失恋してからの10日間〜姉姫が思いを寄せた騎士は、妹姫の手を取りました〜
◆ヤンデレ注意報発令中! 耐性のない方は避難の準備をお願いします!!◆
この物語は「ルヴァイン王国・10日と10年の物語」第二弾です。
「失恋するまでの10日間〜妹姫が恋したのは、姉姫に剣を捧げた騎士でした」の続編になります。前作を読まれていない場合、ネタバレとなります。
ルヴァイン王国連作短編第二弾
◆◆◆◆
ルヴァイン王国の姉姫ソフィアは、たった今失恋した。
自分よりひとつ上の乳兄弟であり、幼き頃より共に過ごしてきた騎士カーク・ダンフィルは、妹姫エステルの前に跪いた。二年前、正騎士の叙任の場で、国宝である聖剣を自分に捧げ忠誠を誓ったその手が、エステルの手を取ってキスを落とし、喜ぶ彼女を力一杯抱きしめている。
祝福の歓声と拍手に満たされる中、ソフィアはいつものように王太女に相応しい穏やかな微笑みを浮かべて、その光景を見守った。胸に広がる喪失感は思い出の小箱に詰め込んで蓋をした後、鍵をかけてしまい込んだ。
その小さな鍵を、彼女は永遠の泉の中に投げ捨てた。
◆◆◆◆
エステルはソフィアの二つ下の妹だ。
母親似の自分とは容姿がさほど似ておらず、ルヴァイン王国の色である深緑の髪色を持って生まれた。裏表のないまっすぐな性質と朗らかな明るさは太陽のようで、彼女がいる場所は遠くからでもよくわかった。隙を見つけては自分の部屋を抜け出し、その足で王城中を探検して回っては、ソフィアの元にもしょっちゅう忍び込んできて元気に探検報告をする。
エステルの後ろには、ソフィアの乳兄弟であるカークの姿がいつもあった。お転婆が過ぎるエステルについていけなくなった侍女たちが、お目付け役としてカークを頼ったのだ。城には自分たち姉妹とカークしか子どもがいなかった状況で、エステルの大人の想像を越えていくような探検に付き合えるのは、男の子であるカークをおいてほかになかった。
もともとソフィアは外で遊ぶよりも、部屋の中で本を読んでいたい性格だ。今思えば、遊び盛りの男の子にとって、自分に付き従うのはさぞかし退屈だったことだろう。エステルより三つ上の彼は、元気な妹姫の無尽蔵の体力にも十分ついていける、こちらも活発な子どもだった。
勉強しながら窓から見下ろす中庭を、時折二人が走り過ぎていくのを、微笑ましく見守った。不思議と羨ましいと思ったことはない。四歳のときには図書館所蔵の児童書の類はすべて読み終わり、より高度な専門書を求めるような自分にとって、帝王学やそれに纏わる学問はとても性に合っていた。姉妹だから比較される場面は多々あるが、自分には自分の、妹には妹の領分があり、それぞれが好きなことをしているだけなのだと、ソフィアは幼心に感じていた。
王太女として未来の女王として、幼い頃から勉学に励むソフィアにとって、日に何度となくある妹の突然の来訪は、一種の清涼剤のように感じられた。そしてこの妹は時折、姉である自分ですら知らない知識を運んできてくれる。
「ソフィアお姉様、見て! 東の宮殿の奥にある中庭に藤の花が咲いたのよ!」
あるとき妹が抱えてきたのは大振りの藤の枝だった。
「エステル、これ、どうしたの?」
「あのね、カークと一緒に東の宮殿まで行ったの。今の季節は藤の花が見頃でしょう? それで、とても綺麗だったからお姉様にプレゼントしたいと思って、貰ってきたの!」
にこにこと満面の笑みで差し出される藤の枝を、ソフィアは恐々受け取った。紫の絢爛たる花を咲かせた藤は確かに美しいが、茎ではなく枝に咲く花だ。王女として花を贈られたことは何度もあるが、枝ごと貰ったのは初めてだ。
「エステル、これ、どうやって切ったの? まさか自分でやったんじゃないでしょうね」
東の宮殿までは大人の足で歩いても三十分はかかる距離感については、この際問わないことにした。妹の行動力とお転婆ぶりはよくカークからも、エステルにこっそりつけられている護衛騎士たちからも報告を受けている。
それよりも恐ろしいのは、高いところに咲いているであろう藤の枝を、この小さな妹がどうやって手にしたのかということだった。姫君にしては簡素過ぎる木綿のワンピース(しょっちゅう汚れたり破れたりするためこれがエステルの普段着に採用されている)がいつも以上にドロドロで、葉っぱや小枝が貼り付いている様子に、思わず青ざめる。
もしや自分で木に登って枝を折ったのではと疑ったソフィアの勘繰りは、後ろに控えたカークによって否定された。
「大丈夫です、ソフィア様。最終的には庭師から鋏を借りた騎士の方が切ってくださいました」
「最終的には?」
「あの、最初は藤棚の棚脚に自分で登り出したんですけど、半分くらいのところまでで終わりました」
つまり半分登ったところで、護衛騎士たちが間に合ったということなのだろう。この服の汚れ具合はその直前の結果かと推測した。
「わかったわ。カークもご苦労様。よく途中で止めてくれたわね」
「いえ、俺がもっと早く、東の宮殿の藤棚を見にいくってエステル……様が言い出したときに気づくべきでした」
エステルに付き合っているとはいえ、彼もまだ年端もいかぬ子どもだ。出来ることには限界がある。それを追求するつもりはソフィアにもない。
「本当は私が切りたかったのに……騎士たちが邪魔をしたの」
