無能王太子は王冠を選ばず、婚約破棄をして最果てからやり直す
王城の回廊に乾いた靴音がふたつ、重なって響き渡る。
一つは急ぎ足で、もう一つはそれに追いつこうともしない緩やかな足取りだった。
「殿下。本日の議題は三つございます。第一に東部で雨不足が原因で農作物が例年より著しく不作になっている件について。第二に――」
「聞いている、聞いている」
第一王子ミヒャエルは婚約者フランセットの声を右から左へ流しながら、鬱陶しげに窓の外に視線を投げる。中庭では庭師が薔薇の剪定をしている。ただそれだけの何気ない光景だったが、今のミヒャエルにとっては執務室の書類の山よりもよほど価値があるように思えた。
「殿下、聞いていらっしゃいませんね」
「聞いていると言っただろう」
耳にしている、と理解している、では全く違う。
ミヒャエルの返事は「聞いてはいるが理解するつもりはない」と言っているようにしか聞こえなかった。
「では、東部の不作について先ほど私が申し上げた懸念点を繰り返していただけますか?」
ミヒャエルは返事を返さず歩みを止めない。
フランセットはため息をひとつ吐いて、それ以上は追及しなかった。追及しても無駄だとはもうとっくの昔に学習している。
フランセット・ヴァレンクール。侯爵令嬢にしてミヒャエルの婚約者。
次期国王として頼りないと囁かれ始めたミヒャエルを支えるために、王太子妃の候補として白羽の矢が立った女性だった。
その評判に偽りはなかった。教育係は「これほど優秀な生徒は初めてです」と太鼓判を押すほどの速さで課程を修め、今では王子の執務の半分近くを肩代わりしているほどの優秀さを王宮内に知らしめていた。
ミヒャエルが十の時間をかけてようやく仕上げる書類を、フランセットは二、三の時間でこなしてしまう。ミヒャエルとて最初のうちは悔しさをばねに努力もした。夜を徹して書類に向かったこともある。
だが、フランセットとの優劣が覆ることはなかった。むしろ差は開いていくばかりだった。
(はっ。フランセットに任せておけば事足りるのなら、彼女に全て任せてしまえば効率的ではないか。私が手を下すまでもない)
そんな考えが頭によぎってからは早かった。適材適所。フランセットがやるのなら任せてしまえばいい。そう考えるたびに使命感や義務感、そしてやる気が抜けていくのをミヒャエルは感じていた。
最初は苦言を呈したフランセットも今では表情を変えることすらしない。淡々と報告し、「よきにはからえ」と言われ、淡々と代行する。愛情などとうに消え失せ、義務感も摩耗しつくし、ただ与えられた仕事をこなすのみの毎日だった。
執務室に戻ったミヒャエルは山積みとなった書類に目を通し、自らの名を記していく。その速度は到底一枚一枚を熟読しているとは思えず、事実ミヒャエルは斜め読みしているに過ぎない。何せどれもフランセットが一度確認しているのだから、自分に回される段階で完璧に仕上がっている。ケチの付け所を探すだけ無意味だ。
「殿下」
執務室の扉が控えめに叩かれ、第二王子クレマンが顔を出す。
ミヒャエルは面白くなさそうな表情を隠さず、だが舌打ちだけはしないよう堪えた。
「フランセット嬢。東部の書類の写しをいただけますか。父上……もとい、陛下に報告する前に目を通しておきたく」
「ええ、こちらに」
フランセットが差し出した書類をクレマンは食い入るように読み込み始めた。
兄よりも五つ年下のこの弟は、いつの間にか兄の仕事にも興味を示すようになっていた。悪意があってのことではない、とはミヒャエルとて分かっている。むしろ純粋な向上心と国のためになりたいとの憧れからだとも。
だがその気遣いが、ミヒャエルにはどうしようもなく惨めに映る。
弟にまで自分の代わりが務まってしまう。
もはや自分がいなくても国の行く末は安泰ではないか、と。
「次期国王にはクレマン殿下のほうが相応しいのでは」
いつからかそんな囁きが宮廷の隅々で聞かれるようになっていた。ミヒャエルの耳にも勿論届いている。聞いた上で放置している。黙らせようとすれば余計に自分が矮小に思えてしまうから。
◆◆◆
ミヒャエルが男爵令嬢ジュリエンヌと出会ったのは、王太子として正式に立太子されるまで数年と迫った、ある夜会でのことだった。
主催者の孫娘の誕生日を祝う、さして規模の大きくない集まりだった。ミヒャエルは形式的に顔を出しただけに過ぎず、始まってからさほど時間が経たないうちに早々に退屈してしまった。
壁際で温くなったワインを傾けつつテーブルに並べられた菓子にフォークを伸ばそうとし、不意に背後から声をかけられる。
「殿下も、ここのタルトはお勧めしませんわ。生地が湿気てしまっていて」
振り返ると、見覚えのない令嬢が皿を片手に、あどけなくも遠慮のない顔でこちらを見つめていた。
ジュリエンヌ。この名は後に知ることになる。
「……初対面の相手に、そういう忠告をするものかな」
「あら、失礼を承知で申し上げているのです。放っておいて後で不味いと顔をしかめられるより、先にお伝えする方が親切かと」
第一王子たる自分にはっきりと物を申す堂々としたジュリエンヌに、ミヒャエルは思わず笑ってしまった。誰かに笑わされたのは随分と久しぶりのことだった。
