英雄は毒婦の前で跪く.5
マリアドールはジェルフの手を借り馬車に乗る。
ジェルフは御者に行き先を指示するとマリアドールの向かいの席に座り、ハンカチを手渡した。
「これを使えばよい」
「ありがとうございます」
頬と髪を拭くと白いハンカチがワインの赤色に染まる。ドレスの染みはすでに手遅れで拭いても取れそうにない。
「今度お会いした時、新しいハンカチをお返しします」
「必要ない。それより頬の傷が目立つな」
傷口に伸びてきた指に、反射的にびくりとしたマリアドールを見て、ジェルフが慌てて手を引っ込めた。
「悪い、傷口に触れたか」
「いえ、大丈夫です。ちょっと……慣れていないだけなので」
頬を赤くして俯く姿は初々しく、到底毒婦とは思えない。
渡されたハンカチで頬の赤みを隠すマリアドールを見て、ジェルフが訝し気に眉間に皺を寄せた。
「先程はありがとうございました。おかげであの場を切り抜けることができました」
「いや、むしろ助けるのが遅くなって申し訳ない。あのようなことはよくあるのか?」
「そうですね。画廊まで乗り込まれたことが数回。あっ、でも画廊は執事も手伝ってくれていて、ことなきを得ております」
マリアドールに仕える使用人は執事のレガシーとその妻ターリナだけ。レガシーは主に画廊を手伝いながらマリアドールの領主としての仕事も助けてくれている。ターリナは家事全般を担っていた。
「そうか、それならよかった。だが、俺の前で怪我をさせたのだ、詫びはしなくてはな」
「? どうしてですか。スタンレー様は関係ないと思うのですが」
「そんなことはない。仮といえど俺達は婚約するのだ。婚約者を守るのは当然の責務だろう」
確かにそうだが、まさかもう、その設定が始まっていたとは。
(スタンレー様は王女様に結婚を迫られている御身。早く婚約したことにしたいのね)
「では、執事にはスタンレー様を婚約者として紹介すればよいのですね」
「そうだ。挨拶する前に簡単な設定だけでも作っておこう」
「急展開ですが、承知いたしました。どこで出会ったことにしましょう」
「今宵でいいだろう。俺が一目惚れしてその日に結婚を申し込んだ」
あっけらかんと言うが、今まで独身を貫き通していたジェルフが毒婦に一目惚れなど、設定に無理がありすぎるだろう。
(この男、正気? それとも脳筋?)
「おい、今失礼なことを考えているだろう」
「……ソンナコトアリマセンヨ」
「マリアドール嬢は貴族令嬢と思えないほど、感情が面に出る。そうだ、そういうところに惚れたことにしよう」
「いえいえ、思いっきり無理がありますよ?」
設定が雑すぎではないか。
とはいえ、無理のない設定なんて思いつかない。そもそも全てが無茶振りなのだ。
「そんなことはない。だって、マリアドール嬢は一目惚れされてもおかしくないほど美しいのだから」
「!!」
マリアドールの顔がぼっと赤くなる。頭から湯気が出そうだ。なんでそんな歯の浮くようなセリフを、しれっと口にできるのか。
(き、奇麗? ほとんど化粧もせず、流行遅れの貸しドレスを着ている私が?)