「エステル、邪魔なんて言ってはいけないわ。騎士たちはあなたの身の安全のためにしてくれたのよ。それに、本当なら藤の枝を切ることだって止められても仕方なかったのに、あなたが欲しがるからわざわざ庭師にお願いしてくださったのでしょう? 感謝こそすれ、悪く言ってはいけないわ」
そう諭せば、妹はますますムクれてしまった。
「だって、ソフィアお姉様へのプレゼントだもの。私の力で取らなきゃ意味ないじゃない。大切な女性のために自分の力で得たものを贈るのが“カイショー”なんでしょう?」
「カイショーって……もしかして“甲斐性”って言いたいの?」
「そう!」
ソフィアが言い当てれば一転、満面の笑みになったエステルは、自分はいっぱしの大人だと言わんばかりに胸を張った。どこからそんな言葉を学んできたのかと、呆れ半分、おかしみ半分で妹を見つめ返す。周囲にいた侍女もソフィアの家庭教師も吹き出しそうになるのを懸命に堪えているではないか。
先ほどまで自分は、国内の領地の特産と税率について学んでいたところだった。数字は苦手ではないが、教師と議論するために適切な数字を拾い上げる作業は根を詰める。
淡々と過ぎゆく当たり前の時間を、こんなふうにかけがえのないものに変えてしまうのが、ルヴァイン王国の二の姫の力だ。張っていた肩の力が抜けるのと同時に、芳しい藤の花の香りが鼻の奥を抜けていくのを感じて、自然と笑みが溢れた。
「ありがとう、エステル。よければ一緒に飾りましょう」
侍女に花瓶の用意をさせて、藤の枝を生けていく。姉姫の部屋に飾られた姿に満足したのか、エステルは「次は西の宮殿に行ってくるね!」と元気に部屋を出ていった。「エステル……様っ、待って!」とカークが慌ててついていく。
二人の足音が遠ざかるのを感じながら、ソフィアは今一度藤の花を眺めた。図鑑で見たことはあったが、本物を見るのはこれが初めてだ。木に咲く花という知識でいたが、こんなふうに垂れ下がって咲くことを初めて知った。教師に尋ねれば、貴人の家では藤棚というものを作って、そこに枝を這わせて楽しむのだという。東の宮殿は今は無人のため、そこにあるという藤棚を話題にする人もない。大人の足でも往復一時間はかかる距離を走り抜けて、ソフィアのために甲斐性を発揮したエステルが運んでくれなければ、ソフィアがこの色香を楽しむ機会に恵まれることはなかっただろう。
自分にない力を秘める妹姫の、駆けていく声がどこからともなく響くのを聞きながら、ソフィアは笑みを深めるのだった。
◆◆◆◆
カーク・ダンフィルはソフィアの乳兄弟だ。エステルのお目付け役に抜擢されて以降は妹とともに行動することが増えたが、彼の母親であるダンフィル子爵夫人は、乳母の任を解かれた後も侍女としてソフィアに仕えてくれているため、その関係で今でも近しい幼馴染だ。
ソフィアの目が届かないエステルのお転婆ぶりは、いつもカークから報告される。
「最近は騎士団の修練所に行くのがエステル……様のお気に入りです」
「修練所? そんなところに行って何をして遊んでいるの?」
「騎士の方たちが剣を教えてくれるんです。遊んでいるというか、遊ばれているというか……本人は至って真剣ですけど」
どうやら何かの折に紛れ込んだ騎士団の修練所で模造の剣を貸してもらい、剣術の稽古に興味を持ったらしい。
「騎士たちに馬にも乗せてもらって、大喜びでしたよ。国王陛下に乗馬の許可を貰ってもっと練習するんだって張り切っていました」
「あの子ってば、女の子なのになんでまた……」
おっとりと呆れた声をあげれば、カークがふっと笑みを漏らした。
「エステル様は、騎士の忠誠に興味を持ったみたいです」
「騎士の忠誠って、生涯においてただひとりに剣を捧げる、あの儀式のこと?」
「はい。女王陛下となられたソフィア様に剣を捧げたいのだそうです。自分はあまり勉強が得意じゃないから、剣でソフィア様を守りたいと」
「私のため……」
カークの言葉通り、妹はあまり勉強が得意ではない。決して物覚えが悪いわけではなく、少々飽きっぽいのだ。ひとつのことを深掘りするより、広くたくさんのことを興味のある端から摘んでいく性質だ。
ソフィアは自分が王太女としてこの国を背負っていくことを重荷とは感じていない。けれど同じものを妹に背負わせたいかと言えば、否だ。
「そんなこと、あの子が気にする必要はないのに」
エステルにはエステルの役割がある。どちらが上とか下とか、そういうことではなく、本分が違うのだ。
姉のためにと思ってくれることは素直に嬉しいが、妹は妹が望むように生きてくれたらいい。それがソフィアの願いでもある。
今は与えられたばかりの新しい遊びに夢中になっているだけだろう。元来飽きっぽい性格だ。また違うものに興味を惹かれて、すぐに夢中になるはずと息を吐けば。
「エステル様は、たぶん本気だと思いますよ」
ソフィアの乳兄弟はそう言って苦笑した。否定するのも違う気がして、そのままにやり過ごす。
妹の一番近くで、彼女のことを一番よくわかっているはずの彼が予言した通り、エステルの騎士団通いは毎日の習慣になった。
◆◆◆◆
騎士としての訓練に夢中になるエステルと違って、カークはどこか一線を引いていた。幼いとは言え貴族の子どもだ。自分の身の振り方について、いつかは真剣に考えなければならないときがやってくる。カークを雇っているのは父王だが、乳兄弟という仲もあって、ソフィア自身が彼の主人であるとも言えた。