「では、他に何がお勧めなんだ」
「あちらの、林檎のコンポート。アレは料理長の本気を感じました。口にして思わずほっぺたが落ちてしまいそうでした」
男爵令嬢という身分にしては物怖じしない態度も、飾らない物言いも、ミヒャエルにとっては新鮮だった。王子という肩書きも、王子としての振る舞いも、義務も求められない。ただの人として対等に軽口を叩き合える相手。
それが、どれほど得難いものであるか。
きっとフランセットには分かるまい。
ミヒャエルにとっては尊く美しいものに感じられた。
フランセットとの会話には常に「王太子妃に相応しくあらんとする令嬢」としての印象がちらついていた。彼女の言葉のひとつひとつは正しく、有益で、しかしそれが積み重なることでミヒャエルの重荷となっていった。
自分を思っての進言、苦言だとはミヒャエルも承知している。それでも「また始まった」とうんざりしてしまう自分にも薄々気づいている。
ジュリエンヌとの会話には、そういった息苦しさがなかった。
「殿下はいつもそんなに疲れた顔をしていらっしゃるの?」
「そう見えるか」
「ええ、とても。まるで一日中ずっと誰かに評価され続けているみたいな」
図星を突かれて、ミヒャエルは言葉に詰まる。
ジュリエンヌはそれ以上追及せず、ただ微笑みながら、林檎のコンポートをひとつ彼の皿に取り分けてよこす。
「美味しいものを食べて、少し肩の力を抜いてくださいませ。夜会くらいは」
その何気ない仕草に、ミヒャエルは救われた気がした。
◆◆◆
それから、ミヒャエルは度々ジュリエンヌのもとへ足を運ぶようになった。
公務の合間を縫い、時には護衛の目を盗むようにして、男爵家の屋敷や、街の茶店で顔を合わせた。
「殿下、また抜け出していらしたの」
「今日は本当に、少しの間だけだ」
「先週もそうおっしゃっていましたけれど」
「……どうせ私がいなくなったところで誰も困らない」
窘める口調でありながらジュリエンヌはミヒャエルを咎めたりはしない。彼女はミヒャエルを「王子」としてではなく、ただの気の合う人として扱った。
それがどれほど心地よいことか、王族に生まれた者でなければ分からないだろう。
ましてやジュリエンヌは決してわかるものか。
フランセットのもとへ戻るたびにミヒャエルの心は沈んでしまう。婚約者としての義務、次期国王としての重圧。そのどちらも端正ながら微笑の一つも無いフランセットと顔を合わせると否応なく思い出させられる。
「殿下、先だっての南部視察の報告書ですが、数字に誤りが」
「……そうだったか。確認する」
「いえ、こちらで訂正したものがこちらにありますので、ご確認だけお願いします」
助けられているはずなのに、助けられるたびに自分の無力さを突きつけられているようだった。
フランセットに悪気がないことは分かっている。きっと彼女ならば充分に王太子妃、そして王妃を務めることだろう。
それでも、その完璧さが、今のミヒャエルには耐えがたかった。
(彼女といると、息が詰まる)
その思いは、ジュリエンヌと過ごす時間が増えるほどに、確かなものになっていった。
「殿下は、フランセット様のことがお嫌いなのですか?」
ある日、ジュリエンヌにそう尋ねられて、ミヒャエルは答えに窮した。
「嫌い、というのとは違う。彼女が私を敬い、そして私……第一王子の婚約者としての義務を果たしているのは分かっている。ただ……彼女といると、自分がひどく矮小な人間に思えてくる」
「それは、もしかしてフランセット様のせいなのでしょうか」
純粋な問いかけにミヒャエルは何も言い返せなかった。ジュリエンヌの声には非難の色はなく、ただ思ったことを口にしたに過ぎない。
だが、その疑問はミヒャエルの悩み、苦しみを的確に突いていた。
それでも、その試練に向き合う勇気を、まだミヒャエルは持てずにいた。
◆◆◆
宮廷では、ミヒャエルとジュリエンヌの噂が静かに、しかし着実に広まりつつあった。
「第一王子殿下が男爵令嬢に入れ込んでいらっしゃるとか」
「フランセット様という素晴らしい婚約者がありながら、まあ」
囁きは扇の陰で、回廊の隅で、夜会の合間に交わされていった。フランセット本人の耳にも当然届いていたが、彼女はそれについて表立って何かを言うことはなかった。ただ、ミヒャエルを見る目にわずかな軽蔑の翳りが差すようになっただけだった。
ミヒャエルとて全くの愚か者ではなく、フランセットの変化を感じ取った。しかしフランセットが表面上何も変化が無く、執務をこなすにも支障をきたさなかったため、ミヒャエルは見て見ぬふりをした。
(失望したければすればいい。どうせ私に向けられていた期待などたかが知れている)
春の終わり、ミヒャエルは庭園でジュリエンヌと二人きりで過ごす時間を持った。色とりどりの花が咲き誇り、甘い香りが辺りに漂い、鼻を擽った。
「殿下」
「ミヒャエルでいい。ここには誰もいない」
ジュリエンヌは少し躊躇ってから、小さく頷いた。
「……ミヒャエル様。私、噂になっていることは存じております。このままでは、殿下のお立場を悪くしてしまうのではないかと」
