三話
一瞬、私に尋ねられたのかと思い、体が動いた。だけど、すぐにその動きを押さえる。
いや、他の人に尋ねたのかもしれない。大体、今の声は男子っぽかったし、こんな私に話しかけてくれる男子なんていないんだから。というか、女子さえいないんだから。だからこれはきっと、私の幻聴か、私の近くの人に話しかけただけか。
そう自分で自分のことを説得した瞬間に、顔に熱が集中したように真っ赤になった。
あぁ、誰かに見られているわけでもないのに恥ずかしい。思わず開いた本を立てて、顔を埋めた。
「あ、やっぱり」
また、同じ声が聞こえた。私はそれに続く声をそっと予想する。やっぱりお前じゃん、気付けよー。そうじゃれあいながら、私の存在など気にもせずに、眼中に入っていないように話したりするのだろう。
私はまた静かに本を読み始める。一番最初のプロローグに、私の知らない熟語がある。どういう意味なんだろう。あとで国語辞典で調べようかな。
「君も、その人の本、読んでるの?」
ああ、ちょっとうるさい。人がせっかく本を読んでいると言うのに。
そう私が思う権利もないし、そんなことを言う筋合いはない。分かっているから今の自分が情けなかった。
私が恥ずかしがる原因を作った男子が、近くにいるであろう人に話しかけている言葉が私の耳に届くのが嫌だった。
そんな自分は、何て最低なんだろう。
「僕もその人の本、好きなんだよねー」
そう言ってその男子は、私の隣の椅子を引いて、座った。
「え?」
弾かれたように、私は声の主の方を振り向く。その瞬間、冷房が効いているというのに、私の体に熱が走った。
この人、私に話しかけていたんだ! それなのに、何で無視しちゃったんだろう……。
慌ててその人の顔を見て、謝ろうとする。
青いフレームの眼鏡をかけた、穏やかそうな男子。こんな人ならきっと、表面上では怒らないんだろうな。と何故だか悟った。
「ごごご、ごめんなさい! あの、私に話しかけてるんだって、全然気付かなくて」
「あはは。いいよ。熱中してたのに、気を散らしちゃって、酷かったよね」
その人の薄い唇が上がる。大きくて丸い目が細くなった。
「む、無視とか、するつもりなくて、てっきり、違う人に話しかけているのかと思って、その」
「そんな謝らなくてもいいよ。本当に、こっちの方こそごめんね」
体中が熱を帯びて熱くなっていくのが分かって、更に恥ずかしい気持ちになる。
「それにしても、この人の本、面白いよね」
急にその人が話題転換をした。その人が指差した方には、私がさっきまで読んでいた小説がある。
「え、あ、本、ですか……」
「うん。本。大好きなんだ、この人の本。何て言うか、安心できるっていうか、温かみがあるんだよね」
あ、それ、思った。
そう口に出そうとしたけれど、出なかった。でも、それでも良い。
私と同じようなことを思っている人と出会えるなんて、世界はひょっとして、私が思ってるよりも狭いんじゃないかな。いや、ただ単に私の交友関係が狭いだけって言うのもあるのかもしれない。
「この人の本の中で、誰が一番好き?」
「え……」
言葉に詰まる。さっきも言葉に詰まっていたけれど、こっちは言葉に出して答えなきゃいけない問題だ。
「僕はあの、バレー部の部員が全国を目指す話の主人公が好きだなぁ。何か、どこまでも一生懸命っていうか。性別が違うけど、普通に、憧れちゃうんだよね」
あ、私は、その話の主人公、あんまり好きじゃないなぁ。あんまり性格が合わないし、彼女の周りには支えてくれる友達が沢山いるから、どうにも同じ視点を持つことが出来ない。
コミュニケーション能力が欠如してしまっている私は、相槌を打つことすら出来ないらしい。私はうん、うんと頷いて、その人の話を聞いていた。
その人は、好きな主人公の話をし終えた後に、あっ、と何かに気付いたような素振りを見せた。が、それもすぐ一瞬で、かぶりを振って私に向き直った。
「人の暗いところとか、脆いところとか、そういうの平気で書いちゃうのに、少しも重たくならないのがすごいよね」
何だかその人の一人語りになっちゃっているような気がしたが、私が口を挟んでも大した話は出来ないので、そのまま相槌を打つことにした。
「僕、その人の書く本、この学校に沢山置いてほしいなって、いつも思ってる」
にっこり笑って、それから自分の制服のポケットから文庫本を取り出した。
「これ。さっきのバレー部の話だよ。図書室で読んだときにすごいなぁって思って、勢いで文庫本も買っちゃったんだ」
さっき会ったばかりだというのに、照れくさそうに話す男子。
ふと思った。この人は誰なんだろう。照れながら話す彼には悪いが、そっと上靴を見てみる。
緑色のラインが、蛍光灯の光に反射していた。
この学校は、一年ごとに学年カラーが変わる。今年は、一年生は青、二年生は緑、三年生は赤だ。
……ってことは、この人、二年生。私より一学年上なんだ!
