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第五話 新たな名前

「あの、助けていただいた上にこんなことをお願いするのは大変に心苦しいのですが・・・」


顔を少し赤らめた様子の彼女に男は何事かと足を止める。幸いにも先ほどの小川の上流へ少し歩くと、そこには半分腐食して苔と同化した丸木橋が架かっていて、彼らはちょうど川向うへと渡ったところだった。 「どうかされましたか?」


「その、実は野営地からお弁当を持ってきていたのですが、先ほどのどさくさで気付かないうちに鞄ごと置いてきてしまったようで・・・」


言われてみれば、陽もそろそろ頭上から落ち始めて、おやつ時という時間である。男は自分の至らなさに恥ずかしくなりつつ、老人から分けてもらったパンの切れ端がまだ残っていたはずだと古びた革袋の底をがさごそと漁ってみる。


幸いにも、ちょうど一人分のパンの切れ端が残っていた。


「すみません、少し硬くなってますが、街でご老人から分けていただきました。良ければどうぞ」


そう言って男は少し水分が抜け、くしゃくしゃと歪に切り取られた切れ端を渡す。


「わあ、ありがとうございます!でも、良いんですか?その、えっと・・・すみません、お名前はなんと呼べば・・・?」


言われてみれば、男は魔物相手に通じる名前しか持っていなかった。人間語に直しても良いが、そうすると人間には何とも奇怪に聞こえてしまう。少し思案したのち、男は書記官をやっていたころに道楽で読んでいた人間の小説の主人公の名前を思い出した。


「えっと、人間の名前はそうですね、アレクサンダー、と呼んでください」


「あら、随分高貴な身分の方でしたのね。これは失礼しました」


アレクサンダー、と聞くと彼女は目を丸くしてぺこりと一礼した。男は慌てて


「ああいや、本当の名前ではなくて、通称みたいなものですよ。本名は呼びにくいですから」


と取り繕う。


「ふふ、そうなんですね。じゃあアレクサンダーだと少し長いですし、アレクさんとお呼びしても?」


「ええ、全く構いませんよ。そうだ、お嬢さんのお名前を伺っていませんでしたね」


そういえばそうですね、と彼女は笑い、アレクに懐からハンカチを取り出してみせる。 青色のハンカチの右下に、金の糸で丁寧な刺繍がされている。


「マリア。私はマリアと申します」


マリアはそう言ってハンカチを几帳面な手つきで折りたたんで再び懐にしまい込む。


マリアが少し硬いパンに悪戦苦闘してる間、アレクはこれからについて考えていた。マリアだけならまだしも、自分のような魔物が一緒では街に出て、食料品店で食料を手に入れるのは難しいだろうし、かといってエレクとメリッサのように追剥ぎをする気にもなれない。


そうなると、その辺の小川にいる小魚を捕まえたり、木の実を食べて生活する他ないが、それなりに高貴な身分であろうマリアがそんな生活に耐えられるのだろうか。


そうこう考えを巡らせているうちに、マリアは意外にも素早くパンを食べ終え、小川のせせらぎで口元を洗っている。


「アレクさん、行きましょう、早くしないと陽が沈んじゃいますよ」


「ああ、失礼、少し考え事をしていました」


「何か心配事でも?もしかして、私がご飯を食べ尽くしちゃったことですか・・・?」


不安げに罪悪感の混じった表情を浮かべるマリアの様子に、アレクは慌てて取り繕う。


「ああいや、それこそ小川の小魚やら木の実やら、私の食べ物は全然問題ないのですが、マリアさんにそんなものを食べさせるのはいかんせん気が進まなくて」


それを聞いたマリアはきょとんとした様子でこう尋ねる


「小魚や木の実でも食べられますよ?一応父やじいやからそのあたりのことは教わっています」


意外な答えにアレクは少し面食らったが、それなら一安心と心の中で安堵のため息をつきつつ、少しずつオレンジ色に染まっていく森の中を歩いていく。


「そろそろ、このあたりで野営しましょうか」


アレクが立ち止まったのは、樹齢千年はあるかと思われる巨木の根元。もはや地面と同化した根っこはいい具合に雨風を凌げそうな避難所になり、しかも木の空洞の中にはマリア一人ならいい具合に入れそうなものもある。


アレク自身は野宿には慣れていたが、マリアについてはさすがに屋根のあるところで寝かせたいと考えていたから、こんな絶好の避難所が見つかり、アレクも一安心だった。


「じゃあ、ここで私は焚火を起こしますね。マリアさんはどうしますか?」


「うーん。それなら私は近くに何かないか見てきますよ」


手早く焚火をおこすと、ぱちぱちと赤い火の粉が空を舞い、オレンジ色の夕陽に溶けていく。気付けば今日一日でも色々なことがあったな、とゆらめく炎とマリアの小さな背中を交互に見ながら考える。

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