「気にしなくていい」
「でも」
「君といる時間だけが、今の私にとって唯一、心が安らげる時間なんだ。どうか私から生きがいを奪わないでくれ」
その言葉に、ジュリエンヌは驚いたように目を見開いた。そして、困ったように、それでいてどこか嬉しそうにはにかむ。
「……そんなふうに言われては、私も、殿下のことを突き放せなくなってしまいます」
鮮やかな色をした花びらが一枚、風に流されて二人の間に落ちた。それを合図にしたかのように、ミヒャエルはそっとジュリエンヌの手を取った。彼女は温かく頼もしいやんごとなき殿方の手を拒まなかった。
この瞬間、ミヒャエルが一つの結論を出したことを、まだ誰も知らない。
婚約者フランセットも、弟クレマンも、王城の誰もが、そして純粋で世間知らずなジュリエンヌすら、この小さな庭園での出来事が、やがて王家を揺るがす騒動の始まりになるとは、想像すらしていなかった。
ただ一人、ミヒャエルだけは心の片隅で覚悟を決めていた。
「もう引き返せないな」、と。
◆◆◆
庭園での一件から幾ばくか経ち、ミヒャエルとジュリエンヌの関係はもはや隠しようのないものになっていた。
二人が連れ立って歩く姿を見た者がまた別の者へ話す。話はいつしか尾ひれをつけて広がり、社交界の格好の話題となった。
「第一王子殿下が、婚約者を蔑ろにして男爵令嬢に現を抜かしていらっしゃるそうよ」
「フランセット様があまりにお可哀想だわ」
そうした声は、当初は同情の色を帯びていた。だが、それも長くは続かなかった。
ある夜会で、フランセットが珍しく人前で口を開いた。
「殿下がどなたと親しくされようと、私が口出しすることではございません。ですが……、あえて申し上げるとすれば、王族に連なる方との交際には、それ相応の慎みと自覚が求められるのではないかしら」
名指しこそしなかったものの、誰の耳にもそれがジュリエンヌへの言及であることは明らかだった。
フランセットにしてみれば、それはミヒャエルに向けられた彼女に許された範囲の内での苦言、忠告だった。黙認したと解釈されれば社交界でなめられる。厳しく問い質せば今の座に執着していると貴族一同からみなされる。穏便に済ませるにはこう発言する他無かった。
彼女はジュリエンヌ個人を憎んでいやしない。ただ、戯れだろうが本気だろうが、第一王子として相応しい振る舞いなのかを、静かに問うただけだった。
だが、その言葉は瞬く間にフランセットの側を離れ、独り歩きを始めた。
「フランセット様があそこまでおっしゃるということは、よほどのことがあったに違いないわ」
「聞くところによると、あの男爵令嬢、礼儀作法もろくに身についていないとか」
「殿下に取り入るために、あの手この手を使っているそうよ」
尾ひれは肥大し、いつしか事実とはかけ離れた悪意の塊となって、ジュリエンヌへと向けられるようになった。
◆◆◆
最初の嫌がらせは、ほんの些細なものだった。
夜会に招かれても誰からも声をかけられない。差し出した挨拶を聞こえなかったふりで無視される。そもそも夜会に招待せず、当人がいない間にあることないことを好き勝手語り合う。
それが次第に、はっきりとした悪意を伴うようになり、ジュリエンヌに牙を向く。
「あら、男爵家のご令嬢がこんな場所にいらっしゃるなんて。場違いではなくて?」
フランセットの取り巻き、を自称する、令嬢たちに囲まれたジュリエンヌは、何度も同じような「お前は相応しくない」といった類の言葉を浴びせられた。
ドレスに飲み物をこぼされたこともある。招待状が届いていたはずの茶会で、当日になって「手違いでした」と門前払いを受けたこともあった。
だが、それらの嫌がらせにはある共通点、明確な線引きがあった。誰一人として、ジュリエンヌの人柄そのものを非難する者はいなかったのだ。
彼女たちが口にするのは決まって、こういう言葉だった。
「第一王子殿下のお相手ですって? 分をわきまえなさい」
「たかが男爵家の田舎娘風情が、王家に連なろうなど、烏滸がましいと思わないの?」
ジュリエンヌ個人への悪意ではない。ミヒャエルに取り入る浅ましい女だと自覚させるような、冷たく鋭い刃の数々だった。
それを知ったミヒャエルは深い絶望に包まれる。
この期に及んでもなおジュリエンヌが「第一王子に」相応しくないことが問題となっている点も、彼を追い詰める材料とはなった。しかしそれ以上に、うつつを抜かす自分ではなくジュリエンヌが悪意の対象となったことに愕然としたのだった。
「私のせいだ」
ジュリエンヌの前でミヒャエルは何度もそう呟く。
「私が第一王子でなければ、君がこんな目に遭うこともなかった」
「殿下のせいではございません。私が身分をわきまえずに貴方様を受け入れてしまったせいです」
「いや、私のせいだ。私がフランセットと向き合えずに君に甘えてしまい、逃げてしまったせいで、こんな仕打ちを受けている」
「……私は大丈夫です。それよりも私は殿下が苦しむ姿を見たくないんです。このままだと殿下が押しつぶされてしまいそうで……怖くて」
ジュリエンヌは何度も問題ないと否定した。
だがミヒャエルの心の中では、自分の中に生じた確信はもはや動かしがたいものになっていた。
