二話
百円ショップに行くと、同じクラスの女子達がいた。その中に佐藤さんもいて、私はそっと棚に身を隠す。彼女達はどうやら付箋を買いに来たらしく、彼女達らしい可愛い付箋が手に握られていた。
彼女達はお洒落だから、ヘアゴムのコーナーにも来そうだ。
私はごくっと息をのんで、彼女達が絶対来ないであろう、日用品売り場に移った。
もう、どうしてこんな風に上手くいかないんだろう。偶然、同じクラスの気の強そうな女子と出くわしてしまうなんて。
辺りを見回しても、あるのはハンガーやスポンジなど、家事に必要な物ばかり。彼女達が料理をしたり洗濯ものを干したりする姿がどうしても想像できないから、恐らく家事などしないだろうし、ここに身を隠して正解だっただろう。
そう思ったけど。
「ねぇ、ハンドメイドのとこ見に行かない?」
「あーいいね。ウチも最近、キーホルダー作るのハマっててさ」
「そういえば、クラスLINEでレジン送ってる女子いたよね。誰だったっけ」
そんな声が聞こえたとほぼ同時に、曲がり角から佐藤さん達三人が姿を現した。
ここは大人しく退散しておくべきだと、頭が警告してくる。だけど、急いだのが間違いだったのかもしれない。
フックにかけてあるハンガーががたん、という音をたてて落ちた。一個だけではなく、何個も。
周りの人も、そしてもちろん佐藤さん達も振り返る。
彼女達の突き刺すような視線を真正面から受けて、背筋が冷や水を浴びたかのように冷たくなる。
「え、あれ篠塚さんだよね」
「違うよ、篠崎だよ」
「どっちでもいいじゃん。っていうかあれどうなの」
「だっさーい」
「壊れてたらどうすんだよ」
ぶるぶると震える膝を何度か叩いてしゃがむ。すみません、と周りに謝る小さな声も、か細かった。小刻みに動く指先が、ハンガーに触れる。がた、がた、という音がして、陽気なBGMが流れる店内に決して小さくはない音が響く。
「ちょっとぉ、本当にトロくない? 篠崎さん」
「あ、やっぱり篠崎なんだ。え、にしても何であんな慌ててるの?」
「まさかウチらに気付いて逃げようとしたとか?」
「うわ、有り得るわー」
「根暗女」
「キモッ」
佐藤さん達の聞こえよがしな声が、私の耳に届いて反響する。
何もそんなに言わなくても、と思ったが、しょうがない。体育で散々迷惑をかけているのだから。
「せいぜい頑張ればー?」
佐藤さんの意地悪な声とともに、彼女達は私の目の前を通り過ぎていった。
周りの人達は、今の佐藤さんの悪口に気付いていないのか、気付いているのか、チラチラとこちらを見ている。
周囲の関心が私にあるんだと思うと、体中が熱くなった。
ハンガーを勢いよく拾い集めて、フックにかけた。滑り落ちそうだけど、気にしない。気にするものか。
体中を巡った熱さは、まだなくなるものじゃなかった。まだ冷房のつく季節ではないから、体が中々冷気に包まれてくれない。
彼女達の方を見やっても、姿は見当たらない。
完璧に、私のことを馬鹿にして、その場を去ってしまったのだ。
やるせなさと、名前が思い出せない妙な感情が、私の胸を締め付ける。
どうして、どうしてこんなことを言われなければならないのだろう。
もちろん、答えは分かっている。
私が、ドジでとろくて、皆の足を引っ張ってしまうからだ。
違う小学校出身の佐藤さんも、私が真心ちゃんに嫌われていたことを知っていたのだろうか。
知っていたから、あんな言葉を吐き捨てたのだろうか。
意地悪な考え方だけど、そう思わずにはいられない。
急いでヘアアクセサリーの売り場を探す。ふと、賑やかな声がする方を見れば、佐藤さん達はレジ袋を提げながら出口から外へと足を踏み出していた。
やっとあの人達がいなくなったのかと思うと、何故だか妙に安心するのは、私の性格が悪い証拠だろう。でもいなくなってよかったと思った私は、引き続きゴム探しをすることにした。
「あ、あったあった」
ごくごく普通のゴムもあれば、ちぎれない、なんて謳い文句のあるゴムもある。佐藤さんのような細い焦げ茶の髪色ではない私は、本当に普通の、黒いゴムを買うことにした。
「よし」
これで少しでも皆に認めてもらえるならと、足取り軽くレジに向かった。
◆◇
現実はそう上手くはいかなかった。
体育の時間にゴムをつけても、「つけたんだー」とさえ言われなかった。先生には「おぉ、似合ってますねー」などとお世辞を言われたけれど、皆それほど、私に興味なかったんだって、つくづく思い知らされる。
それにしても、ゴムで髪を結ぶと言うのは、長年、ゴムを結んだ経験がないからか、きつく結ぶととても痛かった。