だから彼が望む将来を、ソフィアも出来る限り手助けするつもりでいた。騎士になりたいのであれば推薦する気でいたし、侍従や身の回りの世話をする小間使いという選択を望めば叶えてやるつもりだ。
幼い頃から王家の姫に仕えることが生業だったせいか、彼はあまり自分の希望を口にする性分ではなかった。大人から菓子を与えられても、まずエステルに選ばせてから自分は残った方を取る。そこにソフィアが混ざれば、当然ソフィアにも譲る。主導権はいつもエステルにあって、彼はそれに従うのみ。
そんな彼が初めて口にした希望が「騎士になりたい」ということだった。
きっかけはソフィアが街中で襲撃された事件だ。視察を兼ねた街歩きの最中に、露店商に扮した刺客に突然襲われた。犯人は取り潰しになった伯爵家の者だった。九歳の王太女ソフィアが税務記録からくだんの伯爵家の不正に気づき、そこから芋蔓式に王都の高利貸しとの違法な取引にまで辿り着いて、騎士団総出の大捕物となった事件の、逆恨みからくる犯行だった。いつも通りの街の様子を確かめたかったソフィアは、そうとは知らずに自ら犯人である露天商に話しかけてしまった。護衛の騎士たちは背後からその様子を眺めていた。
刺客の正体は断罪された伯爵の息子だった。事件が発覚した際、彼はすでに他家に婿養子に出されており、実家の籍を抜けていたことと、事件に直接的な関与が認められなかったため無罪となっていた。後からわかったことだが、彼はその後婿養子先から離縁され、戻る家もなく人生から転落したことを恨み、自らが捕縛されることも命を失うことも承知の上で犯行に走ったのだった。
幸い騎士たちの手によって犯人は呆気なく捕縛されたが、間の悪いことにソフィアのすぐ隣には、この日たまたま視察に同行していたカークもいた。エステルがはしかを発症して王城で隔離されていたため、久々にソフィアに従って城下に赴いていたのだ。
エステルほどの本気度ではないにせよ、毎日騎士団の訓練に混ざっていた彼の身のこなしは、刃物の扱いに慣れない犯人の動きを逸すには十分だった。はじめ彼はソフィアを庇おうと身を乗り出し、すぐに騎士たちに取って変わられた。その際、犯人が振り翳した刃物が左腕を掠め、傷自体は深くはなかったものの、ショックのあまりその場で気を失ってしまった。
目覚めたカークの見舞いに訪れたソフィアに対し、カークは「俺は騎士になります」と宣言した。
「騎士でも侍従でも小間使いでも、傍にいられるならなんだっていいと思っていました。でもソフィア様が襲われたのを見て……怖くなったんです。本当に失ってしまうのではないかと、そう思ったら、傍にいて見守るだけじゃ足りないんだとわかりました。だから俺は騎士になります。守る力を手に入れて、その上で……ソフィア様に剣を捧げます」
「カーク……」
彼のうちに湧き上がった決意と忠誠を目の当たりにしたソフィアは、だから応えた。
「あなたの忠誠に相応しい女王となれるよう、これからも努めるわ」
常に向上心を持ち努力し続けるソフィアにとって、そこにまたひとつ何かが加わったところで重荷になるはずもない。
与えられたなら与え返す。王太女として当たり前の行動を取ったまでのこと。
それが幼い頃より見知った乳兄弟だったからこそ、その思いに少しだけ重きを置いた。加えてその日から、騎士団の訓練に積極的に混ざるようになったカークはめきめきと成長して、幼いソフィアの乙女心をくすぐる存在になった。
気がつけば自分よりも背丈が伸びた彼は、十三の年に騎士学校へと進学するため、王城を去っていった。
◆◆◆◆
今となってはわかる。怪我を負ったカークが言った言葉の、本当の意味を。
騎士になって自分に剣を捧げると決めた心に嘘はないだろう。けれどその理由を、ソフィアはあのとき履き違えた。
だからこそ、ソフィアに捧げた聖剣を返納したその手で、彼は妹の手を取ったのだ。
「ソフィア様、大丈夫ですか?」
「え? ……えぇ、何も問題はないわよ」
「そうですか。顔色が優れないように見えたものですから」
言われて言葉の主を見上げた。ひとりの男が、長めの前髪の下から覗く濃紺の瞳を細めて、ソフィアをまっすぐ見ている。
「魔獣暴走の終息で、対策本部の仕事は一応の終わりを迎えました。長たる殿下が多少肩の荷を下ろされても誰も文句は言いませんよ」
「そうはいかないわ。魔獣暴走の終息は喜ばしいことだけれど、やらなければならないことは山のようにあるもの。むしろ、後方で安寧に過ごしていた私たちにとってはこれからが本番よ」
魔獣の王の復活は、英雄となったカークと彼率いる騎士団の活躍のおかげで抑えられた。騎士たちの仕事が終わっても、後処理はこれからが本番だ。荒廃した南部の復興を領主に託そうにも、ロータス領は戦いで唯一の後継を失い、老いた伯爵ひとりに任せるには荷が重すぎた。そうでなくとも国でも有数の穀物庫だった南部の壊滅状態は大きな痛手なのだ。失った騎士や領民の補償も必要だが、必要な資金が湯水のように湧いて出るものでもない。国内のどこかから調達してこなければならず、その穴埋めをいかに柔軟にあてがうかまで考えなければならないとあっては、漂うお祭りムードに酔っている場合ではない。
