英雄は毒婦の前で跪く.4
今日はここまでです。
これより前に3話投稿していますので、お読みになる際はお気をつけください。
明日からすべきことを考えながら、早足で庭を通り抜けようとした時だ。
バシャ
生け垣の中から突如人が現れ、顔に液体をかけられた。
驚きのあまり声を上げることすらできず相手を見ると、マリアドールより数歳年上の令嬢が真っ赤な顔で立っている。香りからしてワインをかけられたようだ。
「あなた、いったい何が目的なの?」
わなわなと震える腕でマリアドールを捉えると、茶色の瞳で睨んでくる。着ているドレスの質が良いので上位貴族のようだ。
「何って……どういうこと?」
「しらばっくれないで。お父様に取り入って我が侯爵家の遺産を狙っているんでしょ? 悪いけれど、あなたの思い通りになんかさせないからね」
「侯爵家。ということは、ハーレン様のご令嬢ですか?」
「わざとらしい。私のことなんてとっくに調べているんでしょう。父の机にあなたの名前だけが書かれた小切手が置かれているのを見たわ。妻に先立たれた男をたぶらかし、お金をせびっているっていうのは本当のようね」
先程ハーレン侯爵が出した小切手には、すでにマリアドールの名前が書かれていたらしい。
あとは金額を記入するだけで、もしマリアドールが頷いていれば、金額すら書かずに渡されていたかもしれない。
「小切手は受け取っていません」
「嘘よ、毒婦と名高いあなたが受け取らないはずないじゃない。私が嫁いでいなければ、母が亡くなって気落ちしたお父様に取り入るなんてことさせなかったのに。だいたいお父様もお父様よ。娘ほど歳の離れた女に懸想するなんて、お母様が可哀想だわ」
「あの、それは違います。ハーレン様は奥様のことをとても大切にされ……」
「あんたにだけには、言われたくないわよ」
バシッと音が鳴り左頬に痛みが走る。
ハーレン令嬢は扇子を握り直すと、今度は右の頬にそれを打ち付けた。
「早く小切手を出しなさい! 穢らわしいわ、あんたもお父様も!!」
「わ、私のことはどう思ってもいいわ。でも、ハーレン様を悪く言うのは……」
「お黙り! この毒婦が」
今までで一番高い位置から扇子が振り落とされる。
マリアドールは首を竦め腕で顔を庇った。
しかし、いつまで経っても痛みは訪れてこない。
恐る恐る腕を下ろし細めた目で見ると、ジェルフがハーレン令嬢の扇子を握り締めていた。
「ご令嬢がすることではありませんよ」
「貴方様は……スタンレー公爵様。どうしてこちらに」
ハーレン令嬢はハッとした顔で扇子から手を離すと、戸惑いながらジェルフを見上げた。
扇子を握っていた手を所在なさげに上下させると、誤魔化すように後ろ手に組む。
「少し通りかかっただけです。そして通りがかりついでにひとつ。マリアドール嬢は小切手を受け取っていません」
「そんな、まさか!」
「本当です。確かにハーレン殿は小切手を出されましたが、マリアドール嬢はそれを断っていました。傍で見ていた俺が証言いたしましょう」
(やっぱり会話を聞いていたのね)
静かな庭だ。大きな声で話していたわけではないけれど、耳をすませば聞き取れただろう。そこに聞こうという意志があれば、の話だが。
第三者であり、身分も地位も高いスタンレー公爵にそう言われては、ハーレン令嬢は黙るしかない。
でも、決して納得はしていないようで、マリアドールを見る目は鋭いままだ。
その視線を受け、マリアドールは小さく嘆息した。
「貴女が私を疑うのも憎むのも仕方ないと思います。でも、ハーレン様の奥様を思う気持ちは真実ですので、それは信じてあげてください」
「だったら、どうして父はあなたを呼んだの? 使用人から話を聞いて、一晩中同じ部屋にいたことは分かっているのよ」
マリアドールはチラリとジェルフを見る。
自分に婚約の契約を持ちかけた男が、この話を聞いてどんな反応をするか確かめようとしたのだけれど、ジェルフは唇の端をかすかにあげ、作りもののような笑顔を浮かべるだけ。