小さい頃から男子のように短かった髪の毛は、髪を結ぶという仕草に慣れていないらしかった。だから私は、緩く結ぶことにした。これで「あいつ結び方変」などと陰口を言われることは、百も承知だ。でも痛いんだから、しょうがないじゃん、とは言えなかった。
痛いものは痛いので、体育の時間以外は外すことにした。
幸い、それで何かを言われることはなかったし、期待してもいなかったが、「結んでいた方がいいよ」と言われることもなかった。寂しさなんて覚える必要はないのに、どうしても寂しかった。
自分の変化に、誰でもいいから気付いてほしい。
そう思うには、自分はあまりにも情けなさすぎる。誰かに自分の外見の変化に気付いてもらおうなんて、到底無理な話。私に友達が出来るとは思わないし、期待しない方がいいのは理解していた。
真心ちゃんとの一件があってからというもの、友達を作ることが出来なくなった、と言っても良いのかもしれない。真心ちゃんに嫌われていたという事実が私を傷付け、それ以降の友達づくりを不可能にした。
信頼していた、親友だと思っていた真心ちゃんに裏切られた、私の心が負った傷は予想以上に深かった。
だから私は、もう二度とそんな目に遭いたくないと心に誓ったのだ。
でも、陰口は言われたくなかった。せめて、上辺だけでもいいから話せる人がほしい。
そう思うのはあまりにも自分勝手すぎて、自分でも「なーんてね」と言いたくなる。
家に帰ったら、壁で仕切っても聞こえてくる夫婦喧嘩をシャットアウトしながらも、復習をする。そして、自室にこもり切って、ずっと、勉強机に座っている。
中学には色々な部活がある。吹奏楽部とか、サッカー部とか、野球部とか。
私には、どこにも入る予定がない。
運動系の部活なんて、入りたくもない。個人種目とも言われる陸上部にも入りたくはないし、チームプレーのバスケやテニスなんて論外だ。サッカーや野球は、そもそも男子が入る部活というイメージがあるのか、女子の数が少ない。
いや、私はこれでも分かっているのだ。
中学で部活に入らない人というのは、ただ単に体が弱くてどの部活にも向いていないという人や、勉強に一生懸命な人や、ごく稀に強いチームクラブに入っているから、部活には入らない人が殆ど。面倒くさいから、という理由で部活をやらない人は、この中学でも一人か二人ぐらいだろう。
その一人か二人ぐらいに、私はいるのだ。
そんな奴がクラスから浮くのは分かっている。理解しているけれど。
どの部活も部費がかかるし、美術部や文芸部なども、何だか入る気にはなれなかった。女子だけの部活ならまだいいのに、男子も数名いるのだ。
「どうすりゃいいんだろ……」
天井を眺めながら、私は一人考える。
入学してから数日なのに、早速クラスから浮いてしまった。愛想も悪くて、暗くて、前髪で顔を隠していっつも下を向いている、部活に入っていない、委員会にも所属していないような奴。そんなのがクラスから浮くのは当たり前だ。
一番救いようがないと思われたのは、やはり今日の数学の授業だろう。
昨日行われた小学校の算数の確認テストの結果が今日発表されて、発展クラス行きの人達も同時に発表された。
発展クラスは、二組合同で、頭が良い合計二十五名で数学の授業をする少人数クラス。私はこのクラスの存在を知らなかったから、かなり驚いた。
私の名前は呼ばれなかった。
返された確認テストの点数は、百点中五十六点。可もなく不可もなく、どちらかというならば不可の方に入るような点数だった。
前に座る佐藤さんの点数は、チラッと見たものだと、百点中九十八点。間違いなく発展クラス行きだし、黒板のど真ん中に貼られた名簿の、佐藤さんの欄には、発展クラスの文字が躍っていた。
他にも、小学校四五六年生と同じクラスだった相沢さんも発展クラスに行くらしかった。
発表された人達が意気揚々と教室を飛び出していく中、私は一人で数学の教科書を机に置いた。
「はぁ」
ため息をついても、教室中の誰にも聞かれなかったようだ。髪を耳の下で一つ結びにした女の先生が入って来て、「号令」と小さな声をかけるまで、教室は騒がしかったのだから。
「あ、やべー」
「先生来た」
がたがたとどこからともなく椅子の音がして、皆が席に座る。
「起立、礼」
数学係の号令で、皆が「宜しくお願いします」と頭を下げる。先生も同時に頭を下げて、皆が席に座ると早速口を開いた。
「今日から本格的に、数学の勉強が始まっていきます。数学係さんは、明日の持ち物を聞く際は私に話しかけてください。今日は必要ありませんが、プリントを貼ったり、切ったりするとき用に、ハサミやのりを持ってきてくださいね」
小さいながらもはきはきした声で喋る先生。先生の話を、皆が食い入るように聞いている。
「では、今日から正負の数を学習していきます」
