四話
彼と知り合って、早一週間が経とうとしていた。
クラスの話題は「夏休み何をするか」で持ちきりの季節になっていた。噂では、海外旅行に行く人もいるらしい。
羨ましいな、と思ったことさえあった。私の家族は仲が悪いから、家族旅行に行くかどうかの話どころか、真っ当な話さえしない。喧嘩しない日なんてレアケースだ。
「ねぇねぇ、なつきの家はどこに行くの?」
「え? 北海道だよ」
佐藤さんのグループからそんな声が上がる。北海道に行く、と言い放ったのは佐藤さんだ。
佐藤なつき。彼女は違う小学校から来た人で、小学校の頃から性格が悪い、と一部の女子に言われていた女子だ。確かにそうだな、と私も思う。
えー、マジィ? なつきウラヤマー、と彼女の近くにいつもいる女子がきゃぴきゃぴ声を上げる。
「北海道って夏でも涼しいんでしょ?」
「まぁ、本州と気候が違うから、そうなんじゃない?」
「あーそっか! 頭良いなぁ、なつきは」
さらっと地理の復習出来たね、とまた女子が騒ぎ立てる。佐藤さんも微笑みながら、「お土産買ってくるね」と言っている。
「ってかさ、北海道ってお菓子めっちゃ美味しいらしいじゃん!」
「牛乳が美味しいから、自然とお菓子も美味しくなるんでしょ? いいなぁ、なつき。マジで」
話は、女子なら皆大好き、お菓子の話題に移っていた。お菓子なら私も好きだなぁ。なんて、混ぜてももらえないのに、そんなことを思ってしまう自分が恥ずかしい。
だけど、そんな自分自身を責める言葉に、更に佐藤さんが追い打ちをかけた。
「ま、あんまり話さなくてもいいじゃん。旅行に行けない人もいるんだから」
佐藤さんはそう言ったとき、一瞬だけ私の方を見た。そして視線を外す。私のことを言っているのは間違いなかった。
彼女は私の家庭環境を知っているのだろうか。ふと考えて、当たり前に知っているよな、と思い立つ。小学校が同じだった女子が、佐藤さんに私のことを沢山伝えているのだろう。面白おかしく誇張して。
「旅行に一度も行ったことがないって、可哀想だよねー。本読んでても分かんないことって沢山あるのにさー。勿体ないよねー」
佐藤さんは多分、私に向かって言っている。佐藤さんの友達もクスクス笑い出して、一気に気持ちがしぼんでしまう。元々浮かれていたわけではないけれど。
「あっ、本読むっていえばさー、今週図書委員の当番だったわ! 忘れてた!」
佐藤さんの友達の一人が、思い出したように高い声を出した。
「えぇマジでぇ!? そしたら昼休みいれないじゃん、最悪ー」
またも女子が高い声で叫ぶ。私はスカートの裾をギュッと掴んだ。
もし私が、望月先輩と一緒にいたら、見られてしまうかもしれない。
そして、「あいつは根暗のくせに男にばっかり寄っている」などと悪口を言われてしまうかもしれなかった。
そんなことはないのに。
私が唯一、仲が良いと思っているのは、望月先輩しかいないのに。
男に寄っているんじゃない。私は、望月先輩しか、友達がいないから。
そう言ってみたいけれど、実際、言えるわけじゃなかった。だから口をつぐむ。そして、休み時間終了のチャイムが鳴るまで考えていた。
今日は行こうか、行かないか。
望月先輩は毎日図書室に来てくれる。だから私も図書室に入り浸る毎日が続いている。図書室にいる時間はとても楽しいし、正直前よりも充実しているように感じた。
好きな作家の話をしたり、話をしなくても、「隣、良いですか?」と望月先輩の横に座って、違う本を読む。隣に私と話してくれる人がいる図書室が、家よりも、教室よりも、居心地が良かった。
それを。
佐藤さん達が、ぶち壊しにしてしまうの?