だからソフィアは今日も執務室に詰めている。それが王太女の勤めだ。失恋の痛手から立ち直っていなかろうと、たとえそのせいで夢見が悪く、碌に睡眠が取れていなかろうと、課された責務から逃れることはできない。むしろ、不眠で曇る頭に荒療治を仕掛けるかのごとく、仕事を詰め込んでやり過ごそうとしていた。
そうしなければ、どうかするとあの日目の前で繰り広げられたカークとエステルの抱擁が思い出されてやりきれない。
眉間を揉む手に力を込めれば、執務室の入り口に人の出入りがあった。ここ二年の緊急事態にあって、扉は常に開け放たれ、誰もが急ぎで入ってくることができるようにしてある。
果たして、姿を見せたのはこの国の宰相その人だった。
「失礼いたします、ソフィア様」
「宰相閣下。わざわざおいでになられなくとも、呼んでいただければ私の方から参りましたのに」
王女である自分の方が立場は上だが、国の重鎮中の重鎮である宰相は別格だ。未曾有の国難の中、彼の舵取りがあったからこそ最小限の被害で食い止められ、戦いを維持できた。魔獣暴走の後処理で目が回る状況の中、四十を越える彼の存在は、若輩であるソフィアよりも頼りになる。
「いえ、この件は事が事ですので、私から参るのが道理にございます」
「というと、私の婚約に関わることでしょうか」
「左様にございます。今ほど陛下にもお目通し頂き、最終候補者が出揃いました。あとはソフィア殿下にお任せするとのことにございます」
「前にも申した通り、急ぎ婚約してくださる方ならどなたでもかまいません。陛下と宰相閣下にお任せします」
魔獣暴走で後継を失ったロータス伯爵家にカークが養子に入り、王女であるエステルを夫人に迎えて復興の旗印にするという案は、英雄の帰還とともに王城内で浮上した。すでにロータス伯爵も承知済みという恐るべき根回しの良さで、誰かが影で糸を引いているのではと勘繰ってしまうほどだ。とはいえ怪しいところは見当たらず、当の本人たちも承知したとあっては反対する者もない。ソフィアは南部の様子を見てはいないが、英雄と王家の姫が被災地に腰を据えることは、復興の大いなる力となると、現地の惨状を知る騎士や役人たちが賛同しているところを見るに、物理的にも精神的にも良案と言えるのだろう。
だがその施策の皺寄せがまさか自分に来るとは思いもしなかった。エステルが降嫁すれば王家に残るのは独身のソフィアだけとなってしまう。それでは王家の後継問題として心許ないという言い分は、わからないでもない。だがソフィアはまだ十九歳。将来的に結婚して子どもを産む可能性は十分あるのだから、いささか心配がすぎるというものだ。仮にソフィアが子宝に恵まれなかったとしても、エステルとカークの間に生まれた子を王家の養子として迎えることもできるし、父王の弟や妹の系譜に受け継がせることだって十分可能だ。
なぜそんなにソフィアの相手選びを急ぐ話になるのか、ソフィア本人にとっては不本意極まりなかったが、両親や宰相、その他の貴族たちまでもがソフィアに選択を迫った。まるで何か、逆らえない波に飲まれたかのような、そんな不可思議な状況に置かれて、ソフィア自身も拒むことが難しくなった。
いつもの自分ならもっと毅然と立ち向かえていたことと思う。けれど残念なことに、失恋という大きな痛手を負っていたソフィアは、冷静に思考する能力を欠いていた。長年思い続けた乳兄弟との未来が潰えた今、自分の将来に改めて思いを馳せることができなかったのだ。
だから父に任せると、そう言ってしまった。それが一種の逃げだとわかっていても、自分で選ぶことを避けた。
(選んで、また失ってしまったら、きっと立ち直れない)
なおも言い募る宰相に「そちらで選定をお願い」と重ねて告げて、部屋から追い立てた。
そのまま書類に目を落とせば、自分の手元に影が重なった。
「ご自分で選ばなくてよろしいのですか」
「ランバート卿……」
先ほど顔色が悪いと指摘してきた彼が、まだ自分の傍に残っていた。宰相補佐として共に魔獣暴走に政治面で対応してきた彼は、二十代でありながら宰相の後継として名高い若手官僚だ。両親はすでに亡く、ランバート伯爵家の爵位も継いでいる。父王の執務の代行もしているソフィアにとって、旧知とまではいかないが、見知った存在だ。
その彼が、濃紺の瞳を細めてそう聞いた。
「……えぇ。問題ないわ。父と宰相閣下にお任せしていれば間違いはないでしょう。大切なのはエステルとカークの婚姻の方であって、私の話ではないのです」
誰が用意されても、それがカークでないことは間違いない。だったら誰でもいいと、ソフィアはある意味達観していた。
「なるほど」
彼がそう呟いたのを機に再び書類に目を向ければ、やがて頭上から人の気配が消えた。
静かになった執務室で、ソフィアは一心不乱に手と目と頭を動かした。足音もなく部屋を後にした男が、廊下で仄暗い笑みを浮かべていることなど、知りもせずに。
◆◆◆◆
両親に呼び出された席で、選定された婚約者の名前を知らされ、さすがのソフィアも目を見張ることとなった。
「ユリウス・ランバート宰相補佐、ですか?」
その場に同席した彼を不躾に見つめたのは仕方のないことであろう。つい先ほどソフィアに「顔色が悪い」と指摘したときも、この話題について微塵も匂わせなかった彼が、未来の王配となることは少々想定外だった。
