第二話 老人との出会い
空は灰色に沈み、真っ白な大地は静寂の中に男を包み込む。命あるものの存在を知らせるものは何もない。ネズミ一匹すらもいない死んだ街で、男は黙々と西を目指して歩いていた。
しばらく歩いていると、街の中心らしい噴水にたどり着く。当然ながら水は枯れ、ひび割れた石像が造作もなく打ち捨てられている。
男が石像を眺めていると、その足元に一人の兵士が横たわっている。見覚えのある軍服に、奇妙な顔立ち。恐らくは勇者軍の兵士だろう。とうに事切れていて、冷たくなった顔にはうっすらと雪が降り積もっている。
男は兵士の上着を脱がせ、ポケットを探る。ごそごそと漁っていると、小さな手帳が出てきた。しわくちゃになった表紙を乱雑にめくると、その兵士のものと思われる写真が数葉。どれも新しく、中には家族と思しき数人の人間に囲まれたものもある。
男はしばらくそれを眺めたのち、黙って手帳を閉じ、兵士の亡骸の傍らに手帳をそっと置いた。ポケットにはその手帳と、少しの小銭だけが入っていた。小銭はどこかで使えるかもしれないと考え、少し躊躇してから男は自分のポケットに幾つかを詰め込み、残りを今は亡き持ち主の懐に戻し、また立ち上がって歩き出した。
男は近所の老人が語る戦争の武勇伝や、映画のスクリーンに映し出される戦争の英雄たち、そして小説のページの上で躍動する魔王軍の兵士たちに憧れていた。戦争が始まったとき、皆が戦争は冬までに終わり、暖かい暖炉の前で戦争の武勇伝を語ることになると言っていた。男もそれを信じ、街の友人たちと共に役所の窓口で志願願を書き上げた。
今は戦争が始まって五年目。さらさらと風になびいていた髪は固く、ざらざらとした感触がヘルメット越しにも分かる。まだにきび痕の残っていた肌は岩のようにごつごつとして、真冬の風を受け流す。
毒ガス、爆撃、砲撃、そして略奪。街は完膚なきまでに叩き潰され、味方は戦いの終わるころにはこの街を放棄して撤退していった。気づけば夕陽が街を照らし、夜の訪れを告げんとしていた。男は辺りを見回して、廃墟と化した家々の一つを見定めると、その錆びついて金切り声を上げる金具を強引に押し上げて家の中に入った。
その家はかつて、商店のように使われていたらしく、戦闘の中で幾分か破壊されたとは言え、未だにかつての生活の気配を感じられる程度には原型を留めていた。ドアを何とか閉めて、カウンターの奥の寝室に入り、男はきしむベッドに腰を下ろして、ようやく一息ついた。
幸いにも店の戸棚にはまだ幾ばくかの食品が残っていて、男は乾パンとワインを口にして空腹をごまかすことができた。そうこうしていると、ようやく屋内で冬の風から逃げおおせた安堵と、空腹を少しばかり癒せたことで疲労感が一気に押し寄せ、眠気に襲われた男は古びた寝床の上に、その重く石のように疲れた体を横たえた。
どのくらい時間が経っただろうか。男が目を覚ました時には部屋は真夜中の静けさに沈み、真っ暗闇の中に月明りだけが反射していた。しかし、そんな静寂の中で台所の方から何やら物音が聞こえてくる。暗さに何とか目が慣れてくると、人影のようなものがゆらゆらと動いているのが分かる。
不思議と何かを警戒するような、あの泥棒がまき散らす不審な気配とは違い、安心しきって緩んだ雰囲気をその人物は纏っている。重いからと剣を捨ててきたことを悔やみながら、男は唯一手放さなかった武器であるナイフを片手に握りしめ、じりじりと台所の陰から様子を伺う。
しばらくがさごそと何かを探していたその人影は、男の気配に気づいたのか、その手を止めてのそのそと月明りの中に這い出してきた。
「おお、目が覚めたか。起こしてしまったならすまないな」
男の目の前には人間の老人が立っている。年は70を回ったくらいに見える。顔には深いしわが刻まれ、その背中は緩やかに前のめりに曲がっているが、その眼光は月明りを反射してきらきらと宝石のように輝いている。声も年の割には若々しく、それでいて柔和な口調だけは老人らしさを醸し出す。
「誰だ?」
男は長く魔物を含めて他人と喋っていなかったから、絞り出すような、少しおかしな抑揚で聞いた。
「誰って、ここの家主さな」
老人は平然と、まるで客人に応対するかのような態度である。
