目覚め
私がまず初めに感じたことは、「寂しい」だった。
目覚めた場所は荒廃した灰色の廃墟で、人の気もなく、ただひたすらに静観なそこにあるのは、私一人が奏でる小さな吐息だけ。
だから私はそこで、ただひたすらに寂しいと感じてしまった。
何もない。誰もいない。
そういえば。
一体ここはどこなのだろう。こんな場所に見覚えは無い。
そういえば。
私はいったい誰なのだろう。私は自らの名前すらも記憶が欠落していることに、今更ながらに気づいた。
だが、覚えていることも少なからずあった。
例えば、今まで見ていた夢。
さっきまで見ていた夢は、ただひたすらに幸せであった。詳細は覚えていなくて曖昧な、ぼんやりとだけ覚えているだけの微かな夢。
今にも、そのおぼろげな内容すらも消えてしまいそうな霞のような夢の欠片。
だが、それは私にとって確かに幸福だった。ただそれだけは明確に心に刻まれていた。
例えば、私の正体。
自分の名前だって覚えていないのに、それでも私が「何であるか」は、しっかりと記憶に残っていた。
だが、ほかの多くは記憶がなかった。
ここはどこなのかも。なぜ今まで倒れていたのかも。
残っている記憶も今の状況には大して役に立たなさそうである。
ここで目覚めてから、ずっと倒れたままの私の目の前には、満月に近い大きな月と真っ暗な夜の闇だけが広がっている。
夜風が少しだけ、冷たい。
ここでずっと倒れていても仕方がない。私は手をついて身を起こそうとする。
「痛ッ……!」
手の平に鋭い痛みが走り、思わず声が出る。
見ると、そこにはたくさんのガラス片や瓦礫の欠片、錆びた釘などが散らばっていた。どうやら、それらのいくつかが手に突き刺さってしまったようである。
傷のついた箇所から血が流れ、手の平が真っ赤に染まる。だがそれすらも、灰色のこの地には色鮮やかに映えて、私の眼には綺麗に映った。
「……まあ、いいか」
確かに痛みはあるものの、大した痛みではないし、何よりこの深紅は綺麗だ。治せるわけでもないからどうしようもないし、それにどうこうする気もない。
この傷は、この痛みは、きっと私の拠り所だ。名もない私の、ただ一つの存在証明。
だから、私はこの傷を放置することに決め、今置かれている状況を理解することに気を回すことにした。
倒れている時からわかっていたが、ここは朽ちた廃墟のようだ。だが建物の様式はバラバラで、木造だったり石造だったり。だがそのどれもが崩れて、色褪せていることは変わらなかった。
ところどころには大きな瓦礫が積み重なっており、元はきちんと整備されていたであろう道路はひび割れている。草木もなく、露出した土が丸見えとなっていた。
「……どうしよっか……」
どうしようもなくて独り言ちる。
自分の装備品を見てみると、ノースリーブの黒いワンピース一着きりで、足は裸足、腕も丸出しでこれではどうにも防御力に欠ける。先ほど立ち上がるときに分かったように、ここの地面はとがったものが多い。多少の怪我を構いはしないが、出血多量で倒れるなんてことは流石にごめんだ。
何か四肢を保護できるものが欲しいと思い、再び辺りを見回してみる。
よくよく観察していると、積み重なった瓦礫の下に黒い何かが落ちているのが見えた。だが、瓦礫が陰となっていてそれが何であるのかまでは判別できない。
「……少し距離はあるけど……」
動かなくてはどうしようもない。できるだけ破片などはよけながら、そこまで歩いていくことにした。
なるだけ破片を踏まないようにそっと足を踏み出す。だが、気づかなかった破片があったのか、足に何かが刺さったような痛みが走る。
それでも次の足を踏み出す。そっと静かに。
そんなことを繰り返すうちに、そう距離も歩かないうちに私の足は血塗れになってしまった。足を踏み出すたびに痛みが走る。
