱いだの何だのと、彼女が知り得る暴言を吐き続けるに違いない。
そう思うと、あれほど好きだった煙草に手をつける気にもならないのである。
「どうしたもんかなあ。あの味は忘れられないが、妻が何を言ってくるものか」
「……はあ。吸いたいなあ」
「?」
一人葛藤していると、溜め息に混じった、現在の己の心情と同じ台詞が聞こえた。
そちらを見てみると、そこには長谷川と同年代と思われる優男が佇んでいた。外灯に照らされた顔は、曇った表情もあってかいささか悪いようにも見える。
「どうかされたのですか」
声をかけてみると、男はゆっくりと振り向いた。初対面であるにもかからわず、愛想よく笑いかけてくる。
「いえ、ちょっと。最近、我慢していることがありましてね」
「我慢していること、ですか」
「ええ。何日か頑張ってみてはいるのですが、どうも体調に響いてきて」
もしや彼も、自分と同類なのではないか。長谷川は直感した。
この男もきっと、煙草をやめようと試みているに違いない。何だか彼が同志のように思えてきて、どこか親近感が湧いてきた。
「そうですか。どういった経緯でおやめになられたのです? 嫁にでも何か言われましたか」
「いや、私は独り身です。本当はやめたくはないのですが、今のご時世は、どうも私みたいな者には生きにくいと言いますか。嫌でもやめざるを得ないのです」
確かに、煙草は百害あって一利なしとまで言われるもの。だが、煙草は喫煙所などでのコミュニケーションツールにもなるし、酒と合わせて飲めば最高の嗜好品だ。それを、妻からの圧力もなしにやめようとするとは。何とも変わった方である。
しかし、彼の表情はますます暗くなる一方。ひょっとして、かなり無理をしているのではないか。ストレスを溜め込みながら禁煙を続ける方が、喫煙などよりもよほど健康に悪いように思えるが。
……ならばこの俺が、その必要のないやせ我慢に終止符を打ってやろう。こんな苦しい思いをするのは、俺一人だけで充分だ。
心の中に、彼を唆すように命じる悪魔の声が聞こえた気がした。
そしてそれに従うように、長谷川は男に対して笑みを作りながら、甘い言葉を囁く。
「そんなに無理をなさることはないでしょう。だってあなた、独身なんですよね?」
「ええ、まあ。そうですけど」
「自分の嗜好にあれこれ文句をつけてくるやからもいないというのに、どうして我慢する必要なんてあるんです? 生きとし生けるもの、皆欲求に忠実に生きた方が幸せってもんですよ」
「まあ、そうなんでしょうけどね」
「なら、我慢なんてやめてしまいなさい。そんなもの、馬鹿馬鹿しい。あなたはあなたらしく生きればいい。そんなに吸いたいのなら吸ってしまいなさい」
「でも……今はちょっと」
見たところ、彼は相当迷っているらしい。この苦しみから解放してやるまで、あと一歩というところか。
「持ち合わせがないんですか? なら、私のを差し上げましょうか」
「えっ」
男は目を見開き、何度もまばたきを繰り返す。心なしか、先程まで暗かった瞳を別人のように輝かせているようにも見えた。
「いいんですか?」
「ええ、かまいませんよ。口に合うかはわかりませんが、私のでよければ」
「ああ、何という人だ。今時こんな、奇特な方がいようとは」
煙草を分ける申し出ただけで、まさかここまで喜ばれようとは。だが、気分は悪くない。
長谷川は早速、上着のポケットに手を入れて煙草の箱を取り出そうとする。その間に、男は長谷川の元に近づいていった。
「確かここに……あった。この銘柄でよければどうぞ……」
そう言いかけた時、男は長谷川の首筋に二本の鋭い牙を突き立て、その肉体を巡っていた生き血を吸い上げた。
「ああ、美味しかった。あなたの言う通り、欲求に忠実に生きた方が得ですな」
しばらくして、男はベンチに横たわったまま動かなくなった長谷川に一礼してから、闇に溶けて姿を消した。