可愛い姉と、私
私の家は、家庭にあまり興味のない優しげな顔の父と、私に執着する母、聡明な姉と私で構成されている。
至って普通の伯爵家だ。
姉は私と違い、真っ直ぐで優しい栗色の髪。父に似て、まん丸で私と同じ黒色の可愛い目をしている。
幼い時はよく姉の髪を触っては、羨ましがっていた。
1つしか違わない姉とは、二人でいる時によく遊んだ。庭の花を見たり、隠れんぼしたり。
姉が笑えば私も笑う、私が泣けば慰めていた姉がいつの間にか涙目になっていたり。
私は陽だまりのように、優しく温かな姉が幼い頃から大好きだった。
仲良しな姉妹だけど、母はなぜか私だけをよく構う。
私だけ母に呼ばれて新しい服へ着せ替えられたり、飾られたり、お茶をしたり。
「ねえさまは?」と聞くと「あの子はいいのよ」と返ってくる。
「変だな」と思ったのは5歳の頃。
………………私、誰に似てるの?
色は父と同じと言われていたし、「そっか」と納得したけど、たまに見る父や、よく私の顔を眺める母、二人で遊ぶ姉をまじまじと見ていると「あれ?」と感じる。
違う。顔つき?体?
誰とも似ていない気がした。
ある日、また母に聞いてみた。
「お母様、私って誰に似てるの?」
母はいつかのように言った。
「まぁ、アディ。あなたは、父親に似ているわよ?」
前に聞いた時と同じ笑み、同じ答え。
上から覗き込むように言う、優しいはずの母の目は
どこか怖かった。
気づいてしまえば後は、ドミノ倒しのように次々気づく。
母はどうして私にばかりプレゼントをくれるの?
母はどうして私をうっとりと見つめながら、どこか遠くを見るの?
母はどうして私には優しいのに、姉には冷たい事ばかり言うの?
あの使用人はどうして私を冷たい目で見るの?
父はどうして私を見る目に疑いの色を滲ませているの………
次々と気づく疑問に、その先の答えに、押しつぶされそうだった。
もしも もしも もしも
そんなもしもが降り積もって、怖くて気づかれないように静かに泣いていたら、勉強が始まって一緒に遊ぶ時間が減った姉が、気づいて声をかけてくれた。
「どうしたの?アディ?」
暗い表情をする事が多くなった姉が、私を気遣ってくれている。
でも もしも が 本当は だったら?
姉は私を嫌うのだろうか?
姉は私を無視するのだろうか?
姉は私をどんな目で見るのだろうか?
怖い。
誰よりもこの人に嫌われるのが恐ろしかった。
優しく私の背をさすり、優しく抱きしめてくれる姉は、何も話さず泣く私をずっとそうしてただ慰めてくれる。
ほんの少し落ち着いた私は、もしもが口から溢れてしまった。
「姉……様。もしも……もしもよ?もしも私が
………………本当の妹じゃなかったら…………どうする?」
言った途端に姉に温められたはずの体温は頭の先、指の先からサァっと下がり、カタカタと震えだしていた。
なんで言っちゃったのだろう?