「宰相補佐はランバート伯爵家の御当主では?」
頭の中にはこの国の貴族の系譜がすべて詰まっている。彼は次男だが、長男が病弱で領地から出られず、十代の若さで家督を継いだはずだ。当主や嫡男である時点でソフィアの婚約者候補から外されるはずだ。
「確かに私は家督を継いでいますが、我が家には兄がおります。若い時分に病を患った影響で後継が望めない身体になったため、私が伯爵位を継ぎました。しかしながら兄の体調はすでに回復しており、今は領地の面倒を見てくれています。私が王家に婿入りしても、伯爵家の運営に支障はありません」
「ご長男様が快癒されたことは大変喜ばしいことですが、その、伯爵家の後継はどうするのです」
将来ソフィアとの間に子がたくさんできれば、誰かを養子に出す選択も取れなくはない。だが今の王家にソフィアとエステルの二人しかいないことを鑑みても、絶対の安全策ではない。
だが彼はこともないかのように答えを広げた。
「子爵家に嫁いだ妹が子宝に恵まれ、三人の男児の母となりました。将来誰かを養子に貰うことも十分可能でしょう」
「……」
完全な理論武装に、ソフィアはそれ以上の質問を失った。これは完全に外堀が埋められているということだ。突く点があるとすれば伯爵家という家格が王家と少々釣り合いが悪いということくらいだが、先例がない話でもない。
押し黙ったソフィアに父王がおずおずと切り出した。
「実は急ぎであちこちに打診をしてみたのだが、あまり芳しい返事が得られなくてだな。何、ソフィアに不足があるというわけではない。この二年の間に、めぼしい候補者たちは軒並み水面下で婚約を結んでいたようなのだ。状況が状況なだけに公表を控えてはいたようだが」
魔獣暴走という国難に見舞われていたルヴァイン王国では、この二年の間に慶事が慎まれていた。討伐隊の中には貴族家が輩出した騎士も多くいたたため、身内が命懸けで戦っている中、婚約や婚姻を積極的に推し進める気にはなれなかったのは尤もな話だ。
だがそれも数日前までのこと。慎まれていた慶事は、エステルとカークの婚姻を皮切りに一気に進むであろう。自分の婚約話は予想外の出来事ではあったが、とはいえ候補者が皆無というのはどういうことか。
父に代わって、同席していた宰相が苦虫を噛み潰したような表情で口を開いた。
「実は、ソフィア様の婚約者候補の選定について、魔獣暴走が収まらないうちから妙な噂が流れていたようなのです。荒廃した南部の復興に充てる資金を得るために、王太女のお相手は国外から選ぶことになるであろうという話が、貴族たちの間でまことしやかに囁かれていたようでして……」
「なんですって?」
「誠にもって失礼千万な噂であります。まるで持参金欲しさに未来の王配を決めようとしているようで、実に甚だしいこと。事実無根の話ではありますが、なぜかこの噂を信じた者たちが多くいたようでして。ソフィア様のお相手とみなされていた若者たちも、それならばと別の女性と婚約を決めたのだと申しております。そのような事情から、候補者の選定にはかなりの困難が生じたのです」
宰相の話に、ソフィアは今置かれている状況のすべてを理解した。ソフィアの婚約者が国外から選ばれるとなれば、お相手候補として残っていた同世代の者たちは別の相手を見繕わねばならない。それならば少しでも早く動いた方が条件のいい相手と縁付けるというもの。お相手の女性たちも、女性であるがゆえに男性よりも適齢期に敏感だ。ある意味戦時下に近い状況で、適齢の男性が目減りしている中、細かく条件をつけて四の五の申せる立場にもない。
かくして水面下でいくつもの婚約が結ばれ、結果として自分があぶれてしまった、ということだ。一国の王女であり、未来の女王が約束された自分が、である。
「ということだ、ソフィア。幸いというか、ランバート卿が独り身であったことはある意味僥倖ではあったがな。彼であれば王配として女王たるそなたを支える才覚も十分だと、宰相も太鼓判を押している。……とはいえそなたの大切な縁談がこのようになってしまうことを、私も王妃も良しとは思っていないのだ」
「そうよ。ランバート卿は素晴らしい方だけれど、あなたはルヴァイン王国の王太女ですもの。選ぶ権利はあなたにあるわ。エステルのことは別にして、きちんと時間をかけてもいいはずよ。そのうちまた国外からのいいお話もたくさん舞い込むはずだもの」
「……いいえ、お父様、お母様、私、決めました。ランバート卿と結婚します」
両親の思いを断ち切るように、ソフィアはそう宣伝した。断ち切ったのはきっと己の思いだ。エステルとカークを心から祝福するためにも、自分の退路は断った方がいい。
「そういうことですから、ランバート卿もよろしいかしら」
「仰せのままに、我が君」
そしてユリウス・ランバート宰相補佐はソフィアに近づき、彼女の前に膝をついた。
「騎士ではありませんので剣を捧げることはできませんが、生涯に渡りソフィア様の手となり足となり、貴女様に私の心を捧げると誓いましょう」
するりと手を取られ、彼の唇が自身のそれに触れた。手にキスを受けたことなど何度もあるので慣れているはずだった。
けれど——。
「……っ」
ただの唇の温度とは違う、初めて味わう感触に、一瞬手を引きかけた。しかし込められた力に動きを封じられる。
(な……っ、今、何をしたの!?)