嫌だ。嫌だ、絶対に嫌だ。
思わずふるふると首を横に振る。誰かに見られていたら、変な人と思われるだろう。いやむしろ、いつも暗いからもう既に思われているだろう。
どうしよう。カウンターから見付からない所に隠れるか。
でもカウンターからの死角なんて、そうそう見付かるはずもない。図書室はカウンターにいる図書委員に見張られなくてはいけないのだから、死角があったら意味がない。
はぁ、とため息をつく。
でも、とふと考える。
私の悪口を言う佐藤さん達に会うことと、望月先輩と会って、一緒に本を読むこと。
どっちが私にとっていいのだろう。
少し考えて、私は目を見開く。
誰が私のことをどう馬鹿にしたとしても、私はやっとできた友達の方が大切だ。
よし、今日は図書室に行くことにしよう。
◆◇
図書室に行くと、案の定望月先輩は席に座って本を読んでいた。
そして、私を見付けると、片手を上げる。
私もそれに応えるように会釈をして、本を手に取り、望月先輩の隣の席に座る。
傍から見ればカップルのように見えなくもない微妙な距離感は、私の微妙な気持ちを表現しているようだった。男子の友達がいたことのない私からしてみれば、どうやって接すればいいのか分からない。男子は女子とは違う。だから真心ちゃんと同じように接していては駄目なのだ。じゃあ、どうすればいいのだろう。
しばらく試行錯誤していると、望月先輩から「ねぇ」と声をかけられた。
「え……あ、はい!?」
突然のことにびっくりしてしまって、私は少しだけ飛び跳ねる。望月先輩もそれにびっくりした様子で、「あ、驚かすつもりはなかったんだけど」と焦ってしまっている。
「その本、面白い?」
望月先輩から話しかけられたことは、他愛のないことだった。私が読んでいる本が前から気になっていて、ちょうど私が読んでいるのを見て、感想を尋ねてみた……そんなことだったけれど、私は何故だか嬉しかった。
「はい、面白いです」
「具体的にどの辺が?」
そう言われてみると応対に困ってしまう。私からしてみれば、プロが書いた小説は殆ど全部が面白いと思えるのだが、望月先輩からしてみれば、そうはいかないかもしれない。面白いものは面白い、と反射的に答えてしまったから、後の反応に困る。
「ちょっとギャグ的要素も入っていながら、結構シリアスな感じで、特に主人公が、ギャグもシリアスもどっちもいけるから……」
自分で考えてみても、どうもいまいち意味が伝わらないと分かる。
だけど望月先輩はうんうん、と頷いてくれて、相槌を打ってくれる。それが妙に安心感を与えさせて、話しやすくなってくる。
「私は、こういう、ライトノベル……は、あまり読んだことがなくて……こんな感じなんだなぁ、って思って」
語彙力がないなぁ、とつくづく思う。望月先輩ならこういうとき、色んな言葉が沢山出てくるのに。
「そっかぁ」
意外にも望月先輩は肯定的な言葉を返してくれた。それから私の持っている本の表紙を見て、「面白そうだね、今度読んでみる」と笑顔を見せてくれた。
何故だか頬が赤くなっていくような気がした。そんな姿を望月先輩に見せたくなくて、そっと下を向く。
望月先輩の真っ黒いズボンが目に入って、何だか気恥かしくなって、慌てて目を逸らす。
こんな人が、私と一緒に図書室で過ごしてくれるなんて、そんな幸せなこと、あってもいいのだろうか。
望月先輩はとっても優しくて、私のことも気味悪がらずに丁寧に接してくれるのに。こんな私と昼休みを潰すなんて、どうにも望月先輩の為になる気がしない。
もしかしたら、このこと、言ってみてもいいかもしれない。
心の中でそう思った。だけどすぐに否定する。
本当にそんなこと尋ねて良いの? また、友達を一人なくしてしまうかもしれないよ。
確かに、と思った。けれど、と反論の言葉も思い付いた。
望月先輩は優しいんだから、「図書室にいることが楽しいんだよ」と言ってくれるかもしれない。
それが、一番望月先輩が言いそうなことだった。
いや、もしかしたら、私が安心していた言葉なのかもしれない。
こんなに優しい望月先輩が、私を突き放すことなんて、しないはずだから。「図書室にいることが楽しい」という答えを、私は望んでいた。
「私と話すことが楽しいから」などとは言ってもらえなくても構わない。いやでも、心の奥底では、そう言ってほしかったのかもしれない。
「あの」
顔を上げた。望月先輩は、まだ私を見てくれている。
そう思ったけれど、違った。
望月先輩は、どこかボーっとして、私の後ろを見つめている様子だった。
私の後ろに何かいるのだろうかと振り返ってみると、そこに、こちらを見つめている人は誰ひとりとしていなかった。思い思いに、図書室の本棚を見ている人達ばっかりだ。
いるのは、低いツインテールをした一年生の女子と、愛らしいショートカットの二年生の女子の先輩だけだ。
「ど、どうしたんですか?」
もう一度望月先輩の方を振り向くと、望月先輩は何事もなかったかのように私の方を見つめていた。
その瞳に吸い寄せられそうになって、一瞬、目を逸らした。
あぁ、駄目だ。目を逸らしてばっかりだな。そう思って、望月先輩の目を見ながら、もう一度聞こうとしていた言葉を出そうとした。
だけど、出せなかった。
何故かは分からないけれど、出なかった言葉は、呼吸になって空気に消えていく。