自分という存在そのものが、大切な人を傷つけている。
◆◆◆
ミヒャエルは王太子となってから以前にも増して執務に身が入らなくなっていた。
「殿下、こちらの署名を」
「ああ」
「殿下、先ほどの件について、ご意見は」
「フランセットに任せている。問題ないのだろう? なら何も言うことはない」
その返答に、さすがのフランセットも眉をひそめるようになっていた。
ミヒャエルはあらゆる書類を素通ししてしまうため、クレマンは補佐という形で日に日に多くの実務を担うようになった。宮廷では「クレマン殿下こそ、次代の国王に相応しい」という声が、もはや囁きではなく、はっきりとした評判として語られるようになっていた。
ミヒャエルは、そういった悪評を平然と受け止めた。
(もう、お飾りとして王太子の座にしがみついている必要も無いか)
その思いは、日を追うごとに強くなっていった。いっそのこと、己では王太子はつとまらない、と廃嫡を願い出てしまいたかった。だが、それが叶わないことは、ミヒャエル自身が一番よく分かっていた。
ある晩、ミヒャエルは意を決して国王である父のもとを訪れた。
「父上。私を、王太子の座から降ろしていただけませんか」
国王は書類から顔も上げずに、静かに答えた。
「ならぬ」
「ですが、皆がクレマンの方が相応しいと口にします。フランセットがクレマンを支えれば国の未来はより安泰となりましょう」
「お前が長子であることは変わらぬ。国の秩序というものは能力だけで測れるものではない。お前が投げ出せば、お前の言うようにフランセット嬢とクレマンの間に婚姻の話が持ち上がるだろう。第二王子が兄を出し抜いて王太子の座に据わったとなれば、それこそこの国に無用な火種を撒くことになる」
「では、このまま私が王となり、フランセットに政務を丸投げしても良い、と?」
「良い」
「っ……!」
「最低限さえ弁えておればな。話はそれだけか? では下がれ」
取り付く島もない否定だった。ミヒャエルは唇を噛んだ。
(正攻法では……とても無理だ)
その夜、ミヒャエルは目が冴えたまま、天井を見つめ続けた。父の言葉が、頭の中で幾度も反響する。
(能力で測れないというなら……それ以外の理由で、私が王太子として相応しくないと、誰もが認めざるを得ない状況を作るしかない)
その考えが浮かんだ瞬間、ミヒャエルの背筋に冷たいものが走った。
だが同時に、これまで感じたことのないほどの解放感も覚えていた。
◆◆◆
ミヒャエルの中でひとつの計画が驚くべき速さで形を成していった。
フランセットは自分を愛してなどいない。それは間違いない。
義務としてこの婚約を受け入れ、義務として王太子妃教育を完遂し、義務として隣に立ち続けているだけだ。
いつかは信頼し合い、やがては愛を交わし合う未来もあるかもしれない。だが、今以上に彼女の優秀さを思い知れば更に惨めになっていくだけだ。
そして、クレマン。弟がフランセットに向けるほのかに熱を帯びた眼差しに、ミヒャエルはずっと前から気づいていた。
尊敬とは異なる、もっと個人的な、淡い想い。だがクレマンは自分を律し、第二王子としてフランセットに向き合い続ける。その忍耐力と使命感は賛辞に値する。
フランセットもまた、クレマンに対してミヒャエルに向けるのとは違った、心を許した者に向ける柔らかさを見せる瞬間があった。
(あの二人は私さえいなければ何も問題ない。国も民もフランセットとクレマンになら任せられる。だったら……)
ミヒャエルは盤面を覆す一手を既に考えついている。しかし、それを起こしたら最後、自分の名は末代まで国の汚点として語り継がれるだろう。そして、ミヒャエルの乱心に巻き込まれる者たちもただでは済まない。
「ジュリエンヌ」
ある日、ミヒャエルは静かにジュリエンヌへ切り出した。
いつになく深刻な面持ちに、ジュリエンヌも真剣に聞こうと僅かに前のめりになる。
「私は、王太子の座を捨てるつもりだ」
ジュリエンヌは驚きに目を見開いた。
聞き間違えだと思いたかったが、ミヒャエルの眼差しから本気だと伝わってくる。
めまいがするのを堪え、ジュリエンヌは震える口を何とか開いた。
「そんな……、そんなことをすれば、殿下は」
「廃嫡になるだろう。爵位を得て辺境にでも追いやられればまだいい方だ。生涯離宮に幽閉されるかもしれない。それでも構わない。……いや、むしろ私が消えた方が万事が上手くいくんだ」
「まさか、私のせいですか? 私が殿下と仲良くしたばかりに……」
「ジュリエンヌのせいじゃない。それだけは断言する」
ミヒャエルは絶望にくれるジュリエンヌを即座に否定した。
「私は、王太子という立場でしか価値を認められない自分に、もう耐えられない。フランセットの隣にいる限り、私は永遠に『不出来な王子』のままだろう。だが、その肩書きを捨てた先でなら……私はただの私として生きていける。そんな気がするんだ」
責任、義務の放棄。王家の、それも第一王子として生を受けた者としては決してしてはならぬ大罪。後の歴史家はこの決断を散々にこき下ろすだろう。貴族や民百姓から失望を、嘲笑を、罵声を浴びせられることも大いに考えられる。