ただのキスの感触ではなかった。今のはまるで……舐められたかのような。
(まさか。ランバート卿に限って、そんな)
辣腕の宰相が最も目をかけ、自身の後継として指導している男は、カークのような逞しい体躯ではないが、すらりとした長身に整った顔立ちをしている。ソフィアが彼に抱く印象は真面目で出しゃばらず、かといって大人しすぎるというわけでもない、仕事ぶりが丁寧な青年というものだ。
きっと自分の思い違いだと、焦る胸の内を整える。元より両親と宰相が見ている前でこの手を振り払うわけにもいかない。
ここまで顔色ひとつ変えず対応していたソフィアだったが、跪いた若き宰相補佐がふと浮かべた仄暗い笑みに、僅かに眉を顰めた。
(見間違い、よね……多分)
こうして失恋してから10日目に、ソフィアの未来の伴侶が決められた。
◆◆◆◆
国王の名の元に、急ぎ王太女の婚約者の発表の準備が行われている最中。
「お部屋までエスコートする栄誉を頂けますか」
「……えぇ」
いつもの自分なら、部屋に戻る程度のことでエスコートなど頼まない。だが自分の相手が定まったことを急いで広めなければならない事情もある。
(エステルとカークの耳にも、もう届いているのかしら)
かつての乳兄弟はこの知らせに何を思うだろう——。恋心には蓋をして鍵をかけたが、今からやってくる未来への戸惑いが、自分を過去へと押し戻そうとする。
こんなことでは駄目だと自分を叱咤しながら、隣を行く青年を見上げた。たった今自身の婚約者に納まった、つい先ほどまでただの王女と官僚の関係でしかなかった相手。
「ランバート卿の周囲の方々は納得されているのよね」
「兄と妹、それに親戚に知らせるのはこれからになりますが、反対する者はありませんよ」
「そうではなくて……」
彼の年齢は二十五だったか六だったか。優秀な男で、王立大学をソフィアと同じ最短の五年で卒業していたはずだ。文官として登用されてわりとすぐに宰相に見出され、異例の若さで補佐に抜擢されたのは記憶に新しい。加えて伯爵の肩書きもある。名も実も、見た目も備わった男性が、浮いた噂ひとつないというのもおかしい。
もしや将来を約束した相手がいたにも関わらず、貰い手のない自分の婿がねとなるよう、父王や宰相に迫られ、断れずにいるのではないか。ソフィアがそう考えたのも無理ないことだった。
「どうぞご安心を。二十一で文官となり、仕事に邁進しているうちに今回の魔獣暴走の災禍に見舞われました。あまりの忙しさに恋人を持つ暇などありませんでしたので」
ソフィアの思惑を言い当てられ、思わず鼻白んだ。しかしすぐに彼が優秀な男だったことを思い出す。自分が言外に込めた意味くらい、簡単に見抜いてしまうだろう。
彼の能力であれば未来の王配として、国の舵取りをしていかねばならない自分の十分な支えとなるはずだ。父や宰相が少ない候補の中から推すだけのものがある。この選択は想定外だったが、悪いものではないはずだ。
「ランバート卿、どうもありがとう」
「どうかユリウスとお呼びください。ソフィア様」
「……ユリウス殿。今後ともどうかよろしく」
執務室に戻ったソフィアが、彼のエスコートから手を引こうとしたとき。
「少しお話をさせて頂いても?」
ユリウスにそう微笑まれ、ソフィアは頷いた。手を引いたまま室内に移動した彼は、この二年間常に開け放たれていた執務室の扉を、片手で閉めた。
「ランバート卿!」
「緊急の事態ですのでご容赦を。扉の外の護衛には伝えてあります」
未婚の男女が扉を閉じた部屋で二人きりになるなど、たとえ婚約者であっても許されることではない。羞恥と怒りで声を荒げそうになったソフィアは、けれど彼の力強い腕に抑えられ、息を呑むことになった。
「ランバート卿! いったい何を……っ。婚約の話が出たからといって、こんな」
「英雄殿への思いは断ち切ることができましたか」
「……っ」
彼の鋭い瞳と思いもかけぬ名前に、ソフィアはさらに息を呑んだ。
「……な、何を」
ソフィアがカークに思いを寄せていたことが、周囲に知られているはずがないのだ。なぜなら自分は完璧な王太女として、常に微笑みと冷静の仮面を被ってきたのだから。カークと結ばれたエステルに、ソフィアもカークのことが好きなのだと思っていたと言われたくらいだから、完璧ではなかったのかもしれないが、それでもカークはただの乳兄弟だと説明すれば、妹はあっさり納得してくれた。
だから今自分が行うべきことは、否定することだ。ソフィアは崩れかけた仮面を即座に付け直した。
「いったい何を言われるのかと思えば……。そんな戯言を確認するために扉を閉めたのですか」
ユリウス・ランバートと言えば、宰相が一目置くほどの優秀な人材というほかには、何も特徴がない男のはずだった。