そんなはずはない。
しかし、ジェルフの顔はいたって真面目。ということは。
「スタンレー様、目が悪いのですか?」
「いや、寧ろ良い方だが?」
狭い馬車の中、整った顔で微笑まれては、もうどう答えてよいか分からない。
今馬車はどこを走っているのかと外を見ると、幸いなことに見知った景色が流れていた。
「もうすぐ着きます。ではスタンレー様の仰る設定で……」
「ジェルフだ。そう呼んでくれ」
「分かりました。ジェルフ様、ですね」
「ジェフでも良いぞ?」
「うっ、それはもう少ししてから考えます」
なんだか揶揄われている気がする。
(駄目だわ。毒婦だからこその仮初の婚約。奔放な女性が好きな変わった性癖をもつジェルフ様が私に一目惚れをした。この設定を壊さないようにしなきゃ)
ここは毒婦らしく悠然と構えたいところだが、いきなりハードルが高い。
とりあえずピンと背筋を伸ばすも、顔は赤いままだ。
馬車は小さな画廊の前で止まった。
手を借り降りると、持っていた鍵で自ら扉を開ける。
「こんなところに画廊があったのだな」
「父が作った画廊ですから、小さいし歴史もありません」
この国、ダンバルガスで最大かつ最古の画廊といえば、ハーレン侯爵家が経営しているものだ。
王都に美術館も持っていて、その一角にあるイベントスペースでは、オークションや新進気鋭の画家ばかりを集めた展覧会もしている。そこから世に名を馳せる画家が登場しており、ダンバルガスの芸術の要ともいえるだろう。
扉の先は真っ暗。分厚いカーテンで窓が覆われ月明かりも入ってこない。
そのせいか、室内に立ち込める油絵の具の匂いが濃く感じる。
「絵が傷むので、いつもカーテンを閉めているのです。灯をつけますので少々お待ちください」
マリアドールは、暗闇にも関わらず慣れた手つきでカンテラに火をともすと、それを手に奥へと向かう。
壁際に立てかけられた衝立の裏に隠すようにして急な階段があり、ギシギシと音を立てながら上がっていくと、階上から足音が聞こえた。
「マリアドール様、今お帰りですか。予定より遅かったので心配を……おや、そちらの方は」
階段途中で話しかけられたマリアドールは立ち止まって振り返ると、カンテラで自分の後ろを歩くジェルフの顔を照らす。
「ジェルフ・スタンレー公爵様よ」
「えっ、どうしてここに公爵様が? って、マリアドール様その顔は? まさか公爵様に?」
再び階段を上がるにつれマリアドールの顔の傷がはっきりと見え、レガシーはグレーの瞳をカッと見開いた。
白髪混じりの茶色い髪を振り乱し、小さく細い身体で今にも飛び掛からんばかりの勢いに、慌てたのはマリアドールだ。
「違うの。これはちょっとトラブルがあって。ジェルフ様は私を助けてくださったのよ。ジェルフ様、こちら執事のレガシー。奥にいるのが彼の妻ターリナです」
二階まできたマリアドールはレガシーの肩を押し、狭い廊下にジェルフが上がれるだけのスペースを作る。
ジェルフは二階に上がると、レガシーに向け小さく会釈をした。
「初めまして。いきなり押しかけてすまない」
「いえいえ、こちらこそマリアドール様を助けて頂きありがとうございます。それにしても、見事にやられましたな」
レガシーはジェルフに「少々お待ちください」と伝えると、ターリナに濡れたタオルを持ってくるよう頼んだ。ターリナは一階に降りるとすぐに階段を駆け上がり戻ってきた。
「マリアドール様、こちらをどうぞ」
ターリナが濡れタオルをマリアドールの頬に当てる。「痛っ」とマリアドールが小さく呟いた。
「我慢してください。すぐに軟膏をお持ちしましょう」
「ありがとう、これぐらい平気よ。それより、ドレスを汚してしまったわ。ワインの染みだから落とせないわよね。貸衣装だけれど、買い取るしかないのかしら」
「はっ? 貸衣装なのか?」
思わず、と口を挟んだジェルフが目を丸くする。
マリアドールが当然とばかりに頷いた。
「ええ、だって夜会のドレスなんて何度も着るものではありませんし、そもそも私は今夜の夜会以外出席しませんから貸衣装で充分ですわ」
オーダーメイドで作られるドレスは、暗黙の了解で着回しがタブーだ。
何度も着ていると周りから「また同じドレスだ」と言われるし、家名を汚す振る舞いとされている。
貸衣装屋は、令嬢達が数回しか着ていないドレスを回収して少しデザインを変えて貸し出している。
なかなかうまくアレンジしているものの、流行遅れは否めない。
「それなら、俺が買い取ろう」
「ジェルフ様にそんなことをして頂く理由がありません」
「理由はある。マリアドールは俺の婚約者なのだ。君を守れなかったせめてもの償いをさせてくれ」
(ジェルフ様、いきなりぶっこみすぎですわよっ!)