でも聞きたかった。知りたかったけど……
バクバクと緊張で鳴り響く心臓が、震える呼吸に呼応して早くなる。
「ん?」と言った姉は、抱きしめていた私から体をそっと離した。離れた温もりで一層冷えて震えが酷くなる。
恐る恐る視線をあげると、姉はまん丸な目を瞬いた。
「ん?アディは妹よ?何言ってるの??」
どうやら伝わらなかったようだと、「もしも」をつけてもう一度聞くと、姉はフフッと笑って言った。
「そうね、アディ。もしアディが言うように何処からか拾った〜とか、貰った〜とかでもよ。
一緒に遊んで、一緒に育ったあなたは、仮令そうでも私の妹だわ」
その一言で私は、心の底から安堵した。
私にはもしもが現実でもこの姉がいる。
そう思うと、体の震えは止まり、安堵の涙で溢れた。
アデライン、6歳の出来事だった。
私は姉に、心の内を全て吐き出した。
姉も抱えていたものがあったみたいで、打ち明けてくれた。
それから姉は、「アディが安心できる何かを見つけて見せるわ」と微笑み、執事に聞いたり、いろんな書物を読み漁り始めた。
「お勉強大変なのに、無理しないで」
と言うと、姉は
「私、勉強したり調べたりするのって、得意なのよ?お姉様に任せなさい」
と、にっこり微笑んで言った。
元々姉が好きだった私は、ますます姉が大好きになり、姉が言う「シスコン 」というものになった。
なかなか安心できるものが見つからずに時が過ぎた。
そんなある日、姉が私に母が言っていたことを話してくれた。
「お母様が言っていたのだけど、伯爵家はアディが婿を取って、後継とするそうよ」
── え?
何を言っているの?伯爵家は姉が継ぐのでしょう?
前に姉と一緒に見た伯爵家の肖像画入りの家系図を見ていた時。
「んー、アディに似た癖っ毛や鼻、顎、骨格が似てそうな人が見当たらないわねー。
一番最後はお父様の肖像画……何年前のかしら?今とあまり変わらないのね」
「伯爵位はお父様のお家で継がれてきたのね。
わぁ、こう見るとみんなどこか似てるのね……」
そんな事を言ったのを覚えている。
父の家系の誰にも似ていない私。
父の家系で代々継いできた爵位。
執事は言った。
「アデラインお嬢様は、この家で間違いなく奥様からお生まれです」
間違ってはいない、しかし何か隠してそうな目でそう言った。
私は口にできなかった。
── じゃ、間違いなくお父様の子?
もしも もしも もしも
消えない疑惑が渦を巻く。
姉の言葉に、その疑惑が蔦の様に絡みつく。
「わたし、お父様の子じゃなかったらどうしたらっ!
正当な血筋でないかもしれない私が……!
お姉様が手に入れるべきだわ!どうしたら……!」
狼狽えた私に、姉はあっけらかんと言った。
「困ったわ、私も特に欲しくないし、貴女もなのね」
え……?欲しくない?え?
爵位って欲しい欲しくないで…………そんなものだったかな?
ポカンと口を開いて、頭の中が「?」でショートした私は、頬に手を当ててコテンと首を傾げる、可愛い仕草の姉をまじまじと見つめた。
そんな姉は、私を置いて話し続ける。
いっぱい調べて、ダメだったら家出しましょうと。それはそれは軽く。
まるで天気の話をするみたいに、軽く。
姉が言う。「大好きよ」と。「仮令どうでも妹だ」と。
でも、父母は違う「他人と感じる」と。
私は戸惑った。そこまで言い切る姉に。
でも、「嫌ならいいのよ」そう言って将来家からいなくなると告げる姉に、あっという間に消えるんじゃないかと思わせる言い方に、怖くなって咄嗟に「一緒に家を出る!」と宣言して抱きついた。
まだ本当の決心は付かないけど、姉はもう一つ私に言った。
「将来やりたいことを見つけなさい。
お嫁さんでも、勉強したいでも、何処かへ行きたいでも何でもいいわ。
この家を継ぎたくなったら、従兄弟でも探して結婚すればいいのだし」
なんだかんだで色んな選択肢を示してくれる姉が大好きで、二人して顔を見合わせて笑いだした。
姉が決めたリミットまで、いっぱい足掻こう。自分の本当にやりたい事を探そうと、心に決めたのだった。