(物腰は柔らかいけれど、本音の見えない人ね。でも、私の仕事に干渉しないっていうのは約束は守ってくれるみたい)
「確かに私は一晩中、ハーレン様と一緒にいました。でも、ハーレン様は亡き奥様や貴女に後ろめたいことは何一つされませんでしたよ」
「そんなこと、信じられるわけないじゃない」
「でも、それが真実ですから。私を信じる必要はありませんが、ハーレン様は信じてあげてください」
深く腰を折り頭を下げるマリアドール。
ハーレン令嬢は不満顔のまままだけれど、ジェルフの手前これ以上ことを荒げるのはと思ったようで、小さく息を吐いた。
「ハーレン令嬢殿、どうぞこちらを」
ジェルフは握ったままだった扇子を差し出す。
硬いはずの扇子の骨は、いくつか折れひびが入っていた。
ハーレン令嬢は気まずそうに目線を逸らしながら受け取ると、失礼します、とジェルフにカーテシーをして立ち去って行った。もちろんマリアドールの方はチラリとも見ずに。
(はあ、とりあえずこの場は切り抜けたけれど、随分時間が経ってしまったわ。呼んだ馬車はもう帰ったかも知れない)
当然ながら貧乏男爵のマリアドールは馬車なんか持っていない。時間を単位で馬車を借り、送り迎えを頼んでいるのだけれど、その際に時間を厳守するように言われていた。
夜会では、思いもよらない出会いで帰る時間が遅れることがある。なんなら、行きと違う馬車に乗り一晩の逢瀬を楽しむ者もいるから、時間になって来なければキャンセルとみなすという約束だ。
(この時間なら急げば辻馬車に間に合うかも)
夜会のドレス姿で辻馬車なんて前代未聞、明日にはどんな噂が流れるかと思うも、帰る手段はそれしかない。
「マリアドール嬢、これは酷いな。医務室に行こう」
「いいえ、大丈夫です。急がないと辻馬車に間に合いませんから」
「辻馬車? その姿で辻馬車に乗るのか!?」
そこまで驚かなくても、とマリアドールは口を尖らせる。
非常識なのは分かっている。分かった上で仕方ないのだ。
「辻馬車にドレスコードはないのできっと乗せてくれます」
「それはそうだが、危険だ。どんな奴が乗っているか分からないんだぞ」
しかもぶたれた両頬が赤く腫れあがり、淡いグリーンのドレスにはかけられたワインの染みがベッタリと付いている。あきらかに何かトラブった姿だ。
「行こう」
言葉と一緒に出された手をマリアドールがパチクリと見返す。この手の意味は?
ジェルフは握り返さないマリアドールに苛立ったように、半ば強引に手を握ると歩き始めた。
引っ張られるも力は強くない。手は離さないけれど痛くないし、片足をひきずりながらも歩調はマリアドールに合わせてくれている。
「あの、どちらへ?」
「送って行くよ」
「まだ、夜会は始まったばかりですよ?」
会場にはワインもスイーツもまだまだある。
食べ放題、飲み放題ですよ、と思うマリアドールの気持ちを見透かしたかのようにジェルフの口角が上がる。
「俺はこの足だからダンスは苦手だし、腹は減っていない。酒は一人で静かに飲むタイプだ」
「あら、そうでしたの」
「今日の目的はマリアドール嬢、君だよ。用が済んだので帰る。ついでだから貴女も馬車に乗ればよい」
「それでしたらお言葉に甘えさて頂きますわ。ありがとうございます」
送っていく理由なんていくらでも甘い言葉で包めるのに、まるで、本当についでのようにサラリと言ってのけた。
不器用な優しさにマリアドールの口元が綻ぶ。
どうやらこの契約は結んで正解だったようだ。
(真面目で優しい人でよかったわ)
少し前を歩くその広い背中が頼もしく思えた。
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暫くは、朝と夕方の二回更新にしようと思っております。
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