だが、今よりはマシだ。国のため、クレマンやジュリエンヌのため、などと大義名分を掲げるつもりはない。ミヒャエルが至らなかったから、心が弱かったから、割り切れなかったから、投げ出すことを選んだのだ。
「だから、私はジュリエンヌとの関係を、ここまでにしようと思っている」
「っ!?」
ジュリエンヌは何も言えなかった。ただ、その目に涙が滲んでいるのを、ミヒャエルは見た。
「王族でなくなった私には何の価値も無い。市井に下ったところで生きていけるかも分からない。そんな茨の道をジュリエンヌにも歩ませるわけにはいかない。私が原因の悪評も父上……陛下に取り計らってもらう」
「ですが、殿下……!」
「すまない。ここまで付き合わせておいて勝手なことを言っているとは自覚している。それでも……私はジュリエンヌに幸せになってもらいたいんだ」
「……ミヒャエル様」
ジュリエンヌの小さく柔らかい手が、ミヒャエルの握りしめられた手に添えられた。
「私の幸せは……ミヒャエル様と共にあります」
「ジュリエンヌ……」
「お慕いしております。ずっと側にいる権利を、私に頂けないでしょうか?」
「……ああ、勿論だ。私も愛している。山よりも高く、海よりも深く」
ミヒャエルはこの上ない喜びと申し訳無さで感情がぐちゃぐちゃになった。
こぼれ落ちる涙をジュリエンヌがハンカチで拭き取る。
そんなジュリエンヌも涙を零していて、ミヒャエルは手で拭い取った。
「私についてきてくれるか?」
長い沈黙の後、ジュリエンヌは小さく、しかし確かに頷いた。
「……はい。どこまでも」
その返事を聞いて、ミヒャエルはジュリエンヌを強く抱きしめた。
初めて自分と向き合ってくれた愛する女性を、もう離さない。
頭では自分の身勝手に巻き込んでしまうと分かっていても、この想いにはもう蓋は出来なかった。
計画は、次の夜会で決行される。
フランセットへの婚約破棄。皆の前で、後戻りのできない形で。
その先に待つものが破滅であっても、ミヒャエルにはもう迷いがなかった。
◆◆◆
その夜会は、王家主催の中でも特に格式の高いものだった。国内の主だった貴族がほぼ全て顔を揃え、広間は煌びやかな衣装と、控えめな喧騒に満ちていた。
ミヒャエルは、いつもより丁寧に礼服を整えた。鏡に映る自分の顔を見つめ、深く息を吐く。
(今夜で、全てが終わる)
恐れはない。あるのはただ覚悟だけだ。
会場にはフランセットをエスコートして入場する。いつものように公の場では円満な婚約関係を披露する二人ではあったが、仮面夫婦ならぬ仮面婚約者とは誰しも分かっていても、表立っては口にしない。表舞台でボロを出さない限りは成り行きを見守る、それが貴族一同の立ち位置だった。
第一曲を踊った後、ミヒャエルとフランセットは別々に会場を回って各々に挨拶する。淡い水色のドレスに身を包んだフランセットが背筋を伸ばして立ち、クレマンと何かを語り合いながら時折微笑み合う。その光景のいつも通りだった。
しかし、今日ばかりはミヒャエルの胸が傷んだ。
これから自分の身勝手に巻き込み、全て押し付けることに。
それでもミヒャエルは深呼吸を何度かした後、改めて覚悟を決める。
楽団の演奏が一区切りついたところでミヒャエルは広間の中央へと進み出た。予定外の、そして予想外の行動に周囲がざわめく。
「皆、少し時間をもらいたい」
ミヒャエルの声がまだ静まっていない広間に響いた。楽団は楽器を降ろし、人々の視線が一斉に集まる。フランセットも驚いたようにミヒャエルを見る。
「フランセット・ヴァレンクール嬢」
ミヒャエルは彼女の名をはっきりと呼んだ。
「私は、あなたとの婚約をここで解消することを宣言する」
広間が水を打ったように静まり返った。
「殿下……それは、どういう」
フランセットの声は驚きよりも困惑に近かった。表情を大きく崩すことはなかったがその目には確かな戸惑いが浮かんでいた。
その様子を見て取って確信する。いつかミハエルが婚約者を突き放す、とフランセットは察していたのだ、と。だが、何もなおこの場で言い渡されるとまでは想定していなかったらしい。
してやったり、と初めての経験にミヒャエルはほくそ笑んでしまった。
「私とフランセット嬢との関係は最初から義務でしかなかった。あなたは王太子妃教育を完璧にこなし、私を支え続けてくれた。それは紛れもない事実だ。だが、あなたが私に向けていたのは愛情ではなく、第一王子の婚約者としての義務感だけだった」
「……」
「フランセット嬢は私を決して一人の人間として見てはいなかった。常に『次期国王として足りない者』として扱い、指摘し、正し続けた。それが正しいことだったのだとしても、私にはそれが耐え難かった」
フランセットは何も言い返さなかった。ただ、静かにミヒャエルを見つめていた。その沈黙が、肯定なのか、それとも言葉を失っているだけなのか、周囲の誰にも判断がつかなかったし、ミヒャエルには分かるはずもない。
「そして、あなたは自らの取り巻きを使い、ジュリエンヌ嬢に対して嫌がらせをさせ、更には咎めるどころかそれを黙認した」
その言葉に、フランセットの表情がわずかに動いた。