私も勉強が始まり、マナーも見れるようになってきて、教師に「まぁ、いいでしょう」と言われた頃、私は母と二人で色んなお茶会に連れ回された。
行く先々で私を自慢しまくる母にこっそりため息をつき、まだ終わらないかなと時間が過ぎるのを待つばかり。
たまに姉も一緒に出るお茶会は、心から楽しんだ。
身内が集まるお茶会では、母の親族らしく、母の言葉をそのまま信じて、姉を侮って徒に貶める人が多かった。
しかし、姉はそんな言葉に凹んだりめげたりせず、綺麗に打ち返す。
「ご忠告いたみいりますわ。
まだ若輩の身なれば、皆様の御高説、有り難く拝聴させていただきます」
流れるように綺麗にそう言い放つと、姉が教師に「素晴らしいです!」と褒められていた優雅なカーテシーをして見せる。
私は「うちの姉様世界一!!」と内心で身悶えながら、もう姉しか視界に入れずに見つめていると、いつの間にか話していた人はいなくなっていた。
フンっと鼻を鳴らした姉の腕に、堪らず抱きついた。
姉が学園に通うようになると、机に向かう時間が多くなった。
私も来年からだと思うと、いつも姉に助けられている私はやって行けるのだろうかと不安になり、机に向かう姉の傍で尋ねた。
「お姉様、お勉強大変なの?私、大丈夫かしら」
「ああ、うん。大丈夫よ。これは下準備。
もうすぐ1つ目が纏まるの。ふふふ……これを元手に……ふふふふふ」
なんだかよく分からなかったけど、姉が大丈夫と言うのだから大丈夫なのだろう。
なんか怖いけど。
姉が“3つ目”に取り掛かった頃、姉に学園の様子を聞いてみた。
後半年もしたら、私も姉と同じ学園に行く。
そう思うとちょっとワクワクしていた。
「そうねぇ、そこそこ儲かるし有意義だわ」
「え?儲かる?有意義?」
目を丸くする私に、姉は顔を上げて微笑んだ。
「学園は勉強第一だけど、それだけじゃないの。色んな人と知り合って、顔を売るのも大事なの」
「顔を売る……?ふぅん?」
自分の顔をペチペチと叩く姉。私も顔をサワサワと触って取り敢えず頷く。
「お姉様、お友達がたくさん出来ましたの?」
「んー、お友達は少ないわね。
きっとクラスでは、たまに本の話をする人と、図書室で話す人くらいかな。
それ以外は、お互い知っていることを交換するような、友人と言うより…………知人?」
「んーそっか、難しいのね?」
「そうね、私は目標があるからね」
にっこり微笑んだ姉は、また机に向かった。
学園とは、そんなに難しいものなのかと、ちょっと身構えた。
心の準備を整え、遂に入学した。
姉との通学は、学園に通うようになった姉との時間を埋めるようで、ついついはしゃいでしまった。
姉の腕に抱きつき、姉には私がいるというアピールを全開にした。
お上品に笑う声の合間に言葉の刺が光る。
「似ておりませんわね」「まぁお可哀想」
反射的に身体が強張る。
俯いて顔を上げられなくなった私は、抱きついていた姉に気づかれたのだろう、私の頭を撫でて「気にしないのよ、私は世界一可愛い妹と一緒に居るだけで嬉しいのだから」と心から微笑んでくれる。
ああ、やっぱり姉は世界一だ。
学園での生活は戸惑うことも多かったけど、概ね良好と言えた。
最近興味のある分野も分かってきたし、順調じゃないかと浮かれていた。
少し学園生活にも慣れ、周りも落ち着き、話の合う友人もできた頃、図書室によくいるという姉の側で異国語の勉強をしていた。
「やぁアマンダ嬢。そちらが噂の妹君?」
そんな声に中断させられて、ムッとしながら顔を上げると、一人の男子生徒が立っていた。
静かに立ち上がった姉に倣い、私も立ち上がると、姉が紹介してくれた。
「初めまして。フレディ・シューコットです。
お姉さんとは図書室での勉強仲間だよ。
事あるごとに自慢された、妹さんに会えて光栄です」
手を差し出して微笑むフレディに目を丸くする。
『図書館でたまに話す』
姉が友人と言うほど距離の近い人……?
男だったわけ?
