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五話

 テストの結果表をバッグに詰めて、帰路につく。

 私が昇降口を出ると、ちょうど陸上部がアップをしているところだった。コンクリートの昇降口付近を、じゃりじゃりと足音たてながら、走っている。走っている人達の殆どが、汗を額にへばりつけていた。

 陸上部が走るスピードは速いから、ちょっと涼しい風が吹く。

 走り去っていく陸上部の人達に感謝をしながら、私は歩き出していた。



 マンションの前まで来たとき、マンションの中から叫び声が聞こえた。


「また……のか!」

「しょうがな……たいあん……らない物……り!」


 嫌な予感が胸の内をかすめて、私はマンションの中に入る。通りかかる、買い物袋を提げた主婦らしき人が、マンションに視線を送った。


 階段を上って二階につくと、予想通り叫び声は聞こえやすくなった。


「俺が……次の日……捨てること……ない……!」

「んなこと……あんたがそこらへんに……のが悪いんで……!」


 篠崎と書かれたプレートの前に立つと、予想通り、その叫び声は一際大きくなる。


 予想通り、予定調和。


 そんな言葉が胸の内から飛び出してきて、私はドアを押し開ける。

 声が大きくなって、私は一瞬目をつぶる。


「何で俺が金貯めて買ったスーツを捨てるんだよ! 頭おかしいんじゃないのか!」

「あんな黄色いスーツなんて、一体いつ着るっていうのよ! どうせ着る機会がないなら、捨てても変わらないでしょ!?」

 リュックを肩から下ろし、手で持ちながら、小さな声で「ただいま」と言う。

 けれども喧嘩中の両親にそんな声は聞こえるはずもなく、また言い争いが続く。それは私が自室のドアを閉めても、ずっと続いていた。


「黄色いスーツは、会社の飲み会で一発芸でやるんだよ! あれ高いんだぞ!」

「知らないわよ! 忘年会なんてまだ先の話じゃない、そんなにお金の余裕があるなら、ウチにも入れてよ! 真織の教育費は、あれ全部あたしが出してるんだよ!」

 話は私の方にシフトし始めて、次第に声もヒートアップしていく。

「大体、お前はいつもいつも、俺が買ってくる物を捨てるよな! 俺がそんな嫌いか!」

 それは多分、夫婦の本質を突いた質問のはずだ。だがお母さんはその言葉をいとも簡単に避けてみせた。

「嫌いに決まってるじゃん、何でお前なんかと結婚したんだろう」

「言ったな、てめぇ!」

 がしゃん、という音が鳴った。

 次来る未来が安易に想像できてしまい、思わず目をつぶる。


「きゃっ! ……ふざけんなよ! あたしのチューハイ! まだ半分以上も残ってたのに、あんたが全部駄目にした!」

 がしゃん、と言う音は、お父さんがお母さんのお酒を投げた音だったのか。当然、お酒大好きなお母さんは暴れるだろう。

「うるさい! 俺の使ってた色んな物、ゴミに出しやがって! ただで済むと思ってるんじゃねぇ!」

「ふざけないでよ! こっちだって、あんたみたいな奴ともう一緒に住みたくなんてないわよ」

 吐き捨てるような言い方をしたお母さん。すると、二人のうちどちらかの大きなため息が聞こえた。


「もういいよ。お前とは終わりだ」


 お母さんに負けず劣らず、吐き捨てるような言い方をしたお父さんは、何かをひっつかんだ、がちゃ、という音を残して、家を出て行った。

 バタン、と大きな音が鳴り、私は一瞬、目をつぶる。ようやく言い争いが終わったのだと安心していたが、心のどこかでは、まだ安心できないと理解していた。


 ドアを開ける。お母さんは「死ね、あんな奴なんて」とか「いなくなればいいのに」などとぶつぶつ文句を言いながら床を拭いていた。

 お酒をぶちまけられたと喚いていたから、恐らく今拭いているのはお酒。チューハイの缶を握りつぶして、今にも叫びだしそうな勢いだ。


「お母さん、あの、半袖……」


 駄目もとで聞いてみる。もちろん、返ってくる言葉は分かっていた。「また今度ね」とでも言うのだろう。