前置きもなくこうくるとは。慌てるマリアドールの横でレガシーは目を丸くし、ターリナは口をパクパクさせている。
「こ、婚約!? それは、その……どういうことですか?」
「夜会で求婚したところ、受けてくれた」
「マリアドール様、本当なのですか?」
「ええ、お受けしたわ」
ここは開き直って話を合わせるしかない。
わなわなと唇を振るわせるレガシーに、マリアドールはにこりと微笑んだ。
「こ、公爵様に嫁入り……」
「そうよ。レガシー、喜んでくれないの?」
「まさか! 喜んでおります! 神に感謝しております。しかし、なぜ貧乏男爵家……っと、失礼しました」
レガシーとターリナは今やマリアドールにとって家族同然。
とはいえ、初対面のジェルフの前で執事が「貧乏男爵」は宜しくない。普段は弁えているレガシーだが動揺は隠せないようだ。
「俺がマリアドールに一目惚れしたのだ。数多令嬢のいる会場の中でも、彼女はひと際輝いていた」
「一目惚れ、でございますか。しかし、その……マリアドール様の悪評はご存知でございますよね」
「惚れた弱み、気にしていない」
その無理設定を、本当に通す気なのかとマリアドールの頬が引き攣る。
と、いきなり腰に手を当て引き寄せられた。えっ、と驚き見上げると、蕩けるような熱のこもった視線が返ってくるではないか。
「そんな瑣末なこと気にならないほど、彼女を愛おしく思うのだ」
(!!!)
まさかこんな力技でくるなんて。整った顔から発せられる甘い空気と言葉には殺傷能力がある。
(ジェルフ様、距離が近いです! そして演技がうますぎます!!)
真っ赤になったマリアドールの髪を、ジェルフが愛おしそうに撫でる。さっきまでの飄々とした顔はどこにいったのかと聞きたくなるほどだ。
「ほぉ」と感嘆のため息を漏らし二人を交互に見たレガシーは、呆然としているターリナを肘で突いた。ハッとして姿勢を正すターリナ。
「そうでしたか。それなら私から申し上げるお言葉はひとつ。マリアドール様、おめでとうございます」
「あ、ありがとう。レガシー」
「う、うっ。今まで沢山ご苦労なさったのです。スタンレー公爵様、どうぞマリアドール様を宜しくお願いします」
「ターリナ、泣かないで。ジェルフ様が困っていらっしゃるわ」
「いや、こんなに従者に思われるなんて、マリアドールはよい主人なのだろう」
茶色の瞳を潤ませ、おいおいと泣き始めるターリナ。なんならレガシーまでもらい泣きしているではないか。
(あぁ、これは良心が痛むわ。ごめんなさい。契約婚約なの。うまくいけば結婚することなく婚約破棄する約束なの)
泣かないで、と慌てて二人の背を撫でるマリアドールに対し、ジェルフは笑みを消した。
剣の鞘に手が掛かっている。
「ところでマリアドール、ここに住んでいるのは三人か?」
「えっ?」
「だとすると、階下で聞き耳を立てている者を捕らえねばな」
シャッと金属が擦れる音とともに、ジェルフは剣を抜いた。
「えっ、ええっ?」
足を引きずっているとはいえ、英雄。
さっきまでの柔らかい笑みは消え、赤い瞳が鋭く光っている。
マリアドールがランタンを階段に向けると、数段下の暗がりに小さなシルエットが見えた。
「クレメンス! ジェルフ様、クレメンスはレガシーの孫です。両親が出稼ぎに行っているので、ここで一緒に住んでいます」
「孫? 確かに影が小さい。すまん、驚かせたな」
「クレメンス、起こしちゃったのね。こっちに来て挨拶できる?」
ギシギシ、と階段を上がってきたクレメンスは、ジェルフに向かい頭を下げると、マリアドールのスカートの後ろに隠れた。八歳にしては小柄な身体で、グレーの瞳を見開きめいっぱいジェルフを睨む。
「マリアドール怪我は大丈夫?」
「擦り傷よ」
「あとが残っちゃいけないから、僕がすぐに手当をしてあげるよ」
「それよりご挨拶!」
クレメンスの赤いボサボサの髪を上から押さえつけるようにして、頭を下げさせた。
「申し訳ございません。普段貴族とあまり接しないものですから」
「気にするな、こんなに夜遅くに来た俺が悪い。もう帰るので早く手当をしてくれ」
ジェルフは剣を鞘に収めると、「怖がらせたな」とクレメンスに言い階段を降りていく。慌ててレガシーがランタンを持って追う姿を見送りながら、やっと長い一夜が終わったと、マリアドールは息をはいた。
次は夕方に投稿します!
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