英雄は毒婦の前で跪く.1
沢山の物語から見つけてくださりありがとうございます。本日四話投稿します!
「あら、見て。マリアドールが来ているわよ」
「きっと男漁りに来たのよ。妻を亡くした男性ばかりを籠絡し、破格のお金で愛人をしているのでしょう」
「しかも、相手は定期的に変わるらしいわよ」
ひそひそと交わされる囁き声をサラリと無視し、月の光のような銀色の髪が会場を縦断する。扇の下で歪められた唇なんておかまいなしに、給仕係からワインを受け取ると口をつけた。
形の良い唇がグラスに触れ、細い喉がごくりとなる。
ライトブルーの瞳が薄く細められたその表情に、会場にいる男達の視線が集まった。
流れていた緩やかな音楽が一度止まると、今度はワルツに変わった。歓談の時間が終わりダンスが始まる。
男性達はマリアドールから視線を逸らし、令嬢達は扇を閉じ、思い思いの相手と一緒に輝くシャンデリアの下に躍り出た。
悪女、毒婦と噂されるマリアドールに声をかけようとするのは、下卑た笑みを浮かべる男ばかり。思わずグラスのワインを煽るように飲み干した。
(やってられないわ)
入り口付近の長テーブルに置かれた皿を手に取るとたっぷりの菓子を乗せ、もう片方の手でワインボトルとグラスをくすねると庭へ向かう。
(あぁ、迎えの馬車が来るまでまだ一時間もあるわ。飲まなきゃやってられない)
広い庭の隅にあるベンチへ座ると、隣に皿とワインボトルを置いて一息ついた。
ついでにグーンと腕を伸ばし、空を見る。
夏の夜空に星が輝いていた。
今日が社交シーズンの始まりである、全貴族参加必須の夜会でなければ来なかった。
マリアドールは十八歳にして男爵位を持つ。
両親が亡くなり、執事の手を借りて猫の額ほどの領地を治めることになったのが十五歳の時。領地の収入以外にも商いをしていたけれど、商会はとうに売って唯一画廊が残るだけの貧乏男爵だ。
ついでにいえば、昨年屋敷も手放し、今は画廊の二階に執事の家族と住んでいる。こうやって夜会に来るための衣装を揃えるのさえ、マリアドールにとってはいたい出費なのだ。
(領地の洪水被害による損害を補填するような話が聞けたらと思ったのだけれど、期待はずれだった)
山の裾野に広がる小麦畑は、数年に一度洪水被害を受ける。
昨年、一昨年も自然災害を被りその度に私財を投げ出して領民の生活を守ってきたけれど、それも限界。屋敷すら手放した十八歳の小娘に国はお金を貸してはくれない。
(貸してくれる人がいないわけではないのだけれど、彼らを頼るのは心苦しいわ)
子供のように足を投げ出し、サイズの合っていない靴を脱ぐ。
少し赤くなったつま先を見ていると、ふいに影が落ちた。慌てて靴を履き見上げると壮年の紳士が一人、困ったように眉を下げマリアドールを見ている。ロマンスグレーの髪を後ろに撫で付けた彼もまた、マリアドールの客の一人だ。
「こんなところにいたかい」
「慣れない夜会で疲れましたから、少し涼みに来ました。ハーレン様はどうしてここに?」
ハーレン侯爵は小さな笑みを浮かべると、胸ポケットから小切手を取り出した。
「いくら必要かね? 言ってご覧」
自然な仕草と言葉にマリアドールは弾けるように立ち上がると、とんでもないと胸の前で手を振った。
「そんな! そこまでして頂く理由がございません」
「いやいや、忘れられない一夜を過ごさせて貰ったんだ。それだけの価値はある」
「たとえあの夜がハーレン様にとってそうであっても、私にお金を貸すことはお子様達もよく思いませんわ。どうか、ご家族を大事になさってください」
マリアドールは首を振り、小切手を掴んだままのハーレン侯爵の手をそっと押し返せば、ハーレン侯爵は困ったように小さく肩を竦め、仕方ないなと小切手をしまった。
「だが、本当に大丈夫なのか」
「はい、策は打ってありますから」
もちろん嘘だし、ハーレン侯爵もそれは分かっているのだろう、眉がさらに下がり口が何か言いたそうに開いては閉じるを繰り返している。
でも、マリアドールに受け取る意思がないことが分かると、これ以上は押し問答になるだけだと諦めた。
それでも、ハーレン侯爵は「本当に困ったら言うんだよ」と何度も念押しをし、マリアドールを励ますかのように肩を叩く。
純粋に自分を心配してくれていることに感謝しつつマリアドールが「分かりました」と答えると、ハーレン侯爵はやっと納得したかのようにその場を離れた。
マリアドールは、その姿が夜の闇と一緒になったのを見届けてから背もたれに身体を預ける。
「はぁ、やっぱりいい人ね。だからこそお金なんて借りれないわ」
しかし、お金は必要だ。どうやって金策を立てようか、と悩みつつ、隣に置いたワインを手にしたマリアドールは月明かりの下でそのラベルを確かめるた。
「ふふ、いいワインだわ。できれば待って帰りたいけれどそれはできないわよね。っということで、飲みましょう」
せっかく来たのだ。美味しいものと高級酒ぐらい腹に入れて帰らなきゃ割に合わない。と、そこでマリアドールの手が止まった。
「やだっ、栓抜きを持ってこなかったわ」
これでは飲めない。
美味しそうな液体がキラキラ輝いているのに、生殺しではないか。
恨めしくワインボトルを睨めつけていると、再び影が差した。
「貸してみろ」
聞き覚えのない声にえっと顔上げると、返事もしていないのにワインボトルを奪われる。
影の主は胸ポケットからナイフを取り出し、それを突き刺すとグルリと捻り器用にコルクを開けた。
ポン、とよい音がして芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。
「グラスは?」
「一つだけ。ごめんなさい、あなたの分がないわ」
「では、直接口をつけて飲んでもよいか?」
「……」
よくはない。
そんなことされたらマリアドールはグラス一杯分しか飲めないではないか。
(それにしても綺麗な男性ね。濡れたような黒髪に赤色の瞳。彼はいつもこうやって女性を引っ掛けるのかしら)
だとすると、早くこの場を立ち去らなければ。
マリアドールはそういうことに疎いのだ。
腰を浮かしたところで、男性はベンチに置かれたグラスを手にし並々とワインを注ぐと、マリアドールに差し出した。
戸惑いながらワイングラスと男性を交互に見つつ受け取ると、男性はあろうことか片膝をつく。
(えっ、何? 何が起こっているの)
恋愛経験のないマリアドールだって知っている。
このポーズは騎士が求婚する時のもので、男性が着ているのは騎士服だ。
「マリアドール・ジーランド女男爵、私、ジェルフ・スタンレーの契約婚約者になってくれませんか?」
「…………はい?」
たっぷりの間のあと、マリアドールの間抜けな声が夜の庭にこだました。
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