毒婦、英雄の婚約者として夜会に行く.1
本日2話目です!
「もしかして、ジェルフ様は暇なのですか?」
椅子に斜めに腰掛け執務机に肘をつくジェルフの視線が気になって、マリアドールは絵筆を置いた。場所は画廊の二階にあるマリアドールの自室。マントル司教のところから戻って二十日ほどが過ぎていた。
「暇といえば暇だな。教育担当が忙しいのは新人が入隊した春から初夏にかけての三ヶ月。それ以降、新人達は各部隊に配属され、月に数回の基礎訓練があるだけだ」
足を負傷したジェルフは、本来なら引退してもよい身。
それを教育係に留めさせたのは、幼い頃から親交があり、今はすべての騎士部隊を統括する第三王子のフレデリック殿下。
スタンレー公爵家であれば、騎士としての収入がなくても充分にやっていける。
ジェルフも引退を考えたことがあったが、辞表を退けられたらしい。
「だからといって、こう毎日のように来られては筆が進みません」
今描いているのは、ハーレン侯爵に依頼された二枚目。ジェルフには筆が乗らないといったものの、実は絶好調でほぼ描き上がっている。
「その割には、もう出来上がっているように見えるのだが」
「……まぁ、見られていると思うと、なんとなくさぼれないといいますか」
普段は休憩してお茶を飲んだり、気分転換に散歩に出かけたりするのだけれど、なんとなくしづらい。仕方なく描き続けていたら没頭してしまい、結果、いつもより絵の出来がよい。
(なんだか一つ、壁を越えられた気がする)
ふとした瞬間に、周りの音も聞こえないほど集中していたことが何度かあった。
その状態が何時間も続くわけではないのだけれど、今までより格段に腕が上がった……気がしなくもない。
とはいえ、そんな集中した状態が一日中続くことはない。
集中力が切れたとたん、ジェルフの視線が気になったのだ。
(そういえば、お父様は寝食を忘れ絵を描いていたわ。あの時は、すぐ後ろで声をかけても気づかなかったもの)
やはり天才とはそういうものなのだろう。
ジェルフが足を引きずりながらやって来る。
ぬっと、耳の横から顔を出すように覗き込まれ、マリアドールはカチリと固まった。
(近い、近いですわ! ちょっとでも動けばその整い過ぎた顔に触れそうで身動きがとれない!!)
「俺に絵心はないが、マリアドールの描く絵は温かく優しいな」
「それは、思い出がそうだからですよ」
今描いているのは、ハーレン侯爵に頼まれた家族の絵。
マリアドールにワインをかけたハーレン令嬢が五歳ぐらいの時のようだ。
「いやいや、絵の技術も必要だろう。ところで領地の話をしてもいいか?」
「はい。ジェルフ様に領地の仕事を預けたままにして申し訳ありません。おかげで絵に集中できました。」
まだ耳元にいるジェルフを避けるように立ち上がると、さっきまでジェルフが座っていた執務机に行き、書類を手に取る。続くようにジェルフが書類を覗き込む。結局、近い。
「食糧不足については、スタンレー公爵家の備蓄から配給することにした。一人当たり必要な量はこれ、領民の人数がこれで、期間はひとまず晩秋から春にかけてとした」
ジェルフが数字を指差す。掛け算をして出した数字は、マリアドールが予想していたのよりずっと大きい。
「こんなに沢山支援していただけるのですか」
「スタンレー公爵領で不作が起きた時の計算方法をそのまま使っている。微調整は必要だが、ほぼこれで問題ないだろう。堤防を作る場所については、一週間前にレガシーに案内してもらい、幾つか候補を絞った」
はい、と渡された地図を受け取り、目を通したマリアドールは感嘆のため息をついた。
「さすがですわ。私も何度か視察し、このあたりを候補に考えておりました。それを一度の視察で当たりをつけられるなんて」
「一昨年、我が領土でも洪水があったからな。その時に世話になった技術者に地図を送った。近々、見に行くと言っていた」
仕事が早い。
お金と人脈を持っているというのを考慮しても、予想以上のスピードで決まっていく。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。先行投資といっただろう。ところで、まだ描くのか?」
ジェルフが指差した絵は、ほぼ出来ているように見える。
「今日はここでやめますわ。ずっと向き合っていると、どこを直してよいのか分からなくなってくるのです。明日改めて見て、手直しが必要ならやります」
「そうか。そのセリフをずっと待っていたんだ。では、出かけるぞ」
「えっ、ずっと待っていたって……。それにどこに行くのですか?」
さっきまで絵を描いていたのだ。手は絵の具だらけだし、なんなら顔にだって絵の具が付いているかも知れない。服もエプロンはつけているものの、汚れてよい着古したものだ。
「行き先は、お楽しみということにしておこう」
「ジェルフ様、女性には身支度が必要で、それはTPOによって変わります。教えてくれなければ、私このまま馬車に乗りますよ?」
「マリアドールは何を着ていても可憐だ」
クツクツと笑うその姿は明らかに揶揄っている。
マリアドールはじろりと睨んだあと、その広い背中を押し部屋から追い出した。
「三十分で外に出られる服装にしますから、それまで下の画廊でレガシーと話していてください」
「分かった、分かった。だからそんなに押さ……」
バタン!
大きな音がしてジェルフの後ろで扉が閉められた。
ちょっとやり過ぎたかな、と眉間を掻きながら、ジェルフはすっかり慣れた薄暗い階段を降りていく。その足音がやけに嬉しそうなことに、苦笑いがこぼれた。
次回から初めてのデートです。
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