英雄は毒婦の前で跪く.3
3話目です。
「ち、ちょっと待ってくれ。それでは貴女に不利益しかないだろう」
偽の婚約、果てには結婚を頼んでいるのはジェルフのほう。そんな馬鹿げたお願いがあるものかと慌てるジェルフをよそに、マリアドールはワインボトルを月明かりに照らし残った液体を不満そうに見る。
「随分減っちゃったわ」
「いや、それどころじゃないだろう」
至近距離で怒鳴られ、マリアドールは迷惑そうに眉を潜める。
まだ半分以上残っていたグラスのワインを飲み干し、再び満たすと、残りをジェルフに渡す。
「差し上げますわ」
「ありがとう、今、喉が渇いたところだ」
ジェルフは半ばやけっぱちのようにワインボトルを受け取ると、そのまま口をつけ喉に流し込んだ。
喉仏が大きく上下し、あっというまに全部飲み終えると、グイッと手の甲で口を拭う。
(色気! 色気がもの凄いのだけれど)
精悍な顔に薫るような色香。これは卒倒する人がいてもおかしくないだろう。
免疫のないマリアドールは、顔にこそ出していないけれど心臓はバクバクだ。
「で、その交換条件を持ち出した理由を聞かせてくれ」
「え、ええ。もちろんよ。私が治めている領地は山裾の小麦畑。野菜も少し作っているけれど、領民のほとんどは小麦を売って生計を立てているわ。そして、不幸なことに、ここ数年災害が続いているの」
一度目は虫の害。この時は商会を売ったお金でどうにかしのいだ。
二度目は猛暑。夏の収穫前の日照りで小麦が枯れてしまった。この時は屋敷を売ったお金で税を納め、残りは領民の支援に充てた。
そして今年は洪水だ。
「両親のいない私は返済能力がないと思われているのか、国はお金を貸してくれない。ちっぽけな土地には援助金もおりないの」
領地経営が困難に陥っている原因の一つに、収入源が小麦に偏っていることがある。
他にも作物を作っていれば、小麦がダメでもそっちでどうにか持ち越せた可能性があった。
そういう意味では、始めに商会を売ったのは悪手だったかも知れない。
(でも、あの災害の大きさを考えると、一番お金になる商会を売るしかなかったのよね)
「昨年、とある領主が税を納められなくて国に土地を返上したらしいんだけれど、国はその領地に対し税を上げたと聞いたわ。しかも、国の治める土地は広いから、細やかな支援は期待できない」
男爵家としての税が納められない場合、爵位返上だけでなく領地が国のものになる。
その結果、領民が幸せになるのであればマリアドールは今すぐにでも返上していただろう。
「かといって、このままだと私の領民は路頭に迷ってしまうわ。結婚の支度金があれば今年はなんとかなるかも知れない。でも、抜本的な解決にはならないわ。問題は、私の土地が小麦の収入にのみ頼っていることですから」
「確かに収入源が一つだというのは経営として危ういな」
ジェルフの言葉にマリアドールは大きく頷く。もちろん他の作物を作るように奨励してはいるけれど、保守的な土地柄か新しいことに挑戦しようという農民が少ない。
「そこで、貴方に領地を治めて欲しいの。公爵家なら、小麦以外にも収入源が沢山あるでしょう。たとえ小麦が不作だったとしても、他の収入があれば領地経営は安泰。不作で生活に苦しむ住人達を援助するお金はあるはずよ」
「確かにジーランド領地ぐらいの規模なら、援助はできると断言しよう。間違っても飢え死にさせるようなことはしない。でもその場合、マリアドール嬢はどうするつもりだ。手元に残るのは画廊しかないはずだ」
ふーん、とマリアドールは目の前の男を値踏みする。
(ジーランド領地の規模といい、画廊といい、私のことはそれなりに調べているのね。それに、心配してくれるんだ。偽の婚約者になって欲しいと頼まれた時は、なんて自分勝手な人と思ったけど、よい人のようね)
どこか飄々としていて掴みどころがないけれど、言っていることは筋が通っている。
そして、援助できると断言するところが好ましい。
「領民の生活が保証されるなら、私は女男爵をやめて平民になるわ。ま、今も平民のような暮らしをしているから特段何も変わらないけれど。変わることといえば、聞きたくない噂を耳にしなくていいことぐらいかしら」
だから、マリアドールの瑕疵による婚約破棄や離縁で構わない。
平民の住む世界と貴族の住む世界は隣りあっていても別物なのだ。社交界との縁が切れるのだから、なんと噂されようと知ったことではない。
「どうやら、本当の貴女は俺の聞いていた人物像とは違うようだ」
ボソリと呟いた声に、マリアドールが首を傾げる。同じタイミングで風がふき、毛先だけ緩く巻いた銀の髪が舞った。
「いたっ」
「うん、どうした?」
「イヤリングに髪が絡まったみたいなの」
イヤリングは、細いチェーンが垂れた先に涙型の真珠が付いているもの。そのチェーンに髪が絡まったようだ。
「えっ、どうしよう。イヤリングを外して……って絡まったせいでうまくできないわ」
あいにく手鏡は持ち合わせていない。
指先の感覚と勘を頼りにするも、なんだか事態は悪化している。
「じっとしていろ。外してやる」
節くれだった大きな手が近づき、耳朶に触れた。
マリアドールの肩がピクリと跳ね、おさまっていた鼓動がまた早くなる。
(耳に指が触れているだけじゃない。スタンレー様は私を悪女と見込んでこの話を持ってきたのよ。ここは平然としなきゃ)
全ては領民の安泰な暮らしのため。
マリアドールは小さく深呼吸し、指が離れるのを待った。
「……取れたぞ」
「ありがとうございます。では、契約成立ってことでいいかしら。できれば書類を作って頂きたいのですけれど」
「もちろん。立会人は必要か?」
「ぜひ。私としては……ハーレン侯爵様を希望いたします」
僅かにジェルフの眉間に皺が寄った。
「ハーレン侯爵、さっき君と話していたな。知り合いか?」
「あら、見ていらしたのですね。ええ、ハーレン様には何かとお世話に……他の方がよろしいですか?」
「いや、構わない。君の振る舞いには口を出さない約束だからな」
では、ということで立会人はハーレン侯爵となった。
(知り合いか? なんて遠回しな言い方ね。私達の会話を聞いていれば自ずと想像できるでしょうに)
もちろんその想像が真実とは限らないけれど。
「ではハーレン様には私から伝えておきます。近々会う予定がありますし」
「……そうか。では頼む」
ジェルフが立ち上がった。これで話は終わりらしい。
(思ったより長くなってしまったわ。もう辻馬車が来ている頃ね)
お皿にはまだ半分ほどスイーツが残っている。実に名残惜しい。もう二皿、いや三皿いけたはずだ。
でも、その代わり領民の生活の保証ができたのだ。そう考えればスイーツなんて安いもの。悔いはあるけれど。
(ただ、今回の洪水被害の損害を補うすべはまだ見つかっていないのよね。こうなったら最終手段を使うしかないかしら)
それは、本当に最後にしようと思っていた方法だ。
でも、上手くいけば数年後に領地は公爵家のもの。
腹を括って最後の切り札を使う時なのかも知れない。
ジェルフと近々会う約束をし、マリアドールは馬車止めへと歩き出した。