だが、そんな痛みにもすぐに慣れてしまう。
この痛みも、私のもの。私を肯定してくれるもの。だから我慢できるし、むしろ愛せる。
そして、遂に辿り着いた。足の痛みもあってか、一歩が遠く感じ、数メートル歩くのが長く感じた。
さっきまで瓦礫の陰となっていて見えなかったそこには、黒いポーチが転がっていた。ちょうどその黒は、私のワンピースと同じ色。同じ黒。
きっとこれは私のものだ。そう直感する。根拠といっても、色が私の服と同じである、ということぐらいしかない。だが、それでも私は間違いないと感じた。
ポーチを拾おうとしゃがんで手を伸ばす。
すると、伸ばした手に黒くて細い、糸のようなものの集合体がかかった。
「……なんだこれ……?」
それが気になり、伸ばした手を引っ込めて、その黒い物体をつかんで引っ張ってみる。すると、頭の方から鈍い痛みがした。
「……あー、髪か」
納得した。鏡もなくて、特に気にもしていなかったが、これはどうやら私の髪の毛であるようだ。そういえば目の端にちらちらと映っていた気もする。
私の髪の毛は黒色で、長さは腰に届かないくらいの少し長めな感じ。あちこち毛が跳ねているが、身だしなみに無頓着な私があまり気にするところでもない。
謎の物体Xの正体が分かったところで、再びポーチに手を伸ばす。
そのポーチにはポケットが三つついていて、それぞれ大きさが違う。だがそのどれもが私が中身の取り出しをするのに不便がないぐらいの大きさだ。紐の長さは、私がつけるには袈裟掛けで持つとちょうどいい感じぐらいの長さ。
そのポーチ自体は私にあつらえたかのようにフィットして、やはり私の直感は間違っていなかったと改めて感じる。
次は中身だ。ポーチだけ拾っても、中身がなければただの布と相違ない。何か、今の私に役立つ何かが入っていてくれよ、と願いながら中を探る。
小さいポケットから順に中を見る。
小、中、とみて何もなかったが、最後の大きなポケットにすべての希望を託して、中身をあける。
そこにあったものは、赤黒い手袋と靴下、そして、先端が欠けて丸くなった、両刃の小さなナイフだった。
「……お?これは役立つかも……?」
手袋と靴下を装着してみる。
サイズはぴったりで、やはりこのポーチごと中身も私の所持物であるという認識は正しいようだ。
手袋と靴下程度では完全にガードできるとは思えないが、ある程度のクッションにはなる。それに、完全に痛みを遮らない方が私にはちょうどいい。
問題はこのナイフだ。先端が欠けているものの、そのほかにひび割れている様子はない。刺すならともかく、切るという面ではまだまだ役立ちそうだ。ポーチに入っていたということは私の持ち物なのだろうが、それにしても、私はなぜこれを持っていたのだろう。
先端が欠けているということは、なにかに突き刺すのに使ったのだろうか。
まあ、今そんなことを考えても仕方がない。
とりあえず私はナイフを仕舞い、ポーチを袈裟に掛ける。
「……さて、これからどうしようかな」
小さく呟いて、前を向く。
そこには代り映えのない瓦礫の積もった廃墟が広がっている。
私は一歩、足を踏み出す。
そして、ただあてどなく彷徨う私の旅が始まった。何かをする目的もなく、どこへ向かうのかもわからずに。
*****
目的もなく長時間歩くのは、結構つらいものである。
それは体力的な疲労ではなく、精神により負担がかかることによるものだ。加えて、独りで歩くという状況にもさらに精神的疲労が重なる。
体力にはまだある程度の余裕がありはするのだが、これでは先に精神の方に限界が迎えそうだ。
だが、それでも私は歩く。その原動力が何かあるというわけでもなく、ただ、止まってしまえば私は二度と動けない。そんな気がした。
ひたすらに、無心で歩き続ける。感じるのは踏み出すたびに感じる足の痛み。それは確かに歩くことを阻害するものだったが、私はそれがあるおかげで自分を保っていられた。