そのうちチャイムが鳴って、望月先輩は不思議そうな顔をしながら、「じゃあね」と言って、立ち上がって、本棚の所に駆け寄った。
慌てて、さっき二人の女子のいた方を振り返る。
そこから、ショートカットの先輩は消えて、ツインテールの女子がまだ本を選んでいた。その横顔は、チャイムが鳴った焦りから、どことなく急いでいるように見えた。
◆◇
期末テストの結果が返された。
今日の五時間目に、唐突に「期末考査の結果を返します」と担任の先生が言い放ったのだ。
教室はもちろん騒然。先生が制するも、「ヤバい、母ちゃんに殺される」と騒いでいる男子の声が耳の奥まで届いていた。
さ行は結構早めに呼ばれる。だから私は、まだ心の準備が出来ていない段階で渡されることになる。特に前が佐藤さんだから、余計にプレッシャーがかかるのだ。
彼女が席に戻り際、チラッと、成績表を見でもしたら……。
その時は、どうすればいいだろう。
そう思いながら、結果表を貰う為に、教卓に続く列に並ぶ。
私の前にいる佐藤さんが渡された時、佐藤さんが歓喜の声を上げた。七百点超えた、と小さな声で言っている先にいるのは、きっと友達だろう。その友達も「マジで?」「なつき、頭良すぎ!」などと褒め称えていた。
彼女はどうやら自分の成績が嬉しすぎたようで、私のことなど本気で気にしていないようだった。それにホッとしながらも、私は先生から結果表を貰う。
席に戻って、息を整えて、結果表を開く。
その途端、また整えていたはずの息が、荒くなっていくのを感じた。
平均点、六百三十二点。
私の点数、五百九十四点。
光の速さで結果表を閉じる。クーラーが効いているはずなのに、私の体から汗が噴き出してくる。
「嘘……」
佐藤さんとの差が酷過ぎて、座っているはずなのに立ちくらみと同じ症状が出た。
ちゃんと勉強、したはずなのに。復習も予習もしたはずなのに。
平均点をかなり下回っていた。
それがショック過ぎて、しばらく呼吸をするのを忘れる。
「おー! 俺、六百五十点だった!」
「ギリギリ平均点より上なだけじゃん、そんなんで喜んでいるなんて、お前もまだまだだな」
男子が私のすぐそばで、嬉しそうな声を上げてまき散らす。その男子の通知表を見ながらツッコミを入れる男子も、どこかホッとした表情なのは、恐らく平均点より上だったからだろう。
「うおー、康太郎、すげぇな!」
「また平均点より百点ぐらい上じゃん。やっぱり天才は違うな」
背後では、男子が男子を崇めている。その当の本人である、康太郎、相沢康太郎さんは、「別に」とぶっきらぼうな声を出している。
「またまたー。絶対塾とかで特別な講座やってるだろ?」
「いいなー、どこ塾?」
男子達がはやし立てる中、相沢さんは淡々とした口調で答える。
「俺はただすることがないから、勉強してるだけ。塾に行ってるわけじゃないから」
「うぉーっ、本物の天才、現る! すげーっ!」
「今度勉強教えてくれ!」
勉強を教えてほしそうな男子をまるっと無視して、相沢さんは私の方を向いた。
私のいる方に誰か知り合いがいるのかはイマイチ分からないが、目が合うのが怖くて、私はそっと下を向く。
怖い。ただ怖かった。また誰かに、「あいつと目が合っちゃった。気持ち悪い」などと言われるのが怖かったのだ。
下を向くのをやめると、まだ相沢さんはこちらを向いていた。向いているというより、何かに吸いつけられたように、そこから視線を離さない。
どうしてそんなにこちら側を向くのかと、私は辺りを見渡した。でも、彼を見ている人物も、彼と特段仲が良さそうな男子も見当たらなかった。
はて、どうしたものだろうともう一度彼の方を見ると、彼はもう目を逸らしてしまっていた。
どうしたんだろう。何だか、気味が悪い。
そう思いながら、私は結果表をまたちらりと盗み見る。
相沢さんは、平均点より百点以上も上なのに。
私は、下回っている。
もちろん、相沢さんと私が同じ頭の構造をしているだなんて、思っちゃいない。相沢さんはきっと勉強が好きなのだろうし、塾に通っていないと言っているが、結局は親が良い環境を整えてあげているのだろう。
相沢さんと私じゃ、頭の構造も育つ環境も違い過ぎて、比べ物にもならないけれど、何故だか羨ましかった。
「相沢さん、羨ましいな……」
ぽつっと漏らしたその一言は、テストのことで盛り上がっているクラスの声に掻き消される。
「なんて」
そんなこと言ったって、しょうがないよね。結果表をバッグにしまって、前を向く。先生が「静かにー」とぱんっと手を叩いた。
「テストの結果が良かった人も、良くなかった人も、ちゃんと親に渡すようにしてくださいね?」
「え? 俺焼くわ」
男子が平然と放った一言で、辺りは爆笑の渦。調子に乗った男子は、「それでバーベキューするんだよ、一石二鳥だろ?」と言って、更に皆を爆笑させていた。
正直、全く面白くない。
こんな点数を取って、笑って流せるほど、私は強くない。その男子はきっと良い点数を取ったからそんなことが言えるんだろうし、それを見て笑っている人達も、自分は良い点数をとれたと思っているか、「勉強不足だったから、こんな点数でもしょうがない」と思っている人達で構成されているのだろう。
ふと、良い点数をとれていた、佐藤さんと相沢さんを見てみる。
佐藤さんはその男子の冗談に笑い転げている。その笑顔が眩しくて、相沢さんを見やる。
相沢さんはまたこちら側を見ていて、私はいたたまれなくなって、視線を逸らした。