夢見草
晴(め)を覚ました。
其れは、死んだ私に有っては成らぬ行為。然し現実に、私の眼球は春の花景色を映していた。
地面に横たわっているらしい。
見上げる形で咲き誇る、ぬばたまの天鵞絨を後ろにした満開の夜桜。一本や二本処では無い。何本も何本も……。所狭しと並ぶ樹木に相応しい量で花びらが吹雪いていた。視界が一面桜色で塗りつぶされそうな位だ。
ぼんやりとした山吹色の春の月は、薄紅の花を纏う梢に隠される様にして先刻と寸分違わず、星一つ姿を出さない味気無い夜の中天を飾っていた。唯少し異なる箇所と云えば、架かる夜空の高さだけだろう。其処から時間の経過が計れる。そう事件発生から時は過ぎていないとみた。
身に覚えも無く見覚えも無い場所だ。一体此処は何処で、何故私は此処に居るのだろう。
視線をずらし幻想的過ぎ故に偽物の様に晴に映る春園の景色を放心して眺める。余りの美しさに呼吸が詰まった。色を失い白く其処彼処に敷き詰められた桜花は月影に柔らかく照らし出され、どこぞの舞台染みている。
確か私は、殺されたのでは……。若しや運よく生き永らえたのか。そんな希望が胸を掠める。
一先ず自分の置かれた状況を整理しようと身を起こす。起き上がろうとして、ぎょっと晴をみはった。
体が無い。
意識として己の体の輪郭は此処まで、と云うのはありありと判るのに、肝心の身が何処にも見つからないのだ。
桜の花弁が、春の生温かい夜風に身を任せ視認出来ない体内を舞う。其れから程無くして、乾いた地面に落ちた時なんぞは其の光景の有り得無さに絶句した。声を失い、口を開き唇をわなわなと震わす。が、きっと失ったのは声一つで済まされない。此の調子では口も唇も無いだろう。
一しきり考えあぐね、辿り着いた仮説は一つ。所謂此れは、死んだ後の魂やら精神と云った類の物じゃなかろうか。
余りにも非現実的な、回答と押し通すには無理のある回答に、最初こそ突飛も無い自分の思考回路を嘲笑った。
然し注意深くよくよく反芻してみれば、脳裏に浮かび上がるのは古い馴染みの顔。月光を投影するナイフの鈍い銀の剣影。其れよりももっと、鋭利で剣を含んだ両晴。厭に生々しい刃が肉を貫通する感覚。
死を疑いの無いものにするばかりの符号だけが思い出す程に幾つも浮上した。反論するまでも無く、我が身に降り掛かった殺人を認めるしかないだろう。此れ以上、真実を打ち消す証拠を探そうとしたって無駄なのは火を見るより明らかだ。
そんな融通の利かない問題に、手の施しようも無い。
砂漠から一粒の砂金を探し出す方がよっぽど可能性としては高いだろう。
慌てても仕様がない。事態の収拾を優先しよう。とても現状より改善されるとは思えないが。溜息が洩れた。
二度とはお目にかかれない現実を上手く呑込み消化して。幾許か心の平静を取り戻せば、遠からぬ場所から足音が聞こえてきた。
近付いてくる地を踏む音は、かなりゆっくりとした調子で歩を進めていた。時々休憩でもしているのか、音が途絶える。
そして気付いた。
靴の底を薄桃色の薄片が散らばる土に下ろして上げる他に、何かもう一つ別の雑音が混じっているという事に。
ず、ず、と脚の不自由な者が故障した側の爪先を地面に擦り合わせて歩く様な。
今の私にとって、不気味さを煽る物音。厭な汗が沸々と沸く。
押し寄せた不安を取り除くべく、桜の闇の向こうから訪れる足音の正体を明かせと強く自分に念じた。
まずは気持ちだけでも立ち上がる(視界はたちまち相応しい目線になった)。
姿を見られる事は無いと頭では判ってはいるが条件反射で手頃な太さの桜の樹に隠れてしまった。止められた息を今度は殺し、様子を窺う。
彼奴だ。
すぐに識別出来た。
私を殺した正真正銘の犯人が、桜並木の中例の死体を引き摺ってやって来た。休む間もなく吹雪く桜で霞みがかった様に燻ぶる宵の道を、晴の前を横切る形で歩く。
彼は地面にうつ伏せで死んだ私を寝かせていた。腕を万歳の体制にし其の両の手首を掴み彼から見ると後進する形で死体を運搬していた。
靴を履いた私の爪先が、桜の薄片を巻き込み土を浅く抉る。犯人の辿った道筋が一目瞭然となった。
思わず私の体を凝視する。見入る、といっても過言ではない。
大した灯りの降り注がない闇の中、天満月の弱い光に照らされぼんやりと白い残像を残して舞う桜。言いようの無い妖しさに感化され、私の視線は彼等に釘づけになった。
あちらに本体がある以上、矢張り今の〝私〟は奇妙に分類される非現実的な存在なのだろう。改めて認識する。