これもミヒャエルにとっては初めて見る顔だった。
そういった一面をミヒャエルに見せる機会が無かったのか、それとも単にミヒャエルがフランセットと向き合わなかっただけか。ミヒャエルにはもはや知る由もないだろう。
「殿下、それは……」
「弁明は聞かない」
「っ……」
「もうその段階はとっくに過ぎた。過ぎてしまったんだ」
ミヒャエルは、そう言い切った。
実のところ、それが単なる言いがかりに過ぎないことを、ミヒャエル自身は知っていた。フランセットが直接指示を出した証拠など、どこにもない。彼女の一言が独り歩きしただけのことだとは分かりきっているし、彼女がそんな真似をするはずがない。
それでも、ミヒャエルはあえてその罪をフランセットに被せた。それがこの計画を後戻りの出来ないものにするために、必要な一手だったからだ。一歩踏み込む大義名分は、嘘偽りではなく、事実を都合良く膨らませればいい。
「私は、ジュリエンヌ・オルタンス男爵令嬢を、生涯の伴侶として選ぶ。彼女こそが、私にとって何よりも大切な存在だ。身分に驕らず、飾らず、私をただの一人の人間として見てくれた、唯一の愛おしい女性だ」
広間の隅で、ジュリエンヌが小さく震えているのが見えた。だがその目は、まっすぐにミヒャエルを見つめ返していた。
フランセットは、しばらくの沈黙の後、厳かに頭を垂れ、静かに口を開いた。
「……承知いたしました」
その声には、怒りも、悲しみも、驚くほどに滲んでいなかった。ただ、事実を淡々と受け止めるような、平坦な響きだけが会場に伝わった。
「殿下がそうお望みなら、私に異存はございません。婚約は、これにて解消ということで」
広間がどよめきで支配された。
フランセットがあまりに落ち着き払っていたのがどよめきの原因だ。
ミヒャエルとフランセットの不仲は公然の秘密となっていた。いつかはどちらかが我慢出来ず破談になるか、それとも互いに不満を飲み込んで国のために徹するか、どちらかになるだろうとは語られていた。
結果は前者となったが、糾弾されたはずの優雅な表情を崩さないフランセットに対し、糾弾したミヒャエルの方が落ち着き無く苦しげな点が、これまでの彼女とミヒャエルの関係の全てを物語っていた。
その静けさを破ったのは、クレマンだった。
「フランセット嬢」
クレマンは、皆の前に進み出て、フランセットの前に跪いた。
「あなたが自由の身になったのなら、今この場で申し上げたい。……私と、結婚していただけませんか」
大胆不敵な、と誰もが驚いた。
誰もが薄々気づいていた。クレマンとフランセットが互いを見る眼差しにこもった熱に。責任を放棄したミヒャエルを補完するために苦楽を共にし、いつしか義務や大志を超えて思い合うようになっていた、と。
それでも今この場で求婚を申し出ると予測出来た者は多くなかった。しかし王太子の失態を第二王子が埋め合わせしたことで、やはりクレマンこそが次の王に相応しいと改めて確信に至った。そして、その伴侶にはフランセットこそが相応しい、と。
フランセットは、クレマンを見下ろし、そして……ミヒャエルが今まで一度も見たことのない、幸せに満ちた笑みを浮かべた。
「……喜んで」
そんな自分から解放されたフランセットを見届けたミヒャエルは安堵を覚えた。
(やはりフランセットにはクレマンの方がお似合いだ)
皆がフランセットとクレマンに注目する中、ミヒャエルはフランセットに向けて静かに頭を下げた。今までかけてきた苦労への謝罪と、これからの幸せを願ってと、他にも様々な思いを込めて。
ガンッ、と、床に何かが叩きつけられる音が鳴り響いた。
一部始終を見届けていた国王が王杖の先端で床を突いた音だった。
一同、ミヒャエルやフランセット等を含めて、が静まり、その場でかしずく。
玉座の国王は、これまでにない厳しい表情でミヒャエルを見下ろす。
「ミヒャエル」
「はい、陛下」
「お前のしたことは、王家の名に泥を塗る行為だ。婚約者を人前で糾弾し、根拠の定かでない罪を着せ、しかもそれを公衆の面前で行った。……これが、いかなる結果を招くか、分かっていての所業であろうな?」
「はい」
ミヒャエルは、迷いなく頷いた。
国王は、しばし目を閉じ、それから静かに告げる。
「ミヒャエル。お前を王位継承権から廃し、王太子の座を剥奪する。以後、お前には男爵位を与え、国内最果ての地――ロシュフォール領を治めることを命ずる」
謁見の間に、重い沈黙が落ちた。
ロシュフォール領は、王国史に度々登場する。問題を起こした王族の追放先で、主だった産業も無く、大地は枯れ、戦略的価値も無く、不毛の大地が広がるせいで隣の領との交流も乏しい、まさに流刑の地と呼ぶに相応しかった。
「承知いたしました」
ミヒャエルは深く頭を垂れた。その声や表情に後悔の念は一片もなかった。
国王は素直に己の処遇を受け入れた様子に意外そうな顔を浮かべる。その後、眉間にしわを寄せつつ深い溜息を漏らして手で軽く額を押さえた。一連の顛末について何を思ったか、ミヒャエルはこれしかなかったと自分に言い聞かせつつ、不出来な己を申し訳なく思った。
「ジュリエンヌ・オルタンス」
「はい」