私は差し出された手……ではなく爪先から天辺まで見た。
次いで姉に目を向けて、探るように見る。
姉は目を細めて、握手よと言うように促す。
「………………」
フレディの差し出した手をゆっくりと握り返して、今度はフレディを探った。
「…………………………」
ギリっと握る手に力を込める。
ぴくりとフレディの片眉が上がる。
「ヨロシクオネガイシマスワ。先輩?」
互いの口端が上がる。
何処からかゴングの音が聞こえた気がした。
それからは姉を端っこに座らせ、私は隣の席をキープした。
以前姉を挟んで両隣に座ったことがあったので、その対策だ。
それでもめげずに姉の正面をキープするフレディは、鬱陶しいことこの上なかったけど、不思議そうな顔をする姉には「なんでもないわ」と言って満面の笑みで返事をした。
フレディがある日私に尋ねた。
「もうどなたか決まったお相手がいるの?
(訳:居るよね?そのお相手ほったらかしでいいの?)」
「?いいえ?
(訳:何よ突然。そんなのいないわよ)」
「そうなの?家は君が継ぐと聞いたので、もう決まっているかと。
(訳:んじゃさっさと決めなよ。そして邪魔するな)」
実際、どうするかリミットまでには考えなければならない。
しかし、今は相手を選べない。母の仄めかす相手も全て突っぱねている状況だった。
考え込んだ私をどう思ったのか、姉がフォローを入れてくれた。
「妹には夢が有りまして。
家を継ぐことは……なんとも言えない状況ですね」
フォローを入れてくれた姉に尊敬の目を向ければ、姉は目元を緩ませた。
しかしこのままで、不安がないとは言い切れない。今は答えを探している途中だ。
母の意見をなるべく躱しているが、そこにある不安がゆっくりと広がり、侵食してくる。
帰りの馬車で弱音を吐く私に、姉は優しく未来を照らしてくれる。
頼り切りは良くないなと、何処かで分かってはいるが、今だけはと撫でられる優しい手に甘えるのだった。
フレディが卒業して、やっと学内での攻防戦も治り、心安らかな日常を送れると思っていたのだが…………
事もあろうに、フレディはデートのお誘いを送りつけてきた。
姉個人宛の手紙は、いつものごとく母によって勝手に開封されると、私へヒラヒラと振りながら報せに来た。
「あなたにデートのお誘いよ!」
母にどんな言葉をかけても、注意してもまっすぐ正しく伝わったことが無いので、今更もう何も言わない。疲れるだけだから。
リビングにいた私はそれを強引に押し付けられると、呆れた顔の姉が母の後ろから現れた。
姉に視線を向けて、読んでいいかと尋ねると肩を竦めて小さく頷いた。
手紙の内容は、季節の挨拶から始まり、何気ない日常が少し織り交ぜられ、最後に絵画展へのお誘いが書かれていた。
そして小さく「 良ければ妹さんも 」
これは断られないための対策だろうと直ぐに気付いた。
私をダシに使うとはいい度胸だと、思わず見据えた手紙に力が入り、カサリと紙が抗議の音を出す。
はしゃいでいる母を諫めて、とにかくフレディの妨害に勤しむことを心に誓った。
案の定、姉は「妹とご一緒させていただきます」と返事を返し、デート当日を迎えた。
「やぁアマンダ嬢………………アデライン嬢。
二人ともとても素敵な装いだね。
色違いだけどそれぞれとても似合っているよ。今日は両手に華で周りに羨ましがられてしまうかな」
母は滅多に姉の服を新調しないので、張り切って姉をコーディネートしてしまった。
姉は可愛さの中にも凛とした美しさが引き立ち、栗色の艶やかな髪がラベンダー色のワンピースドレスと相まって、より目を引く。
フレディも思わず言葉を詰まらせるほどに。
母の手前、姉に抱きつくのは悪手と分かっているので、睨むにとどめた。
それ以降も姉に誘いがくるたびに、母ははしゃぎ、そして私は当然の顔をして付いて行った。
手紙からは「よければ」「妹さんもご一緒に」の文言が消えていたが、気にしない。
エントランスに現れるたびに口端が引きつってもだ。
何度かそうして付いて行った、ある日。
