御曹司に婚約破棄を宣言されましたが、ここは夜会ではなく創立記念パーティーです
「佐伯詩織。君との婚約は、今夜をもって破棄する」
帝都ホテル、鳳凰の間。
佐伯フーズグループ創立七十周年記念パーティーの壇上で、鷹宮怜央は高らかにそう宣言した。
会場には、役員、主要取引先、取引銀行、親族、報道関係者がそろっている。シャンデリアは眩しいほど輝き、壇上には創業者である祖父の写真パネルまで飾られていた。
つまり、どう考えても婚約破棄を叫ぶ場所ではない。
私は手にしていたグラスを、静かにテーブルへ戻した。
父は無言でスマートフォンを取り出した。
母は広報部長を目で呼んだ。
兄は近くにいたホテルスタッフへ、何かを小声で依頼している。おそらく防犯カメラ映像の保全だ。
そう。
ここは王城の夜会ではない。
現代日本の、上場企業グループ創立記念パーティーである。
「怜央さん」
私は壇上の彼を見上げた。
「今のお言葉、撤回されますか?」
「撤回などしない!」
怜央さんは、なぜか悲劇の主人公のような顔をしていた。
鷹宮怜央。
鷹宮ホールディングスの御曹司で、私の婚約者だった人だ。正確には、両家の業務提携強化と将来的な資本関係を見越した、かなり現代的な意味での政略婚約である。
もちろん、政略とはいえ、人前で破棄していいものではない。
少なくとも、祖父が泣く。
写真の中の祖父が少し険しい顔に見えたのは、たぶん私の気のせいではない。
「私は、真実の愛に生きることにした」
怜央さんは胸に手を当てた。
「詩織、君のような冷たい女とは違う。彼女は私の孤独を理解してくれた。私が本当に必要としていた温もりを与えてくれたんだ」
会場の視線が、怜央さんの隣に立つ女性へ向かう。
彼女は佐伯フーズの秘書課に配属されたばかりの、三浦七海さんだった。
淡いピンクのワンピースを着た彼女は、顔面蒼白で立ち尽くしている。
怜央さんは、その手を取ろうとした。
「私が愛するのは、七海だ」
「違います」
七海さんの声は、小さかった。
けれど、マイクが拾った。
会場全体に、はっきり響いた。
怜央さんが瞬きをする。
「七海?」
「違います。私は、鷹宮様を愛しておりません」
鳳凰の間が、完全に静まり返った。
私は思わず七海さんを見る。
彼女は震えていた。けれど、怜央さんの手から一歩引いた。
「おい、何を言っている。君はいつも私に優しかったじゃないか」
「秘書課の業務です」
「毎朝、私にコーヒーを淹れてくれた」
「来客対応のついでです。そもそも鷹宮様は弊社のお客様ですので」
「私の相談に乗ってくれた」
「業務時間外に何度も呼び止められました。断ると父の取引先に影響が出ると、鷹宮様の側近の方から言われました」
今度は、取引銀行の支店長が目を伏せた。
父のスマートフォンを握る手に、少しだけ力が入った。
「七海。照れなくていい。私は君を守る」
「守るとおっしゃるなら、まず私を壇上に上げないでください」
七海さんの声が震えた。
「私は本日、進行補助として会場におりました。突然お名前を呼ばれ、断る間もなく壇上へ連れてこられました。婚約者になるなど、聞いておりません。承諾もしておりません」
怜央さんの口が開いたまま止まる。
私は、一歩前へ出た。
「怜央さん」
「詩織、君は黙っていてくれ。これは私と七海の問題だ」
「いえ。私の婚約を、この場で破棄するとおっしゃったのですよね?」
「そうだ。君は私を愛していなかった。いつも業務提携だの、役員会だの、現実的なことばかりで――」
「現実的なことを申し上げます」
私は会場の端へ視線を向けた。
父の顧問弁護士が、すでに到着していた。早い。ホテル内の別室に控えていたのかもしれない。
「婚約破棄については、両家で協議いたしましょう。私は構いません」
怜央さんが、勝ち誇ったように笑う。
「やはり君は私を愛してなど――」
「ただし」
私は遮った。
「この場で私に非があるかのように断罪したこと。三浦さんを本人の同意なく“真実の愛の相手”として公表したこと。弊社創立記念パーティーを私的な演説で中断させたこと。これらについては、別途正式に対応いたします」
兄が微笑んだ。
「先ほどからの映像と音声は、ホテル側の記録に残っています。報道関係者もいらっしゃいますし、SNSへの投稿もすでに確認中です」
広報部長が小さく頷く。
母は穏やかな顔で七海さんを見た。
「三浦さん。こちらへ」
七海さんは、泣きそうな顔で私たちの方へ降りてきた。
私は彼女にハンカチを差し出す。
彼女は小さく頭を下げた。
「申し訳ありません、佐伯さん。私、何度も違うとお伝えしたかったんです。でも、どうすればいいか分からなくて」
「謝るのはあなたではありません」
私は怜央さんを見た。
「勝手に誰かの婚約を終わらせ、勝手に誰かを次の相手に決める。そういう振る舞いが許される時代ではありませんので」
怜央さんは、まだ理解していないような顔をしていた。
「私は、真実の愛を――」
「その真実の愛とやらは、少なくとも三浦さんの同意を得てから口にしてください」
会場のどこかで、誰かが咳払いをした。
笑いをこらえた音に聞こえた。
顧問弁護士が壇上近くへ進み出る。
「鷹宮様。詳しいお話は、別室で伺います」
その名刺を見た瞬間、怜央さんの顔色がようやく変わった。
私は七海さんの隣に立つ。
婚約者を失った女と、次の婚約者にされかけた女。
本来なら、互いに憎み合う役を与えられていたのかもしれない。
けれど、ここは王城の夜会ではない。
現代日本である。
誰かが勝手に決めた役など、演じなくていい。
「三浦さん」
「はい」
「少し騒がしくなりますが、大丈夫ですか」
七海さんは涙を拭って、かすかに笑った。
「はい。今度は、ちゃんと自分で説明します」
私は頷いた。
壇上では、怜央さんが顧問弁護士と父に囲まれている。
真実の愛。
美しい言葉だと思う。
けれど、同意のない愛は、ただの迷惑だ。
私はグラスを取り直し、シャンパンを一口だけ飲んだ。
少しぬるかった。
まあ、仕方ない。
婚約破棄の処理に、適温のシャンパンまで求めるのは贅沢というものだ。




