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獣の武術士  作者: トスキング


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第5話 音

聖都中層街の朝は、人工的な静寂に包まれている。

ザンは、武術士協会が用意した宿泊施設の一室で、自身の右拳をじっと見つめていた。

昨日のガバランとの死闘。

その拳に残る感触は、これまでの誰とも違っていた。

ただの肉の塊を打った時の鈍い手応えではない。

己の全てを賭け、誇りを守るために立ちふさがった一人の武人の、魂の重み。


ザンの胸元には、ガバランの最後の一撃が刻んだ、皮膚を焼き切るような打撲痕がいまも鈍い熱を帯びている。

それは痛みであると同時に、ザンが初めて手にした、他者との『繋がり』の証のようにも感じられた。


「武、か……」


独りごちた声は、無機質な部屋の壁に吸い込まれていった。

スクラップ・ヘイヴンでゴミを漁り、飢えを凌ぐために拳を振るっていた頃のザンにとって、戦いとは生存そのものだった。

だが、この聖都で出会う者たちは違う。

彼らは、生存の先にある何か――名誉、誇り、あるいは己の存在証明のために、命を削り合っている。

ガバランが倒れ際に見せた、あの満足げな、それでいて一切の悔いを感じさせない瞳。

それが、ザンの内側にある『飢え』の正体を、少しずつ変質させ始めていた。


腹の底が鳴る。

ザンは立ち上がり、昨日新調したばかりの、だが既に激戦で端々が擦り切れた漆黒の衣装を纏った。

今日はザンの試合はない。

第二予選のトーナメントは佳境に入り、各地で本戦出場を賭けた激戦が繰り広げられている。

ザンは、自分の次の対戦相手が決まるであろう、別ブロックの試合が気になっていた。

いや、それ以上に、自分以外の武人たちが、どのような『意志』を持って戦っているのかを、その目で見極めたかった。


アリーナへと続く大通りは、今日も観客たちの熱狂で沸き立っていた。

ザンが歩くたびに、人混みが波のように割れる。

「スクラップ・ヘイヴンの怪物」

その異名は、いまや恐怖だけでなく、ある種の畏怖と期待を込めて囁かれるようになっていた。

中層の住人たちにとって、既存の理を破壊し続けるザンの存在は、退屈な日常を刺激する最高のエンターテインメントだった。


アリーナの観客席の片隅、影の濃い場所にザンは陣取った。

周囲の観客は、ザンの巨体とそこから漏れ出る『剛』の戦気に気圧され、誰も近づこうとしない。

ザンは腕を組み、眼下で繰り広げられる舞台を凝視した。


「……次は、第十八試合か」


実況の戦気が会場に響き渡る。

舞台に上がったのは、対照的な二人の武人だった。


一人は、しなやかな体躯に灰色の軽装を纏った男。

その両手には、歪な形状をした二刀の短剣が握られている。男の周囲には、目に見えるほどの戦気の渦が巻いていた。

『流』の性質。

それも、極限まで速度と鋭利さに特化させた、刺すような気配。


対するは、重厚な刺繍が施された深紅の法衣を纏った、初老の男だった。その手には、武具とは言い難い、奇妙な形状の打弦楽器が握られている。

弦が幾重にも張り巡らされたその楽器からは、男が歩くたびに微かな、だが神経を逆撫でするような不協和音が漏れ出ていた。

男の戦気は、ザンがこれまで出会った誰とも異なる、広範囲に広がる『気』の性質。

穏やかでありながら、空間そのものを支配しようとする、底知れない圧力を秘めていた。


「……始め!」


その宣告と共に、アリーナの空気が弾けた。


先に動いたのは、短剣の武人だった。

『流身』による超高速の踏み込み。

彼の姿は一瞬にして掻き消え、次の瞬間には、紅衣の男の背後へと回り込んでいた。

短剣が、空気を切り裂く鋭い音を立てて振り下ろされる。

だが、紅衣の男は振り返ることすらしない。

彼は手に持った打弦楽器の弦を一閃させた。


――ギィンッ!