隣国で流行っているお茶やお菓子を出すと言うカフェに訪れた。
真っ白い壁に木の質感を生かしたテーブルや椅子、爽やかな青緑の看板やランプと言ったアクセントが効いたお店だった。
笑顔が可愛い店員に案内されて、シェードで程よい日差しに調整されたテラス席へとついていく途中で、先客の黒髪が目についた。
ふと何気なくそちらに目を向けると、驚いた。
気のせいかとも思ったが、勘が「これだ」と告げる。
目が離せなくて立ちつくす私に姉が話しかける。
「アディ……?」
その瞬間、先客の黒髪の男性はパッとこちらに和かな顔を向けた。
その顔からは和かさがスゥッと抜け、固まった。
姉の手配で話ができることとなり、急遽個室に入った。
後から入ってきた男は、礼をとって名乗った。
「初めまして、僕はアデルバード・ロクザンヌ。
ロクザンヌ商会の者です」
挨拶されるのも耳に入らず、上から下まで見回した。
目、鼻の形、髪質、全体的に細い骨格…………
全てが全て、この人が元なのだと訴えていた。
アデルバードは飄々と過去を口にする。
その目に宿るのは、過去への後悔、困惑、恐れ、逃げ道の模索。
愛情なんてものはかけらも無い。期待もしていないけど。
姉に「どうしたい?」と聞かれ、私は重たい口を開く。
「どうも……しなくていいわ。責任取ってとかそんなの要らない。
真実が知れた。それだけで十分だわ」
そう言うと、あからさまにほっとしたアデルバードは、口先だけの謝罪を残して去って行った。
分かっていた。あんなに探したんだ。
母は私を通して、あの人を見ていたんだ。
あの人はきっと、空っぽで心地よい言葉を吐き続けていたのだろう。
母が、代替品の言葉を聞こうとしないのは、未だにあの人を心の中で求めているのかもしれない。
決して私を見ない母。一気に決心が固まっていく。
「お姉様、迷いがなくなったわ。
─── 私も家を捨てます」
***
迷いのなくなった私は、テキパキと前々から立てていた計画の準備をしていく。
鉄道や宿泊所の下調べ。場所を決めたりなどなど。必要のなくなったドレスや、過剰な宝飾品はお金に変えた。
姉は「いいのに」と眉を下げて言うが、私がそうしたかった。姉が地道に稼いだお金は、姉のために使うべきだ。
姉の卒業まで、あと半年もなくなった頃。
母は卒業パーティーのことも、ドレスのことも口にしない。
姉は「制服で出る」と言うがそれはダメだと止めた。
勝手にドレスを注文しようモノなら、あの母はきっと喚き怒り、私が何を言って止めても姉に筋違いな罵声を浴びせかねない。
私の手持ちのドレスをリメイクしようかと悩んでいると、ある日フレディが「心配しないで」と姉に言う。
目線だけで言い合い、睨み合っていたが姉は「仲良しね」とクスクス笑っていた。
そしてかなり早いが、姉宛にドレスが届いた。
姉への本気度が窺える逸品だった。
私はすぐさま母に見つからないように、クローゼットの奥深くに隠して、姉に当日まで母には秘密にしようと約束した。
姉にドレスを贈ってくれたフレディへは、手紙を姉と一緒に送り、これでもかと言うほど「遅くなるな」「不埒なことをするな」と念を押した。
鼻で一蹴する姿がありありと想像できるが、押さずにはいられなかったのだ。
卒業当日、綺麗に着飾った姉に涙が溢れた。
優しい姉は、私の目元をハンカチで優しく押さえてくれる。
姉に関心がない母は、出かける姉を見送ることも顔を出すことさえなく、私だけ使用人と一緒に姉を見送った。
***
姉は卒業して、王宮文官となった。
試験は首席で通過。実力者揃いの部署へ配属され、女性の身で出世コースに乗ったのだ。
有言実行の姉が尊い。
そして大きくない荷物と共に、王宮の女性寮に入ることになった。
寂しすぎて、最後の日は一緒のベッドで泣きながら眠った。
姉が居なくなった家は、とても寒く感じた。
全てを知った今、滑稽すぎて笑いが出る。
母がくれるプレゼントが男性的な色が多かったのは、本当は私宛じゃないのでしょう?