と、一人頷く私に、晴を疑う物が飛び込んできた。両手の塞がった男が腰にぶら下げ、此方も同様地面に僅かにひっかき傷を刻みながら引き摺られる其れ――――円匙、だった。
何と云う事だ。彼は私を殺した上に、其の死を土で覆い隠そうとするのか。この外道め。思わず歯軋りするが、あくまでも其れは感覚での事。奥歯が噛み合わさるなんて、透明な此の身では実質永劫不可能だった。
此の男が仕掛けんとする死体の隠蔽工作を防ぐ方法は無いのか。殺された揚句、こんな場所に埋められるなんて冗談じゃない。死んだ身としても、あんまりな人生劇場の終わりは避けたいもので、直ちに思案する。
魂だけの身で何か出来るとは到底思えなかったが、まずは二人を追う。為す術は皆無と予測するが、其れでも一応。何もしないよりはましだろうと結論を出した故だった。
又、状況が変わるのではとの願望も少しはあったのも一因だ。もしかしたら、此れ以上に奇妙な出来事がとんでも無いどんでん返しを見せてくれるのでは、と。
一定の距離を開け後をつける。死体は固まっている所為か、余計に重そうに見えた。荒い息を吐き旧友は一歩一歩後ろに踏み出す。
固唾を呑み、行方を見届けた。
一つ前進する度に、緊張が高まる。得体の知れない興奮が体中を熱く巡る。晴を見開き、私も同じく呼吸を浅く繰り返した。
一体此れから、どうなるのか。悪い予感ばかり思い浮かび胸騒ぎがしたが、高揚感を覚えたのも事実だ。私は、予測のつかない結末を夢想していた。何かが、起こる。誰も思い付かない、とびきり常識のタガを外れた、終わりが。
「よし……」
私を引っ張り続けた彼は漸く目的地へ辿り着いた。大分重労働の様で、肩で息をしている。
其の向こう、一際大きな桜が聳え立つ。場所を確認する様に大木を見上げてから、男は私の手を掴む両手から力を抜いた。
質量のある音を立て、私の死体は地面に転がる。無造作に、乱暴に地面に着地した私を一瞥し、早い呼吸と気分を落ち着かせようと長い溜息を吐く。最後の大仕事を思い遣ってか、晴は幾分気だるげだ。
彼は額に点々と浮かんだ汗を拭った。此処までで疲弊した体は一入息を乱している。私はと云えば、今まで体験した事の無い緊迫感に気圧され荒い息遣いが二つ分、桜の世界に連呼した。
始まりの合図は小さく下された。彼は自分が此れからする事に対して揺らがぬ意思を確認する様に微かに一つ頷く。腰元の紐を解き、シャベルを手にする。其れから即座に、何の躊躇いも無く彼は先端を地面に一突きした。
とうとう、始まってしまった。殺人犯の計画的犯行が。
ざくざくざくざく……。
桜の根元の土を一心不乱に掘っては横に退かされる行為が連続する。生まれた音は耳を覆いたくなる程に、私を追い詰めた。
穴が完成してしまえば、私は其の中に放り込まれ、腐敗、白骨化し、桜の根に全てを吸い上げられ否応無しに土に還ってしまう。
厭だ厭だと呪詛の様に、終わりへ導く音楽と呼応させ繰り返す。其の間にもみるみると私の墓場は完成していく。
止めてくれ! 叫ぼうとするが死んだ私に声は出ない。願いも虚しく、円匙で横に掃いた土は一つの山を形成し、深さを如実に伝えてくれた。
鼓膜の奥、完全犯罪への完成を盛り上げる轟きが鳴り響いた。
長いのか短いのか判別しにくい時間を掛けて、殺人犯は最後の仕事を終えた。シャベルを少し離れた場所に放り投げ、一息吐く。こめかみを流れる一筋の汗を袖で拭き取る姿を見て、心臓が荒々しく脈打った。
嗚呼、遂に、私は。
予想を裏切らず転がった死体の前に彼は廻り込み、足で私の腹を蹴り目的を果たそうとする。腹部を足蹴にし、私の体は力無く動く。桜が皮膚に張り付き、死斑の様な模様を綾なした。喉に力を込め精一杯抵抗の言葉を此の場所から吐くが、勿論届く訳もなく。半廻転して仰向けになり、私は今しがた掘られた土の棺桶に落ちた。はみ出した片腕片足も同様土足で狭い土の中に収められる。
男がシャベルを拾い上げ、握り直した。先程とは反対の動きを始める。先刻の映像を巻き戻す様に、男は山から土を掬い被せた。少しずつ、然し着実に埋もれていく私。何度も何度も同じ作業を続ける男を止めることなんて今の私には出来なかった。ただただ無意味と知りつつ叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
厭だ厭だ厭だ止めて止めて止めて止めろ止めろ止めろ!
不意に感じた引力、急旋回する私の視界。意識が一瞬でもっていかれた。