だが人畜無害だった彼の腕にソフィアは今絡め取られている。
「ひとつ忠告申し上げます。あなたが英雄カーク・ダンフィルに抱いていた思いは、決して恋などではありませんでしたよ。せいぜいが身近な同世代の異性への憧れという範疇です」
「あなた、いったい何を……」
「想像してみてください。もし英雄に選ばれたのがカーク・ダンフィルでなく、エステル様だったらどうでしょう」
「え……?」
「あなたは妹姫の剣の誓いを受け取り、戦線へと彼女を送り出しましたか? 魔獣という人の理を理解できぬ獣の餌になるかもしれない役目を、エステル様に負わせたでしょうか。その尊い身体を貪られ肉片となり、遺体すらも戻らぬまま深い森の奥で朽ち果てる——そんな可能性がある場所に、国のために死に物狂いで働いてこいと追い立てたでしょうか」
彼の言葉を受けて、ついその光景を想像してしまった。深緑の騎士服に身を包んだエステルが聖剣を自分へと捧げる姿を。討伐隊の先頭に立って振り返ることなく旅立っていく姿を。見たこともない魔獣を倒すために剣を振るうエステルに、突如として鋭い牙が襲いかかる。その攻撃を躱すことができず、魔獣に喰いつかれ苦しみながら倒れる、大切な大切な妹姫——。
「やめて! そんなこと、あの子にさせられるわけがないでしょう!?」
「それが答えですよ、ソフィア様」
「————!!」
蒼白となったソフィアに、ユリウスは畳み掛けた。
「あなたがカーク・ダンフィルに抱いていた思いは断じて恋などではない。本物の恋なら、自分の命と引き換えにしてでも相手を守りたいと願うものだ。現に私は——あなたのためなら死ねる。一度破滅しかけた命を、あなたに救ってもらったのだ。もう一度、今度はあなたのために捨てろと言われるなら本望だ」
息をつく間も無く、ユリウスはソフィアの首元に顔を寄せた。ぞわりとソフィアの背筋が震える。数分前に婚約の約束を交わしただけの男に許される距離ではなかった。ソフィアが声を上げれば、さすがに足止めされている護衛騎士たちがなだれ込んでくるだろう。
だが彼女は何かに絡め取られたかのように動けなかった。やがて彼の息づかいがソフィアの鎖骨の辺りまで降りてきたかと思うと——熱を持った際どい感触を刻んだ。
(キス、された……いえ、違う、これは)
舐められたと気づいた瞬間、ごく至近距離で彼の瞳が仄暗く揺れる様が見えた。
「……今は政略でもかまいません。必ずあなたを溺れさせてみせます。私が、本物の恋を教えて差し上げましょう。焦がれて、何を押してでも手に入れたいと……そのためにはなりふり構っていられぬような、すべてを投じるほどの恋を」
吐息が絡むほどの距離で、目線だけを上げてそう言い切った彼は、唇をつけたままのソフィアの鎖骨に歯を立てた。
「……いっ!」
痛みのあまり悲鳴が口から溢れ、生理的な涙が目尻に浮かんだ。いつの間にか両手を掴まれ、身動きを封じられたソフィアは、白々と息をするしかない。
「キスマークなんて簡単に消える印で満足できるはずないでしょう。ここまで来るのに十年かかったのです。この程度だって物足りないくらいですよ。あなたを愛するのも、傷つけるのも、もう私だけです」
赤く腫れた鎖骨に今度こそ間違いなく舌を這わせ、ユリウスはようやく身体を起こした。されるがままのソフィアは、かつてないほどの混乱に襲われていた。考えなければならないことが山のようにあるのに、鎖骨から広がる甘い痛みにくらくらして、頭が回らない。
「十年っていったい……」
ようやく口にできた言葉がそれかと、内なる冷静な自分が呆れる。こぼれたソフィアの言にユリウスはまた仄暗く瞳を揺らした。
「……十年前、私はあなたに救われました。そのときから、この身と心はあなたに捧げると決めたのです。聖剣に頼らねばできぬ誓いに劣るとは言わせません」
そしてユリウスは目尻に残ったままだったソフィアの涙に唇を寄せた。
「あなたを泣かせるのも、生涯に渡って私だけです。憶えておいてくださいね」
痛みとは真逆の、けれどよく似た熱に翻弄されて、ソフィアは頷くよりほかなかった。
その日の午後は体調不良を理由に、生まれて初めて執務を放棄した。
ベッドに横たわっているうちにいつの間にか眠ってしまったソフィアは、夕方、目を覚ます。
夢すら見ずにぐっすり眠れたのは、ずいぶん久々のことだった。
◆◆◆◆
翌日、首元まできっちり覆ったドレスに身を包んだソフィアは、予定通り議会に出席した。そこでソフィアとユリウスの婚約が正式に受理された。
どうかすると宰相よりも、その背後に控えるユリウスに目がいってしまいそうになるのをごまかしながらその他の議題にも対応したが、どこか本調子ではない気がしていたたまれない。