母がうっとりと見つめるのは、髪を纏めている時が多いわよね。
あの使用人は母の不貞を知っていたから、その相手に似た私を冷たい目で見るのよね。
父は今一つ確証も言い出す勇気もなくて、私を疑っているのよね。
でも私にどうしろと言うの?
そんなにあの人が好きなら、離婚していけばよかったじゃない。
不貞を知って見て見ぬふりをしたじゃない。
ハッタリでも母に問い詰めればいいじゃない。
生まれ落ちた私に、一体どうしろと言うのよ?
姉の抜けた家で私を苛む目が強くなるたびに、私の心を強固なものに変えて行った。
私は好きな分野から翻訳家を目指し、日々努力した。
姉のアドバイス通りに色んな人と話し、顔を売り、情報も集めた。
姉や、不本意ではあるがフレディに相談を持ちかけて、翻訳の仕事で身を立てるために相談に乗ってもらい、寮を持つ会社を探し回った。
そして私の卒業まで5ヶ月と迫った頃、下調べした出版社に足を運び、面接を受けた。
王都にある大きな出版社で、数カ国語を使って書かれた書類を渡され、実力を見てみると言われた。
次に来るまでにと言われたが、このくらいならと、目の前で翻訳して口にした。
すると、目を瞬かせた女性面接官は、ニンマリと笑うと数冊の本を渡してきた。
「すごいね〜。んじゃ、これを2週間後にきちんと紙に書いて持ってきな。遅れるのは嫌いなんだ。いいね?」
「え…………あの?これも試験でしょうか?」
「まぁ、そうだね、そんなもんかな。これが出来たら私の一存であんたの採用を確約してあげるよ。ああ、他で決まってたとか言うんじゃないよね?」
「いえ、まだそれは……」
「んじゃ決まりだ。2週間後、遅れんじゃないよ、アデル」
「はっっっはい!必ず!」
認めてくれた…私を認めてくれた!
それが嬉しくて、面接の終わりをカフェで待っていてくれた姉とフレディに報告すると、一緒に喜んでくれて、涙が出るほど嬉しかった。
もちろん2週間後、姉にも意見をもらった翻訳した書類を持って、早くから意気込んで訪れた。
苦笑した面接官に、無事内定をもらった事は言うまでもない。
そして翌月、姉は計画上2週間ほどまとまった休暇を申請するにあたり、信頼のおける上司に家を出て平民になる事情を説明した。
不可となれば、辞めるしかないかと言っていたはずなのに結果、何故かお仕事の関係上(?)、侯爵家の養子に入ることになった。
一緒に驚きの声を上げたフレディが、ニヤリと笑ったのを見逃さなかった。
思わずテーブルの下で足を踏んでやった。
少し複雑な気持ちで家に帰ると、自室で違和感を感じた。母の香水が偶に香るのは、よくある事だったけど、何か…………
そうしてふと勉強用に備えられた机の引き出しが、中途半端に閉まっている事に気づいた。
「あ…………まさか!」
慌てて確認すると、本に挟んであった鉄道のチケットを入れた封筒が開いているのに気づいた。
綺麗に入れてあったはずなのに、中のチケットが乱雑になっている。
気付かれた? 気付いた? 邪魔される?