 その今度は、もう二度と来ないのに。

 だけど、私が想像していたのとは、少々違った。


「あんたがいなければ、あいつと今頃離れられていたのに……」


 その言葉は、お母さんからしてみれば、至極当然の、ただの不満や、愚痴のような、たらればのような言葉なのだろう。


 だけど、それは私にとって、大きな負担だった。

 私がいなければ、お母さんはお父さんと過ごすのではなく、一人で暮らしていけた。だから、私がいなければよかったのにということだ。


 私は、お母さんにとっては要らない存在。

 そう、それは多分、お父さんにとっても。


「あんたはいいよねぇ、誰かに甘えられるんだから」


 また、ずしっと言葉が背中に乗っかってくる。私はくるっと後ろを向いて、自室に戻ろうとした。何で、半袖がほしいなんて言ったんだろう。それが恥ずかしくなってしまうほどに。

 だけどお母さんは、それを拒んだ。


「誰かに助けてって言ってもらえば、助けてもらえるんだから」

 私がドアをぐっと掴んで、自室に戻ろうとした瞬間に、お母さんは更に追い打ちをかけた。


「あんた見てると、仕事頑張るのが馬鹿らしく思えてくるわ」


 思いっきりドアを開けて、自室にこもる。

 もう、もう限界だった。


 堪えていた涙が、勝手に溢れてくる。声を上げないように。嗚咽を繰り返す。

 どうして私だけが、こうなのだろう。


 佐藤さんは、海外旅行に行くほど、家族仲が良いのに。

 私の家は、全然良くない。破滅寸前。


 私はスマホを持っていないから、誰かに相談することもできない。いや、相談できる友達もいない。

 唯一、色んなことを話していた友達には、裏切られた。


 あの日のことも、色んなことも、全部全部、真心ちゃんに話していたのに。

 一年も経たない間に、裏切られた。


 ◆◇


 小学校四年生の頃。

 まだ、家族は仲が良かった。

 お父さんやお母さんとドライブに行ったり、旅行に行って、バーベキューをしていた。一人っ子だったから、お父さんやお母さんの分も何故かもらえたりしていた。兄弟げんかとは無縁だったから、好きな食べ物は譲ってもらえた。


 マンション二階の篠崎家は、笑顔で満ち溢れていた。お父さんが下らない冗談を言ってはお母さんと私が笑う。そんな、幸せな空間だったはず。


 なのに。


 降りかかってきた、災難のきっかけは、突然だった。何の前触れもなかった。

 何の前触れもなかった分、これから起こる絶望の幕開けを、私は知ることも出来なかった。


 小学校四年生のある日の朝。

 私はいつもより早く起きた。昨日宿題を机に開いたまま、やっぱり面倒くさいから明日にしようと寝てしまい、目覚まし時計を早めにセットしたのだ。

 私が洗面所に行こうとリビングに通じるドアを開けると、そこには仕事に行っているはずのお母さんがいた。

 両親は共働きで、お母さんの方が出るのが早く、お父さんは私とほぼ同じ時刻に家を出ていた。

 お母さんはこの時間、もうとっくに仕事に行っているはずだったし、お母さんが、私がドアを開けた瞬間、こちらに視線をよこしたものだしで、余計にびっくりした。

 私がおずおずと「お母さん、おはよう」と挨拶をしても、お母さんはおはようと返してくれなかった。おかしい、普段ならおはようって言ってくれるのに。

 だけどその代わりお母さんは、私から視線を少しだけ外し、誰に向かって言っているのか分からないような表情で言った。



 お父さんが、飲酒運転で人を怪我させて捕まった。



 あまりにも突然過ぎて、私はその言葉を聞いた瞬間、呼吸をするのも、何かをするのも、全部忘れた。忘れていたのだ。

 まさか、嘘だ、そんな、何で。

 その思いだけが頭を駆け巡る。行き場のない疑問は、行き場がないから、ただ静かに消えていく。

 お母さんは「あいつが捕まるなんて、思いもしなかったよ」とうんざりしていた。その瞳にお父さんを思いやる雰囲気はなかったから、多分このときから家庭崩壊へと向かっていたのだと思う。