「に、二年生、ですか……?」
急に話題を変えられたことに驚いたのか、その人……先輩は目を見開いて、一瞬で「うん、そうだよ」と柔和な顔に戻して頷いた。
「君は……青だから、一年生?」
放心状態で、頷いているのか頷いていないのか分からないような頷き方をする。
「一年生は、初めての期末テスト、どう思った?」
「え? えと……」
こっちが話題転換したと思ったら、またそっちから話題を変えられた。その事実が何だか面白くて一瞬笑ってしまいそうになる。
「期末テストは……あんまり解けなくて」
愛想良く、笑って答えたつもりだったが、どうにもうまくいかなかったらしい。元々愛想笑いどころか笑うのすらも下手くそだったから、余計に下手に見せたらしい。
「うーん。やっぱりそうかぁ。僕も一年前そうだったなぁ。平均点よりギリギリ上だったから」
まだテストの結果が返されていないから、合計点を確認しようにも確認ができない。
「あ、そうだ。まだ、名前聞いてなかったよね?」
思い出したというように、先輩は目線を上に向けた。
「名前、何て言うの?」
眼鏡のフレームから覗く目は、優しげな光を放っている。柔らかな焦げ茶の髪が光に反射していて、とっても綺麗だ。
まるで人形のような可愛らしい顔が、どうにも先輩って感じがしない。こんな私が言ったら失礼以外の何物でもないけれど。
「い、一年二組の、篠崎真織って言います」
篠崎さんかぁ、篠崎さんねぇ、と言いながら先輩はまじまじと私のことを見つめる。
その見つめる姿が真心ちゃんと重なって、私の胸が高鳴った。
そうだ。
もしかしたらこの人も、真心ちゃんと同じように、離れていってしまうのかもしれない。
そんな人に、心を開いちゃ駄目なんだ。
分かっている。分かっているんだ。
だから、もう一生友達が出来ないから。
辛い。
早く離れてくれないかな。そう思った。
だけど先輩は、中々離れてくれなかった。そして、私のトラウマになっている言葉を放った。
「僕、望月隼人。宜しくね」
宜しくね――。
私が真心ちゃんと初めて会ったときに言われた言葉。
あれがなかったら、私は傷付くことなんてなかったのに。そう思わずにはいられなくて、私は、先輩……望月先輩から差し出された手を、払いのけようとした。
ん? 差し出された手……?
「う、うわぁ?」
図書室だからあんまり大きな声は出せないけれど、それでも私にとっては大きな声が出た。図書室の何人かが振り向く。
「え? え、びっくりした、もしかして、気持ち悪かった? 男子の手」
ぐっと力んだその手が、急に望月先輩の方へ引っ込む。私は交互に、引っ込まれた手と望月先輩の顔を見た。望月先輩は少しだけ困っている様子だった。
あ。
また、呆れられてしまうのかもしれない。
私のわがままで。私の勝手なことで。
また、誰かが私から離れていくのかもしれない。
そう考えると、何だか突然怖くなった。優しく思えた望月先輩が、どうしてか怖く見える。
「あの、そんなわけじゃ、ないんです……」
ひどくか細い声が私の口から出る。望月先輩が困ったような表情からきょとんとした表情になるのが見て分かる。
「別に男子が嫌いとか、そういうわけじゃないんです。ただ、慣れていなくて」
男子の手とか女子の手とか、そう言うのを関係なしに、全てひっくるめて、私は誰かに手を差し出されたという経験が殆どなかった。
「ごめんなさい。あの」
その言葉を言おうとした瞬間、言葉に詰まった。さっきから言おうとしていたのに、口がぱくぱく開閉するだけで、どうしても言えない。
望月先輩が私の顔を覗きこんだ。きょとんとした表情を貼り付けたままで。
そこまでしてくれて、私はやっとそれを言う決心がついた。手を突き出して、彼の瞳を見つめながら、半ば叫ぶように言う。
「……こちらこそ、宜しくお願いします!」
自分にしては明るい声が出たかな、と思う。それでも、他の誰かに比べたら、全然小さいけれど。
望月先輩はニッコリ笑って、私の手を握ってくれた。その手がひんやりと冷たいことに気付く。
私もつられて口角を上げた。優しげな彼の瞳が有り難かった。
一瞬、真心ちゃんのことを思い出す。彼女は私が嫌いだった。大嫌いだった。死ねばいいとさえ思われていた。
そんな何の取り柄もない私だけど。
こうして誰かと、リハビリのように仲良くできるのなら。
この先、真心ちゃんに嫌われて負った心の傷が、この人との関わりで癒えるのなら。そしてこれから、色んな人と仲良くなることができるのなら。
もしかしたら、きっと。
そんな希望を、持った。
いや、ここは持ってしまったとでも言うべきだろうか。
これから私は、この人のせいで、絶望の淵まで追いつめられていくのだから。