「ミヒャエルはあのように申していたが、真か?」
「はい。私はミヒャエル様がいかような立場になられましても、どの地に行かれようとも、共に参ります」
「何故に? もはやミヒャエルには価値など無かろう」
「愛ゆえに」
国王の問いに、傍らに控えていたジュリエンヌが、迷いなく答えた。飾り付けられた王太子としての身分、財産、権力を失ってもミヒャエルと添い遂げる、と。
その返答を聞いたフランセットが、わずかに目を見開いた。
(どうやら……私の目は節穴だったようね)
フランセットはずっとミヒャエルのことを無気力にただ王太子の座に執着している殿方だと思っていた。ジュリエンヌはミヒャエルの地位に擦り寄っただけかと思っていた。違った。彼、彼女は境遇などお構いなしに、素の相手に惹かれ合ったのだ。
(もしかしたら私は……ミヒャエル様とちゃんと向き合えていなかったかもしれない)
その思いは、しかし、もはや手の届かない過去への感慨に過ぎない。
もしも互いに歩み寄っていたら、ミヒャエルの苦しみを察していたら。
ミヒャエルにこのような決断を下させやしなかったかもしれないのに。
けれど、現実はこうしてフランセットの隣にはクレマンが立っている。
ミヒャエルは全てをかなぐり捨ててでもジュリエンヌを選んだ。
この後は決してフランセットとミヒャエルの道が交わることはあるまい。
こうして、ミヒャエルとジュリエンヌは、王都を後にすることとなった。
◆◆◆
ロシュフォール領は王都から馬車で半月ほどかかる国内最果ての地だった。冬は雪深く、夏は短く、年間を通して日照時間はさほど無い。領地の大半は痩せた土地で、目立った産業もなく、まさに流刑地に相応しい領地だった。
馬車の窓から見える景色は王都の華やかさとは何もかもが違っている。新たな住居となる石造りの屋敷は小さく古びており、案内に出てきた管理者たちの表情には新しい統治者への戸惑い、そしてある種の諦めが浮かんでいた。
「これは……想像以上だな」
ミヒャエルは率直にそう呟く。しかしその声に落胆の色など無い。毎年豊作で天災とも無縁な領土などよりはるかにやりがいがあり、むしろ楽しげな響きすらあった。しかし、ジュリエンヌに不憫をかけると察して慌てて彼女の方を振り向くが、隣に立つジュリエンヌは屋敷を見上げながら苦笑するだけだった。
「住むだけなら問題無さそうですけれど、男爵としての体裁を整えるのでしたら、大変そうですね」
ジュリエンヌは境遇を嘆かず、既に突き付けられた現実を前にどう打開するかを考え始めていた。
「ああ。だが」
ミヒャエルは深く息を吸い込んだ。冷たく澄んだ空気が肺を満たす。王都の重苦しい空気とはまるで違っていた。
「不思議だ。これほど何もないというのに、肩が軽い。王太子という重荷を下ろしただけでこんなにも違うとはな」
「国の未来でしたらきっとミヒャエル様にも背負えたんだと思います。フランセット様やクレマン殿下が支えてくださったでしょうから。けれど……それでミヒャエル様の笑顔が失われるのなら、私はミヒャエル様にあれ以上王太子を続けてほしくありませんでした」
ジュリエンヌが寄り添ってくれたからこそ、ミヒャエルはあのような婚約破棄騒動を起こせた。もしジュリエンヌと出会わなければ、自分の心を殺して王太子としてしか価値の無い存在に成り果てていたかもしれない。
「私は第一王子として生まれてきた身でありながら責任を放棄してしまった。だが、国を思えばフランセットやクレマンに託す方がいい。……いや、これは建前だな。私はただ楽になりたかっただけの、凡人だ」
「ミヒャエル様は素敵ですし立派です。ですから、もうそのようにご自分を卑下なさらないでください。何でしたら私がミヒャエル様の魅力を毎日語って聞かせますから」
それは素敵な提案だ、と素直な感想をミヒャエルは抱いた。
「ミヒャエルでいい。もう敬称など要らない」
ジュリエンヌは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。
「では、ミヒャエル。私の旦那様。これからもどうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、こちらこそ。私の愛しの妻よ」
差し出された手を、ミヒャエルはしっかりと握り返した。
◆◆◆
男爵となったミヒャエルの日々は、当然ながらこれまでとはまるで違うものになった。
国全体について取りまとめられた書類で執務室が埋もれる代わりに、最果ての大地とまで呼ばれた領地を歩き回り、状態や問題点を自分の目で確かめた。会議室で並べられる難解な数字をフランセットに丸投げする代わりに、領民たちと直接言葉を交わし、彼らの困りごとに耳を傾けた。
当然、王太子と男爵とでは役目への取り組む方が全く違う。最初のうちは勝手が分からず失敗も多かった。それでも度重なる失敗にもめげず、ジュリエンヌと共に問題を解消し、着実に領地を立て直していった。
そういったひたむきな姿勢が少しずつ、領民たちの心を動かしていった。初めのうちは「また問題を起こした王族のお出ましか」と言った軽蔑と諦めの眼差しが強かったが、改善が進むにつれて領民は「この方ならもしかして」と希望を抱くようになった。