「だから飲酒運転なんてやめておけって、あれほど!」

 お母さんはそばにあった丸椅子を蹴る。お父さんがいつも座っている椅子だ。

「…………」

 何も言えない私が見えていないのか、お母さんは「本当に、嫌んなっちゃう」と舌打ちをした。


 そして、私の方にくるっと向き直って、

「お母さん仕事行くから、真織、一人になっちゃうよね」

 お父さんへの悪態をついた直後、私に向かって優しげな声をかけるお母さん。

 お父さんは朝ご飯をいつも作ってくれる。といっても料理は結構簡素な物で、白米にインスタントのお味噌汁といった、いささか自分で作ったとは言い難いものではあったが、どちらにしろ、私はインスタントお味噌汁の作り方を知らなかったので、お父さんに感謝していた。

 だがそのお父さんがいないとなると、お味噌汁の作り方もご飯の温め具合も分からない私にとっては、最悪の事態だ。

 もちろんお父さんがいないことは、朝ご飯がどうのこうのではなくもっと悲しいのだが、それにしても朝ご飯に支障が出るのは間違いなかった。


「お味噌汁の淹れ方分かる? どこに置いてあるか分かる?」

「分からない……」

 さっきまでの悪態が嘘のように優しく尋ねるお母さんが、何故だか急に怖くなって、下を向いて答えた。

「……じゃあ、コーンフレーク食べる?」

 コーンフレーク。

 見上げると、お母さんはさっきよりも更に優しげな顔をして、戸棚へ歩み寄る。扉を開けて、中からチョコのフレークを取り出す。

 それが美味しくて、私はよく休みの日の昼食にコーンフレークをお願いしていた。休みの日はお父さんが仕事でお母さんが休みだから、ご飯を作ってくれるお父さんがいないと、お母さんは意気揚々と取り出していたものだ。


 ざーっとコーンフレークをお皿に入れる音がして、私の目の前にコーンフレークが差し出される。

「今日は牛乳を入れる気力もないから、また今度にしてね」

 お母さんはコーンフレークを戸棚にしまって、傍に置いてあったバッグを掴んで、「行ってきます」と静かに言った。

 私がいってらっしゃいと返す余地も与えず、お母さんは足音を荒くして玄関から出ていった。


 取り残されたのは、私一人。


 仕方がないので、洗面台に行って手と顔を洗い、歯を洗ってうがいをした。トイレに行って、また手を洗って、リビングの、私がいつも座っている椅子に座る。


 途端、どうしようもない寂しさに襲われた。

 いつもなら、私の目の前には、新聞片手にお味噌汁を飲むお父さんがいたはずなのに。

 飲酒運転、というものがどういうものなのか、私には良く分かる。お父さんは「捕まらないでしょ」と豪語して、よく私を飲酒運転で色んな所に連れて行ってくれたからだ。

 飲酒運転が誰にもバレたことはなかったし、駐車場の警備の人がちょっと怪しげな視線を投げかけてきたことはあったけれど、「飲酒運転っぽいからって、冤罪にしてはならない」と逮捕までには至らなかったようだった。

 そのお父さんの姿を見て、私も感覚が狂っていたのかもしれない。飲酒運転は駄目だけど、したってどうせ捕まらないからいっかって。


 だから罰が当たったんじゃないかって、今になったら思う。


 お父さんがいない平日の朝は、静かだった。

 聞こえてくるのは、私がコーンフレークを食べる音と、時計の音だけ。

 コーンフレークから目の前に視線を移しても、そこにお父さんが現れることはなかった。

 食べ終わって流しに入れると、ついに聞こえてくるのは時計の音だけになった。私は部屋に戻り、机に開きっぱなしだった宿題に取りかかる。算数のプリントだ。昨日から授業で取り扱われた、棒グラフの何とかについて。