鼓膜を突き刺すような金属音が、物理的な衝撃波となってアリーナを駆け抜けた。

短剣の男は、獲物が標的に届く直前、目に見えない壁に衝突したかのように後方へと弾き飛ばされた。

男は空中で体勢を立て直し、砂塵を上げながら着地する。その表情には、驚愕と、隠しきれない警戒が浮かんでいた。


「……音で攻撃、秘術か?」


ザンは、目を細めてその光景を追った。

紅衣の男が放ったのは、単なる音波ではない。

自身の戦気を音という媒体に乗せ、空間そのものを硬質化させる秘術。

男は再び、楽器の弦を指先で弾いた。

今度は、一つではない。

複雑な旋律が奏でられるたび、アリーナの舞台上には、目に見えない『刃』や『壁』が幾重にも構築されていく。


紅衣の男の秘術『共鳴する死曲』

奏でられる音色の一つ一つが、殺傷能力を持った戦気の塊へと変貌し、全方位から短剣の男を追い詰めていく。

音から逃れる術はない。

空気を伝わる振動そのものが、敵の肉体を内側から破壊しようと牙を剥く。


短剣の男は、絶体絶命の包囲網の中で、自身の戦気をさらに一段階引き上げた。

彼の持つ二刀の短剣が、青白い光を放ち始める。

それは『流』の戦気を極限まで圧縮し、物質としての限界を超えさせようとする試みだった。


「『空を断つ双翼』!!」


男が短剣を交差させ、一気に振り抜いた。

短剣の軌跡から、巨大な斬撃の波が放たれる。

それは音の壁を力ずくで切り裂き、紅衣の男へと一直線に突き進んだ。

物理的な質量を持たない音の具現化に対し、男は純粋な『鋭利さ』で対抗しようというのだ。


斬撃と音が衝突するたび、アリーナには雷鳴のような轟音が響き渡った。

舞台の床は粉々に砕け散り、激しい砂塵が視界を遮る。

観客席からは、息を呑むような静寂と、それに続く割れんばかりの歓声が交互に沸き起こった。


ザンは、その攻防の全てを、自身の細胞に刻み込むように見つめていた。

短剣の男の、一瞬の隙を突く爆発的な速度。

紅衣の男の、空間そのものを支配し、敵を翻弄する知略。

どちらも、ザンが持たない『理』の極致だった。

だが、その洗練された技の応酬の中に、ザンは自分と同じものを見出していた。


勝利への渇望。

そして、己の全てを賭けて相手を凌駕しようとする、魂の叫び。

それは、スクラップ・ヘイヴンのゴミ溜めで培われたザンの野性と、本質的には何も変わらない。

ただその表現方法が、より高度に、より美しく昇華されているだけなのだ。


試合は、佳境に入っていた。

短剣の男は、絶え間なく放たれる音の刃によって、全身に無数の傷を負っていた。

灰色の衣装は赤く染まり、呼吸は荒い。

だが、その瞳に宿る光は、未だに衰えてはいなかった。

彼は、最後の一撃を放つべく、自身の全戦気を短剣へと注ぎ込んだ。


対する紅衣の男も、楽器を構え直し、最大の旋律を奏でようとしていた。

彼の周囲の空間が、戦気の過負荷によって歪み、陽炎のような揺らぎを見せている。


「……終わらせよう。この調べと共に」


男が弦を、渾身の力で掻き鳴らした。

放たれたのは、これまでの不協和音とは一線を画す、荘厳で重厚な一撃だった。

音の具現化は、もはや不可視の刃などではない。

巨大な『鐘』を直接叩きつけられたかのような、物理的な質量を伴った音圧の壁。

それはアリーナの空気を押し潰しながら、短剣の男を飲み込もうと迫る。


「おおおおおッ!!」


短剣の男が叫んだ。

彼は逃げることを止め、その巨大な音圧の壁に向かって、真正面から飛び込んだ。

二刀の短剣が、限界を超えた戦気によって青白い炎を上げている。

彼は空中で体を捻り、自身の肉体そのものを一本のドリルへと変えた。


『空を断つ双翼・連天』

斬撃が、音圧の壁に突き刺さる。

キィィィィィン、という、耳を劈くような高周波がアリーナを包み込んだ。

観客の多くが耳を塞ぎ、顔を歪める。

ザンはその不快な音を真っ向から受け止め、勝負の行方を見据えていた。


音の壁と斬撃の衝突。

それは、空間を支配しようとする『気』と、一点を突破しようとする『流』の、意地のぶつかり合いだった。

短剣の男は、自身の腕が軋み、筋肉が裂ける音を聞きながらも、決して短剣を離さなかった。

あと一歩。

あと数センチ、この壁を抉り抜けば、その先に敵の本体がある。


だが、紅衣の男の秘術は、それほど甘くはなかった。

奏でられる旋律が変化する。

重厚な一音から、無数の細かな振動へと。

突き刺さっていた短剣の刃が、その微細な振動によって共振を始めた。


「なっ……!?」


短剣の男が驚愕に目を見開いた瞬間、彼の握っていた二刀の短剣が、内側から爆ぜるように砕け散った。

戦気の過負荷と、外部からの共振。

その二重の圧力に、鋼の刃は耐えきれなかったのだ。


武器を失った男の胸元に、残った音圧の衝撃が容赦なく叩き込まれた。

男の体は、アリーナの床を何度もバウンドしながら場外へと吹き飛ばされた。

激しい砂塵が収まり、審判ドローンが降下する。


「……勝者、エルン!」


紅衣の男――エルンの名が告げられた瞬間、アリーナは爆発的な大歓声に包まれた。

エルンは、静かに打弦楽器を下ろし、乱れた法衣を整えると、深々と一礼した。

その動作には、勝利の傲慢さは微塵もなく、ただ一つの曲を弾き終えた後のような、清々しい疲労感だけが漂っていた。


ザンは、観客席の影から、ゆっくりと立ち上がった。

良い勝負だった。

短剣の男の執念も、エルンの圧倒的な空間支配も。

どちらが勝ってもおかしくない、紙一重の戦い。

だが、最後に勝敗を分けたのは、自身の力を信じ抜く意志の強さと、相手の力を利用する冷徹な計算の差だった。


(……俺なら、どうする)


ザンは、自身の胸元の打撲痕を無意識に撫でた。

あの音の壁を、自分の『剛』の拳で撃ち抜けるか。

あの微細な振動による共振を、肉体の強度だけで耐えきれるか。イメージの中で、ザンは何度もエルンと拳を交えた。

音圧に肌を焼かれ、内臓を揺さぶられながらも、泥臭く、獣のように這いずり回り、その喉元に食らいつく自分。


ザンの唇が、無意識のうちに吊り上がった。

ガバランとの戦いで得た『武人』としての誇り。

そして、今日の試合で目の当たりにした『技術』の極致。

それら全てが、ザンの内側にある『剛』の戦気を、より熱く、より重く、より凶暴なものへと変質させていく。


アリーナを後にするザンの背中を、数万人の観客の視線が追っていた。だが、ザンは一度も振り返らなかった。

ザンは自身の右拳を強く握りしめ、中層街の光の渦の中へと消えていった。

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― 新着の感想 ―
王道なのは自分が倒した相手に技を教えてもらうルートですがザンはやらなさそうですね。 見ただけで覚えたパターンもありそうです。
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