ミヒャエルの男爵領統治には、かつて王太子時代に見せていた無気力さの欠片もなかった。フランセットやクレマンと比べられることなど無い。ここでなら自分の裁量で、十の時間をかけて十の成果を出すことが出来る。ミヒャエルは確かな充実感を覚えることができた。
誰かと比べられるのではなく、昨日の自分と比べて少しでも前に進む。それだけで、こんなにも心が満たされるのだ、とミヒャエルは初めて実感した。
ジュリエンヌもまたこの土地に馴染んでいった。彼女は持ち前の気さくさであっという間に領民たちと打ち解けた。
「奥方様は気取ったところがなくて、話しやすいわ」
村の女たちは、そう言ってジュリエンヌを慕うようになった。彼女は屋敷に閉じこもることなく、市場に出て、村の子供たちに読み書きを教え、時には農作業を手伝うこともあった。
「男爵夫人が畑仕事とはな。王都に拘る貴族連中なら卒倒ものだろうな」
ミヒャエルがからかうように言うと、ジュリエンヌは土のついた手をはたきながら笑った。
「あら、私にはこちらのほうが性に合っていますもの。それに、あなただって領地を歩き回って泥だらけになっているではありませんか」
「それを言われると返す言葉もない。このように自分の手と足を動かして働くなど、想像もしていなかったな」
二人は顔を見合わせて笑った。王都にいた頃には決してなかった、屈託のない笑い声だった。
「ミヒャエル様は王都にいらした頃よりずっとお元気ですよ」
「そう見えるか」
「ええ。まるで、水を得た魚のようです」
「なんだ、その例えは。いや、そう言った表現もあるのか」
ミヒャエルは笑って頷いた。
過去を振り返ってみても、改めて自分でもそう思う。
王太子という重すぎる肩書きを背負わなくなって初めて、自分という存在がはっきりとするようになった気がした。
◆◆◆
季節はめぐり、ロシュフォール領での統治がようやく落ち着いた頃、ミヒャエルとジュリエンヌは領地の小さな教会でささやかながら結婚式を挙げた。
実質追放されたミヒャエルを祝いに来るかつての側近、臣下、友人なども姿は無い。ジュリエンヌの両親、男爵夫妻は王宮で伺いを立ててから出席。娘の晴れ姿に感極まってしまった。王都からの来賓はいなかったが……、
「殿下。陛下および王太子殿下方より祝いの文を頂いています。こちらに」
「ありがとう。弟やフランセット……いや、王太子殿下方はご息災だったか?」
「はい。むしろ環境のよろしくないこの地に封ぜられた殿下方を案じておられました」
「心配ないと伝えてくれ。どうやら私は自分で思った以上に適応出来たようだ」
国王からの手紙は格式ばった文面が綴られ、クレマンからの手紙は主に近状報告が記載されていた。ここまではミヒャエルの予想通りだったが、フランセットからの手紙はこれまでミヒャエルの知る彼女からは想像出来ないほど、人間味が現れていた。
(もしも、与えられた義務をこなすばかりではなく私個人と関係を深められていたら、か。私の方こそつまらない見栄を張らずにフランセットと向き合い、抱いた辛さを打ち明けていたら……)
すれ違い、に集約されてしまうかもしれないが、それでも自分を支えつつ政務を一手に引き受けるより、優秀なクレマンと共に歩み、互いに支え合った方がフランセットにとっては幸せだろう。
(お幸せに、か。私には勿体ない言葉だ。だが……何もかも捨ててまで選んだ道は、もう絶対に投げ出しやしない)
そんな挙式には領民たちが大勢集まり、皆して祝福した。見捨てられた最果ての地と呼ばれたロシュフォール領は二人の手で徐々にだが豊かになりつつある。自分たちのために働く領主たちへの感謝も多々含まれていた。
豪華でなくても皆から祝われてこうも嬉しいとは、とミヒャエルは胸が温まった。
「誓いの言葉を」
牧師に促され、ミヒャエルはジュリエンヌの目をまっすぐに見つめた。
「私、ミヒャエルは、ジュリエンヌを生涯の伴侶とし、これからの人生を共に歩むことを誓う。王子としてではなくただの一人の男として、君を愛し続けると誓う」
ジュリエンヌの目に、涙が滲んだ。
「私、ジュリエンヌも、ミヒャエルを生涯の伴侶とし……どんな場所でも、どんな暮らしでも、あなたの隣で笑っていられるよう、共に歩んでいくことを誓います」
教会の鐘が、静かに鳴り響いた。窓から差し込む光が、二人を優しく照らしていた。
王都から遠く離れたこの小さな土地で。かつて「不出来な王太子」と呼ばれた王子はもう誰とも比べられることのないただ一人の人として再出発し、心から愛する人の隣に立っていた。
王都に届いた風の噂によれば、その後もロシュフォール領は少しずつ、しかし着実に豊かになっていったという。
そして男爵夫妻は、領民たちに慕われながら幾人もの子に恵まれ、末永く幸せに暮らしましたとさ。
お読みいただきありがとうございました。
この話は構想はしたものの一旦お蔵入りにしかけました。起承転結で言う転が弱いからです。ただ、短編ならこのような順当に話が進むのもアリだな、と思い直して形にしています。
ご意見、ご感想お待ちしています。