 始まったばかりだから、宿題は簡単な問題ばかりだ。

 お父さんが逮捕されたことも、簡単で済んだらいいのに。

 刑務所とかに行かずに、すぐ帰って来てくれたらなぁ。

 そう願っても、いくらため息をついても、誰にも届かないと分かっていた。だから余計悲しいのだろうし、空しいのだろう。

 プリントに水滴が落ちた。慌てて目元を拭う。着ていた長袖のパジャマの色が、拭った部分だけ濃くなる。

 一粒だけ涙が落ちると、涙腺の緩みは治まったようで、もう泣くまいと宿題に取りかかった。


 ただの平日の朝がこんなに長いと感じたのは、生まれて初めてだった。



 服に着替えて学校に向かう。

 学校ではなるべく、お父さんが捕まったことは忘れようと思った。どうせ私のことなんて気にかけてくれる人なんていないけれど。

 算数のプリントもちゃんとランドセルの中にあるし、教科書もノートもばっちりだ。

 大丈夫、平常心で過ごせば大丈夫。下手して変なこと口走ったら、また蔑まれてしまう。


 そんなことを思っていたけれど。


 算数の時間。

 宿題の丸付けをし終わり、宿題を回収したとき、先生が言い放った。

「今日皆が食べた朝ご飯を調査して、グラフに描いてみましょう!」

 私はばっと顔を上げる。

 皆に、バレてしまうかもしれない。私のお父さんが捕まってしまったこと。

 そう考えてからすぐ思い付く。

 そうだ、私、何馬鹿みたいなこと心配しちゃっているんだろう。

 いつもご飯を食べていることに皆は行き着けないはずだ。なのにコーンフレークを食べているだけで、お父さんが飲酒運転で捕まったと感じ取れる人が一体どれだけいるだろうか。多分、一人もいない。