そんなソフィアに追い討ちをかけるかのように、議会終了後にユリウスが近づいてきた。
「お部屋までエスコートする栄誉を頂けますか」
「……」
咄嗟のことで返答に困るソフィアに、周囲からの視線は生ぬるかった。婚約者となった男性に傅かれることに照れているのだろうと、そう誤解されていることがありありとわかる。
議会に出席していた父王も微笑んで二人を見守っていた。宰相の表情はやや硬い印象だったが、「このまま休憩してきなさい」と部下を送り出す。拒否権がないことを悟ったソフィアは、「お願いします」と告げるよりほかなかった。声が震えてしまうのを、はたして気づいた者がいるだろうか。
自分はこの人が怖いのだろうかと、改めてユリウスを見つめれば、ありきたりの視線が普通に返ってきた。隣を行く彼は実に紳士的で、ソフィアの歩みにも過不足なく合わせてくれる。まるで昨日の出来事などなかったかのような穏やかさだ。
だが現実は。
昨日の午睡から覚めて、晩餐の前に寝汗を落とそうと湯浴みをしたソフィアの鎖骨には、彼がつけた噛み跡が確かにあった。痛みこそ感じたが、そこまで強く噛み付かれたわけではない。それでもみみず腫れのように残った傷に湯が滲みて、ひりりとソフィアの心までをも引っ掻いた。
王女として大切に傅かれてきた自分に、初めてつけられた傷。その意味を、ソフィアはまだ把握しきれていない。戸惑うような、いたたまれないような、そんな気持ちで歩いていると、隣でふっと息を漏らす気配があった。
「先ほど、議会で私を見ておられましたね。目が合ったとき、慌てて逸らしていらしたでしょう」
「そんなこと……っ」
「すぐに立て直して、いつもの完璧な王太女の姿に戻ってしまわれて残念でした。……取り乱したあなたの方が好みだったので」
「————!!」
あの一瞬の気持ちの揺れを見抜かれたことが、ソフィアには衝撃だった。失敗を取り繕うかのように彼女は小さく声を荒げた。
「あなたが昨日、あんなことをするから……っ」
「婚約を破棄したくなりましたか?」
「それは……」
王太女である自分の婚約はもはや国事だ。たった今議会にも承認された。今更覆すことなどできない。ソフィアが心から望んだとしても、いろんな意味で許されない。なぜなら自分は王族であり、その言動には誰よりも重い責任が付きまとう。
「まさか一度承諾したことを覆したりしませんよね? 未来の女王であるあなたが、家臣の心を弄ぶのですか。……酷い女性だ」
考えていたことの図星を指され、ソフィアは慌てて首を振った。
「心外です。そんなことするはずないわ」
王家の姫として未来の女王として、そうあるよう求められ、実践してきた。だから、この怪しい男との婚約を破棄することなどもうできないのだと己を納得させ、自由な方の手を胸の上で握りしめた。
(……今更なかったことにできないから、婚約を続けるより他ないのよ)
何度も繰り返し自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、鎖骨の痛みとそれを覆うほどの熱がぶり返して、ますます朦朧としてしまいそうだ。
こんな感情を自分は知らない。今まで読み漁ったあらゆる書物にも、こんなときの対処法など書かれていなかった。
こわい、けれどもっとほしい——。矛盾した状況で、自分はなぜかこの男の手を振り払えない。見えないものに絡め取られたかのような閉塞感に、息苦しささえ覚えた。思えば英雄であるカークが帰還してから、いや、それ以前から、うまい具合にピースがぱたぱたと噛み合う出来事が多すぎる。まるで見えざる手がソフィアや王国を誘っているかのようだ。
その手に、なぜか隣を行く婚約した男の手が重なって見える気がして、そんなはずはないと軽く首を揺らした。ここ数日の怒涛のような展開に、さすがの自分も疲れているのだろうと無理矢理納得させる。
そんなソフィアを見て、襟の詰まったドレスの下の、自分がつけた愛しい傷を思って、ユリウスはますます笑みを深めた。
己の恋を叶えるために彼が費やした時間は——実に十年。
そのことを、ソフィアはまだ知らない。
◆◆◆◆
ユリウスの物語「恋を叶えるまでの10年間〜姉姫を手にいれるために、宰相補佐になりました」(https://ncode.syosetu.com/n3845kf/)に続きます。
聖剣を見て「こんなものなければよかったのに」と思ったエステル。
聖剣の誓いを受け取り、聖剣に国の未来を託したソフィア。
この対比が、二人の王女の生き方や立場、思いの違いを表していた、という設定です。
ヤンデレ宰相補佐の物語と、ヒーロー視点の聖剣の捉え方についてはまた別の短編にて。