そのおかげで、私は歩いていられた。
それでも、きっとそのうち限界は訪れるだろう。私には縋れるものが必要だ。支えとなる存在が必要だ。
名前のない私は、伽藍洞だから。
自分には、何もないから。
「……あー、くだらないことばっか考えるな」
私はかぶりを振る。
余計なことばかり考えて心が荒ぶ。ただでさえ疲れているのだ。ほかのことを考えている余裕なんてない。
頬を叩く。
「……よしっ」
自分に活を入れて、止まりかけていた歩みを進める。
けれど。
歩みを進めようと、活を入れてみたものの。
一度頭に浮かんでしまった考えはなかなか消えないもので。
一歩、一歩、一歩。歩く、歩く、歩く、歩く、歩く。
何とか傷だらけの足を進めるものの、その歩みはだんだんと遅くなっていって。
歩く、歩く、歩く。一歩、一歩、一歩、一歩。一歩。
そしてもう一歩。
進もうとした足が止まってしまう。
もう、心は削れ切っていて。もう、心は折れてしまいそうで。
だから、足も進まなくて。
その代わりに、私は後ろを振り返ってみた。
そこには今までと同じ、モノクロの街跡が広がっている。私が歩いてきた道には、足から流れた血の跡が残っており、月明りに照らされてそこだけが赤く、鮮やかに光る。
でも、それだけ。
そのほかには何の痕跡もなく、私の軌跡はむしろほかに何もいないことを表していて。
立ち止まった私は、遂にしゃがみ込んでしまった。
ここにはきっと何もいない。ここにはきっと誰もいない。
私の心は、寂しさと絶望で支配されていた。
もう私は進めない。立ち上がることすら、できやしない。
その時だった。
「おやおやぁー?あれあれぇー?なぁにしているのかなぁー?」
しゃがんだ私の頭上から、少女の声がした。
顔を上げる。
そこにいたのは、黒い外套で身を包んだ、小さな少女で。顔はフードで陰になっていてよく見えないが、その血のように鮮やかな深紅の眼だけが、爛々と輝いていて。
それは荒んだ私の心に差した、一筋の光で。
「まあ、なんでもいいよねぇー。殺すね」
――そして死神だった。
それは、出会えば殺される。逃げても殺される。きっと敵わない。絶対的な死。
彼女はそんな類の存在だ。
理性ではない、本能が訴えかける。
逃げろ。でなくば死ぬ。
死の恐怖が私を包む。途端にこの場から逃げ出したくなる。
でも。
私は逃げなかった。
怖くなかったわけではない。死にたかったわけでもない。
でも、なにより。
私にとって最も大事なことは、「誰かがいた」ということだ。
私以外の誰かが、なにかが、そこにはあった。
それは私がこの世界で一人ではないということの証明で。私の支えとなりうる者がいるかもしれないということで。
だから私は。
目の前の死神に笑いかけた。
「うぉお、なにを笑っているのかなぁー?」
相手が困惑する。
それも当然だろう。今から殺されるであろうものが笑うのだ。恐怖で泣き叫ぶならともかく、笑うなんてのは、気が狂ったようにしか見えないだろう。
でも、私は笑った。
気が狂ってしまったわけでもない。頭がおかしくなってしまったわけでもない。死を待ち望んでいるわけでもない。
ただ、孤独が癒されたから。彼女の存在が、私に希望を与えてくれたから。
「なんで笑ってるのか知んないけど、まあいいやぁ」
彼女は困惑していたが、結局はそう言って私の方へ近づいてくる。
「じゃあねぇー、ばいばーい」
彼女は手を空にかざす。その拍子に顔の半分が露になる。
私は、月に輝く彼女の、露わになったその燃えんばかりの血色の眼に視線が吸い込まれてしまって、彼女の仕草などは目に入らなくて。
何らかの手段で彼女は私を殺す気だったのだろう。
でもそれは私の視界には入らず、次の瞬間、私の意識は闇にのまれていた。