 だけどどうしても不安で、辺りを見渡してみる。だけど周りを見ても、私のように取り乱した感じの人は一人も見当たらない。


 やっぱり私は異質なのかもしれない。

 そう思わせるには充分で、そのうち誰かと目が合いそうになると、すぐ黒板に視線を向けた。

「では今日の朝、ご飯を食べてきた人!」

 クラスの半分くらいの人が手を上げる。先生も「そんなに和食派が多いのかぁ」と驚き半分、嬉しさ半分の顔をした。その顔を見て胸が痛くなる。何でか分からないけれど。


「パンを食べてきた人!」

 残りの人ほぼ全員が手を上げた。また胸が痛くなる。ほら、やっぱり私、異質なんじゃん……。

 こんな大多数の一部にもなれないで。

 突如、クラスが大爆笑に包まれた。何が起きたのか分からなくなる。慌てて辺りを見渡すと、「えー、何でそんなに笑うんだよ!」と不満そうに唇を尖らせた男子がいる。

 大体察しがついた。おおかた、遅刻しそうでご飯を食べてこなかった人がいるとかなんかだろう。

「じゃあ、他のご飯を食べた人!」

 先生が気を取り直した様子で大きな声を上げる。そこで皆も爆笑するのをやめた。まだ余韻が残っているから、余計発言するのを躊躇ってしまう。


 目立ちたくない。嫌だ。

 嘘ついてパンとかご飯を食べてきましたって、言えばよかったのかな。

 あぁ、でも、嘘ついたら泥棒の始まりだって、よく言われていたからな。どうしよう。

 しょうもない嘘だって言うのも分かっているし、こんなことにこだわる自分は馬鹿らしいって理解してもいた。

 祈るような思いで、誰かが「シリアル食べましたー」と言ってくれないかなと周囲を見る。


 そして、皆の視線がこちらに集められていることに気付いた。


「え」

 心臓がどくんっと音がしそうなほどに高鳴って、隣の人に聞こえていないか盗み見る。

 隣に座っている女子は、「篠崎さん、何食べたの?」と小声で助け船を出してくれる。

 私はその女子から黒板の方に向き直り、「コーンフレークを、食べました」と答えた。


「へー、コーンフレークかぁ。チョコ食べたの?」

 先生はけろっとした様子で黒板に「コーンフレーク 一人」と書きこんでいく。先生が向き直って聞いてくると、私は何度も何度も頷いた。

「そっかぁ。チョコ美味しいよね。先生もよく食べるよ」

 にこっと笑われて、私も笑みを返そうかと思い悩んだ。けれども、日頃からあんまり動かしていない表情筋は中々動いてくれない。


「はい、じゃあ、これで全部書き終えたかな? ご飯は十三人、パンは十人、コーンフレークが一人、食べてこなかった人がその他で二人。これを棒グラフで表してみてねー」


 先生はそう言って、自分の席にどかっと座る。途端に皆は机の方を向き始め、黒板の方を向いているのは少人数だけだった。

 その少人数の中には、自分も含まれている。私は、黒板を穴があくほど見つめていた。


 コーンフレーク、一人。コーンフレーク、一人。

 口の中でその響きを転がしてみる。ご飯十三人、パン十人と並んでコーンフレーク一人は、中々異質にも思える並び方だった。

 本当はその他でまとめられたかった。だって、その他三人って、二人も私の味方がいるようで、何だか良い感じだと思うから。

 それに比べて、コーンフレーク一人って何。コーンフレークを今朝食べた人がたった一人しかいなかったっていうことが瞬時に理解できる。



 今朝、お父さんが逮捕されたことを知らされたのも、多分私一人だけ。



 コーンフレーク一人は、私が今置かれている状況を表しているんじゃないのか。

 親が飲酒運転で捕まって、今朝一人でコーンフレークを食べていたのは、私だけ。


 そのことを表現しているんじゃないか。

 思わずさっきおさまっていたはずの涙が零れ落ちてくる。誰にも見られないように、わざと欠伸をして、そして拭う。


 だけど、今朝のようにはいかなかった。何故か、意識するほどに涙腺はどんどん緩んできて。

 何度も何度も欠伸をして、何度も何度も目元を拭った。

 不思議なことに、息をするのも辛くなり、喉を変な感覚が襲った。


 バレないでほしい。どうか誰にもバレないでほしい。


 何度もそんなことを繰り返しているうちにチャイムが鳴った。先生が「ハイ終わりー。次の授業で答え合わせするからやってきてねー」と、手を鳴らしながら言う。同級生達は次から次へと教室から立ち去っていく。

 私も皆と同じように教室を出て、自分の教室に戻って自分の机に一式を置く。


 とりあえずもう授業はこれで終わりだ。今日はこれで終わり。

 帰りの会が終わったら家に帰れる。

 やった、やったじゃん。先生の話や係の話を聞き終わったら家に帰れるんだよ。やったじゃん。イエーイ。

 何とか心の中で自分を奮い立たせて持ちこたえる。本当は今すぐにでも、涙が溢れだしそうだったから、止めたかった。



 家に帰ると、当然だが鍵は開いていなかった。誰もいないのが寂しいと思ったのは朝だけで、別にこの時間帯はいつも一人だから平気だ。


「ただいまー」


 誰もいないのにそんなことを言ってしまうのは、恐らく昔からのくせだろう。昔はお母さんがまだ働いていなくて、こうしてただいまって言ったら、いつもお帰りって返って来ていた。

 部屋着のジャージと短パンに着替える。短パンの下にレギンスを履くのが、お母さんから「お洒落だし、温かいよ」と教えてもらった方法だ。だけどレギンスを履こうと思って、やめた。レギンスに手を伸ばした瞬間、私は思い出していたからだ。


 そうだ。今日、お父さんがいないんだ。

 それどころじゃない。いつ帰ってくるか分からないんだ。

 親が出張とか、そんな生易しい話じゃない。そんなことは充分すぎるほどに分かっていた。だから余計に悲しいのだ。


 その時、気付いてしまったのだ。

 私の家は、皆と一緒じゃない。

 普通じゃないってことに。


 私も。

 私の家も、普通だったらよかったのに。



 気が付いたら、外に出ていて。

 夕方の、茜色に染まる空のもと、マンションの玄関付近の段差に座り込んで。

 泣き出していた。

 声を上げたかった。誰かに見付かりたくもなかった。

 だったら家に帰って泣けばいいのだろうけど、その時、私の頭にそんな選択肢はなかった。


 家にはまだ、お父さんの残り香がある。それに包まれていては、今度こそ私はどうにかなりそうだった。


 もう嫌だ。

 何もかも全てがどうでもいいってなるぐらい、蹲って泣いていた。

 誰も手を差し伸べてはくれないだろう。どうしたの、なんて声をかけてくれる人がいたなら、それは奇跡だ。

 だけどそんな人がいるとも思えないから、私はそこに座り込んで、下を向いて、涙をこぼしていた。



 それを見ている人がいるとも知らずに。

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