どうしよう どうしたら……
不安が視界を支配したように色が失われていく。
めまいが起こりそうで机に手をついて、倒れないように体を支えた。
「と…………取り敢えず鍵のかかるところへ……
落ち着いて、落ち着くのよ。後は観察して……次会うときに相談しなきゃ」
震える息を吐くと、私は姉に会う約束の手紙を送り、夕食も取らずに眠りについた。
翌日、母は拍子抜けするくらい何も言わなかった。いつも通り……ともすればちょっと浮かれている?くらいに感じた。
奇妙だけど、変に疑いの目を向けられたり追及されるよりマシかと思い、内心胸を撫で下ろした。
姉に報告して謝罪すると、慰められた。
そしてなんと、姉はその翌週母に呼び出しを受けて、お金を無心されたらしい。
ろくに手をかけてあげなかった娘に、お金を無心?伯爵家の夫人が?理解できなかった。
話を聞くと、母は、あのチケットを私が母の誕生日に母と二人で旅行する計画を立てていると思ったらしいとのこと。
常に斜め上の曲解を出してくる母だが、今回はそのおかしな理解力に助けられた形となったようだ。
一気に脱力したのは言うまでもない。
***
遂に卒業。
そして姉と長年計画していた出奔計画決行日。
母に気付かれないように、強張りそうな顔をなんとか微笑みに変えて、式を乗り切る。
姉も見にきてくれたのが嬉しかったけど、張り切った母に見つかるわけにはいかないので、視線を向けないように我慢した。
式が終わると、周りに絡んで話し出す母を引きずるように連れて帰り、ドレスへと着替えた。
「本当に綺麗よアディ!
やはりあなたはこの深みのある青い色が似合うわね!」
「そうかしら……?ありがとう。会場で早めに落ち合う約束しているから、もう行くわ」
「まぁアディ、ちょっとくらいお待たせしても良いんじゃなくて?
それとも私も挨拶ついでに行った方が良いかしら!」
「お母様、やめて頂戴。帰りに送ってもらうように言うから、その時ゆっくりしたら?もう時間なの。
………ねぇお母様、私の名前を呼んでくれるかしら?」
「変な子ね。アデ………ライン?」
「………ありがとう。それじゃさようなら」
「行ってきますでしょ?待ってるわ。行ってらっしゃい」
最後になるだろう言葉を目を合わせて言うと、私は振り返ることなく馬車に乗り込んだ。
姉と合流すると近くの宿屋へ入り、せっかく着付けられたドレスを姉に手伝ってもらいながら脱ぐ。宝飾品も外して姉に託すと、予定していた通りにすぐに売却してくれた。
フレディが質素な外観の馬車を用意して待っていてくれて、姉と二人、旅行鞄を手に乗り込むと一番近い鉄道の駅まで走らせた。
1時間ほどかけて着いた駅では、客で溢れかえっていて、中流層向け指定席まで行くと荷物を運び込んだ。
「はぁ、本当に二人で行くの?僕も行っちゃダメ?」
「ダメですよ先輩。先輩と行くと無駄に目立つし、そもそも上司である宰相閣下がお許しにならないわ」
「そうなんだけど…………ねぇ、手紙書くから、ちゃんと状況教えてね。些細なことでも。…聞いてる?アマンダ?」
「はいはい、フレディ先輩、お姉様はちゃんと聞いてますってば。しつこい男は嫌われますよ?」
段々と距離を詰めるフレディの間に割り込めば、苦虫を噛み潰したような顔で睨まれる。
「まぁ、アディったら。先輩のご厚意を無駄にする言い方はいけないでしょ?」
「はぁーい」
「ご厚意………………」
私はワザとニヤリとした笑みを、フレディへ送ってやった。
出発のベルが鳴り響くホーム。
先輩は渋々ホームへと降りて、窓越しから私たちを窺う。
「気をつけて。行ってらっしゃい」
「「行ってきます!」」
やがてゆっくりと動き出して速度を上げていく列車。
