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恋愛小説のはずでした

御曹司に婚約破棄を宣言されましたが、ここは夜会ではなく創立記念パーティーです

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/06/27


「佐伯詩織。君との婚約は、今夜をもって破棄する」


帝都ホテル、鳳凰の間。


佐伯フーズグループ創立七十周年記念パーティーの壇上で、鷹宮怜央は高らかにそう宣言した。


会場には、役員、主要取引先、取引銀行、親族、報道関係者がそろっている。シャンデリアは眩しいほど輝き、壇上には創業者である祖父の写真パネルまで飾られていた。


つまり、どう考えても婚約破棄を叫ぶ場所ではない。


私は手にしていたグラスを、静かにテーブルへ戻した。


父は無言でスマートフォンを取り出した。


母は広報部長を目で呼んだ。


兄は近くにいたホテルスタッフへ、何かを小声で依頼している。おそらく防犯カメラ映像の保全だ。


そう。


ここは王城の夜会ではない。


現代日本の、上場企業グループ創立記念パーティーである。


「怜央さん」


私は壇上の彼を見上げた。


「今のお言葉、撤回されますか?」


「撤回などしない!」


怜央さんは、なぜか悲劇の主人公のような顔をしていた。


鷹宮怜央。


鷹宮ホールディングスの御曹司で、私の婚約者だった人だ。正確には、両家の業務提携強化と将来的な資本関係を見越した、かなり現代的な意味での政略婚約である。


もちろん、政略とはいえ、人前で破棄していいものではない。


少なくとも、祖父が泣く。


写真の中の祖父が少し険しい顔に見えたのは、たぶん私の気のせいではない。


「私は、真実の愛に生きることにした」


怜央さんは胸に手を当てた。


「詩織、君のような冷たい女とは違う。彼女は私の孤独を理解してくれた。私が本当に必要としていた温もりを与えてくれたんだ」


会場の視線が、怜央さんの隣に立つ女性へ向かう。


彼女は佐伯フーズの秘書課に配属されたばかりの、三浦七海さんだった。


淡いピンクのワンピースを着た彼女は、顔面蒼白で立ち尽くしている。


怜央さんは、その手を取ろうとした。


「私が愛するのは、七海だ」


「違います」


七海さんの声は、小さかった。


けれど、マイクが拾った。


会場全体に、はっきり響いた。


怜央さんが瞬きをする。


「七海?」


「違います。私は、鷹宮様を愛しておりません」


鳳凰の間が、完全に静まり返った。


私は思わず七海さんを見る。


彼女は震えていた。けれど、怜央さんの手から一歩引いた。


「おい、何を言っている。君はいつも私に優しかったじゃないか」


「秘書課の業務です」


「毎朝、私にコーヒーを淹れてくれた」


「来客対応のついでです。そもそも鷹宮様は弊社のお客様ですので」


「私の相談に乗ってくれた」


「業務時間外に何度も呼び止められました。断ると父の取引先に影響が出ると、鷹宮様の側近の方から言われました」


今度は、取引銀行の支店長が目を伏せた。


父のスマートフォンを握る手に、少しだけ力が入った。


「七海。照れなくていい。私は君を守る」


「守るとおっしゃるなら、まず私を壇上に上げないでください」


七海さんの声が震えた。


「私は本日、進行補助として会場におりました。突然お名前を呼ばれ、断る間もなく壇上へ連れてこられました。婚約者になるなど、聞いておりません。承諾もしておりません」


怜央さんの口が開いたまま止まる。


私は、一歩前へ出た。


「怜央さん」


「詩織、君は黙っていてくれ。これは私と七海の問題だ」


「いえ。私の婚約を、この場で破棄するとおっしゃったのですよね?」


「そうだ。君は私を愛していなかった。いつも業務提携だの、役員会だの、現実的なことばかりで――」


「現実的なことを申し上げます」


私は会場の端へ視線を向けた。


父の顧問弁護士が、すでに到着していた。早い。ホテル内の別室に控えていたのかもしれない。


「婚約破棄については、両家で協議いたしましょう。私は構いません」


怜央さんが、勝ち誇ったように笑う。


「やはり君は私を愛してなど――」


「ただし」


私は遮った。


「この場で私に非があるかのように断罪したこと。三浦さんを本人の同意なく“真実の愛の相手”として公表したこと。弊社創立記念パーティーを私的な演説で中断させたこと。これらについては、別途正式に対応いたします」


兄が微笑んだ。


「先ほどからの映像と音声は、ホテル側の記録に残っています。報道関係者もいらっしゃいますし、SNSへの投稿もすでに確認中です」


広報部長が小さく頷く。


母は穏やかな顔で七海さんを見た。


「三浦さん。こちらへ」


七海さんは、泣きそうな顔で私たちの方へ降りてきた。


私は彼女にハンカチを差し出す。


彼女は小さく頭を下げた。


「申し訳ありません、佐伯さん。私、何度も違うとお伝えしたかったんです。でも、どうすればいいか分からなくて」


「謝るのはあなたではありません」


私は怜央さんを見た。


「勝手に誰かの婚約を終わらせ、勝手に誰かを次の相手に決める。そういう振る舞いが許される時代ではありませんので」


怜央さんは、まだ理解していないような顔をしていた。


「私は、真実の愛を――」


「その真実の愛とやらは、少なくとも三浦さんの同意を得てから口にしてください」


会場のどこかで、誰かが咳払いをした。


笑いをこらえた音に聞こえた。


顧問弁護士が壇上近くへ進み出る。


「鷹宮様。詳しいお話は、別室で伺います」


その名刺を見た瞬間、怜央さんの顔色がようやく変わった。


私は七海さんの隣に立つ。


婚約者を失った女と、次の婚約者にされかけた女。


本来なら、互いに憎み合う役を与えられていたのかもしれない。


けれど、ここは王城の夜会ではない。


現代日本である。


誰かが勝手に決めた役など、演じなくていい。


「三浦さん」


「はい」


「少し騒がしくなりますが、大丈夫ですか」


七海さんは涙を拭って、かすかに笑った。


「はい。今度は、ちゃんと自分で説明します」


私は頷いた。


壇上では、怜央さんが顧問弁護士と父に囲まれている。


真実の愛。


美しい言葉だと思う。


けれど、同意のない愛は、ただの迷惑だ。


私はグラスを取り直し、シャンパンを一口だけ飲んだ。


少しぬるかった。


まあ、仕方ない。


婚約破棄の処理に、適温のシャンパンまで求めるのは贅沢というものだ。

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