「邪魔してすまない。長居はしない」
老人の様子に男はようやくナイフをしまうと、足早に寝室に戻って荷物をまとめ始めたが、老人は相変わらずの調子で
「まあ待て。外も暗いし、せっかくだから飯でも食っていけ。あの乾パンとワインじゃ物足りないだろう」
と男を引き留めると、何もなかったかのように自分の背負ってきた袋を漁り、戸棚の奥から古びた食器をテーブルに並べ始める。
男は戸惑いを隠せなかったが、かといってこの極寒の中を当てもなく歩き回る気にもなれず、
「なら少しだけ」
と隙間風が吹き込む食卓に腰かけた。
老人は丁寧な手つきでパンを切り分けると、どこからともなくバターを綺麗に小分けにして男の皿に置いて、
「足りなかったら言ってくれ」
と言ってから席に着いた。
しばらくは黙々と食べ進めていた老人だが、しばらく考えたのち、
「あんた、出身は?」
と尋ねた。
「北だ。この街から1500kmは離れた、小さな田舎町だ」
「そりゃあ随分と遠くから来たもんだ」
しばらく沈黙が食卓を支配していたが、老人はぽつりと話し始めた。
「ワシはここだ。この街で生まれ育って、もう半世紀はここに住んでる」
男はそれを聞いて、少し躊躇いがちに聞く。
「どうして戻ってきたんだ。戦闘がまた始まるかもしれないじゃないか」
「なあに、こんなボロボロの街、どうやっても元には戻らんだろうし、魔王も、ワシらの国の政治家連中も欲しがらんだろうよ」
老人はそう自嘲すると、どこからか皺くちゃになったタバコの箱を引っ張り出し、男にそのうちの一本を差し出す。男はライターの魔力ガスの残りをその重みで確かめつつ、慣れない手つきで老人の手の中でぽうっとタバコに火を付けた。
「しかし、食料もいずれは尽きるだろう。そうしたらどうするんだ」
「それなら心配はいらん。ワシの家族が月に一回は様子を見に来るから、その時にワシの分の食料やら服やらを持ってきてくれる」
「そうか。それならよかった」
タバコの煙が部屋に充満し、外から吹き込む風が煙をふわりと押し出す。
「さてと」
タバコを吸い終えた老人は手元の袋から、何本かの釘と古びたトンカチを男に差し出す。
「これは?」
「こう風が吹き込んでは老体に堪える。割れた窓を木材で塞いぎたいから手伝ってくれ」
寝込みをグサリとやられなかっただけでもありがたいし、乾パンにワイン、それに夕食までご馳走になってしまった以上、それくらいのことはするべきだろう、と男は思っていたから、特段の不満も言わずにトンカチと釘を受け取った。
「分かった。割れた部分に木切れを当てればいいか?」
「ああ。その辺に転がってる切れ端を打ち付けてもらって構わん」
死んだ街の外れで、とんとんと小気味の良い音が響いている。男が窓をふさいでいる間は手持無沙汰と見えて、老人が話しかけてきた。
「しかしあんた、若いのにこんなところに置いていかれて難儀だな」
「死ななかっただけでも万々歳さ」
「これからどうするんだ」
「北へ行く」
「こんな真冬にか。大変だな」
「家に帰るのさ。あんたと一緒だよ」
「ははは、お前さんの家もワシの家みたいになってなければいいな」
これには一瞬ぎょっとして作業の手が止まったが、男が恐る恐る老人の顔色を窺っても、特段怒りや悲しみの感情はそこにはない。
「すまない」
しばらく考え込んでから、男はぽつりと言った。それは何に対しての謝罪なのか、男にも分からなかった。乾パンとワインを無断でくすねたことも、勝手に家に入り込んだことも悪いとは思っていたが、それよりも、戦争の参加者として、その被害者である目の前の老人に対しての謝罪かもしれない。老人はそれを聞いて、しばらく考え込んでから言った。
「お前さんが居てもいなくても戦争は始まったし、ワシが居てもいなくても戦争はいつか終わる。お前さんが気に病むことはないさ」
「俺たちの上官はあんた方の始めた戦争だって言ってたが、俺たち下っ端からしたらそんなことはどうでもいい」
「そりゃそうだろう。ワシは前の戦争にも行ってきたが、最後の頃にはどっちが悪くてどっちが正しいかなんて、すっかり忘れちまった」
老人はそう言って舌を出し、おどけて見せた。つられて男もこの家に足を踏み入れてから初めて、ようやくにこりと笑った。