手を振り返しながら見送るフレディの姿が、あっとういう間に見えなくなった。
姉と微笑み合って座席に座り、手を繋ぐ。
「やっと自由だわ、お姉様」
「これからは、全部自分次第ね」
「本望だわ。忙しくなる前にまずはお姉様と存分に羽を伸ばさなきゃ」
「私は半分お仕事に変わっちゃったけど」
「お姉様の上司の方、中々の采配だわ」
「本当よねぇ。勉強になるわ」
母の影から抜け出した私たちは、走る列車に身を任せて、これからの未来への希望に胸躍らせながら、他愛のない話で笑い合った。
なんとか無事に、中流層向けの宿屋に着いて3日。
私たちは見晴らしの良い窓辺の近くに置かれたソファーセットで寛ぎながら、フレディからの第一報を読んでいた。
「どう?お姉様」
「半狂乱で貴女を探し回ったみたい。私に協力させるために王宮まで乗り込んできて、私を出せと喚いたそうよ」
「王宮に?流石ね、あの人」
回された手紙に目を通して、簡潔にまとめられた内容にクスリと嘲笑する。
何度言っても姉を侮り、姉が取り敢えず就職の報告しても、下働きと思い込んで聞かなかった。
どうしても夫よりも、愛した男を上に置きたかったのか……
もう会うこともない母の真意は分かりようがないけれど。
滞在期間のうち、1日だけ姉と別行動を取った。
どうしても目にしてみたい場所があったのだ。
宿泊した宿から辻馬車で少し行ったところに、その場所はあった。
人が入れ替わり立ち替わり出入りする、賑やかで洗練されていて、立派な佇まいのその場所。
── ロクザンヌ商会本店
髪を纏めて目深に被った帽子から、窺うように店を眺めた。
道からゆっくりと。
言葉を交わすつもりも明かすつもりもない。
ただ、見たかった。
店員が足早に行き来する先にいた、フロアの責任者らしき人。
やはり家族経営なのか、その人は血縁者のようだ。
上階から数人固まって降りてきた。
お得意様なのか、フロアにいた責任者も笑顔で近づき白髪混じりの、面差しの似た男性の側に立って話の輪に入る。
その二人の顔を見つめて、自分のルーツを確かめた。
普通どこか似るものだ。
骨格だったり、目の色や髪質だったり。
祖父かもしれないあの人と、男親のあの人と似た癖のある髪。
家系なのか、細身な身体。
鼻の形は伯父かもしれないあの人にも似ている。
私はもう満足だと目を伏せて、足元を見つめた。
そして目を閉じて一呼吸置いて自分の中で一区切り打つと、ゆっくりと目を開けて前を向いた。
その時、祖父かもしれない人物と目が合った。
私はなんの衒いもなく微笑むと、踵を返して歩を進めた。
宿屋に帰ると姉に驚かれた。
「あ、アディ!その髪……!?」
「どう?似合うかしら、お姉様?頭がとっても軽くて良いわ」
私は帰り道、思い立って髪をバッサリ切ることにした。
長年溜まった物も一緒に切り落とせたような、爽快な気分だった。
驚かせた一幕も交えつつ、姉妹の出奔計画はトラブルもなく終わりを迎えた。
予定外といえば、全く想いの通じなさすぎたフレディがほんの少し不憫になり、姉の背を邪魔せず押したことか。
お世話になったお返しじゃないけれど、協力してくれて感謝くらいはしているのだ。
………………不本意だけどね。
私は姉と分かれて、出版社へ赴き、入寮手続きを行った。
新しい自分だけの部屋の扉を開けて、恐る恐る踏み入れると、扉の近くに荷物をそっと置いた。
そう広くはない部屋をくるりと見回して、備え付けのベッドに腰かけた。
自分の部屋。自分だけの、誰も勝手に入らない、勝手に飾り立てられない自分の部屋。
そのまま後ろに体を倒して、シーツに埋もれた私は、湧き出る喜びに心から微笑んだ。