先生は白色のチョークを取り出し、黒板に「正負の数」と書く。あちこちでノートを開く音がして、完璧な授業体勢に入ったようだった。
「たとえば……この温度計は、今二十度を指しています」
先生が教室の壁にひっかけてあった温度計を取って、今の温度をオレンジ色のチョークで板書する。
なるほど、プラスのついた気温はオレンジで表現するのだろうと推測し、筆箱から赤ペンを取り出そうとする。
背筋に悪寒が走った。
どれだけ小さな筆箱の中を探しても、赤ペンが見当たらない。入れてあったはずの青ペンもなくなっていた。
どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
最初の時間に行われた席替えで、いつもの席ではない誰かの席に座っている。赤ペンと青ペンをなくしてしまった焦りと、誰の席かも把握していない不安で、正直居心地が悪いどころの話ではなかった。
このままでもあれだから、誰かに貸してもらおうかなという考えが頭をよぎり、ちらりと隣の席に座っている男子を見やる。隣の席には村本という小学校が同じだった男子が座っていて、ノートに私がしようと思ったことと同じように、赤い色でプラスを書いている。
「あの」
私の小さな声は、村本さんにちゃんと届いたようだ。村本さんは「何?」と迷惑そうな顔をして、私に視線を投げかける。
「その、赤ペン、持ってたら、貸してくれませんか……?」
できれば青ペンも、と付け足そうとしたところで、村本さんの顔が曇った。は? とでも言いたげな顔で、私の顔をまじまじと見つめてくる。
「何で」
「何でって、忘れて……」
村本さんは呆れたように笑いながら、私の足元を指差した。
「その下に落ちてるの、お探しの赤ペンと青ペンじゃないの?」
村本さんの冷たい声が私の耳に届いて、そっと足元を見る。
もしかしたら、という希望と、胸が高鳴る不安が、私の体を襲う。
見るとそこに、ないと思っていた赤ペンと青ペンがあった。
「ほ、本当だ!」
驚きで声を上げてしまい、近くの席の数人が振り返ってこちらを凝視する。先生までもが一瞬こちらに視線を送り、私の顔に熱が集まっていくのが分かった。
「あ、ありがとう、村本さん……」
首を殆ど振らずに、しかしながらきちんと頭を下げる。その体勢のまま二本のペンを拾い集める。
「……チッ」
村本さんは舌打ちをして、また黒板に向き直る。その舌打ちで、私の気持ちはしぼんでいく。
分かっていた。ウザいと思われるのも、舌打ちをされるのも、予想していた。
だけど、予想をしていても、それを乗り越える能力を持っていないから。
当たり前のことで、何だかすごく、傷付く。
そんな自分がまた、嫌で嫌で仕方なかった。
自分は、誰からも必要となんてされていないのに。
舌打ちをされて嫌がるなんて、随分とおかしいことだ。
こぼれてしまいそうな涙を何とか堪えて、私も黒板に向き直った。
◆◇
入学してから二カ月が経ち、暑い夏がやってきた。
七月の初めといったら、皆が夏服に衣替えするシーズンだ。この中学校は、男女ともズボンやスカートは、夏用は必ず購入しなくてはならないが、シャツに関しては何も言われていない。個人の自由で、長袖で過ごそうが半袖でいようが、かまわれはしないということだ。
周りの皆はほぼ半袖、女子の中では「日焼けしたくない」という理由で長袖の人が数名いるが、ウチのクラスの男子は全員半袖シャツだ。
私は日焼けをしたくないわけでもないし、結局部活はどこにも入っていないから、日焼けする要素はない。
ただ、半袖を買ってほしいと言いだせないだけだ。
家に帰るといつも両親が喧嘩している。父親が乱暴にドアを閉めて自室にこもり、母親はヒステリックに叫びながらリビングにタオルケットを敷いて寝る。そんなことが繰り返しで、私のことに、二人とも興味を持ってくれない。
たまに喧嘩をしていない時があって、その時にお願いしてみても「また今度言って。今お金ないから」と突き放される。そして、その今度は多分、二週間に一回単位でしか訪れない。その時にはまた、お金がないの一点張りで、結局何週間も長引いてしまう。それが続いた果てにはもう夏が終わってしまいそうで、半袖を買ってもらうのを諦めた。
だから暑い。この上なく暑い。一応袖をまくっているのだが、何しろ私は暑がりなもので、周りから見れば色んな意味で暑苦しいのだろうと思う。
「うぅ……暑いなぁ」
教室内は冷房が効いているにも関わらず、外に出たくないと言っている男子達がふざけていて、変に気温が高い。男子達は教室内を走り回っているから、気温が高いのも仕方がない。それだけならまだしも、日焼けをしたくないと言っている女子達も教室に残っているから、また更に人口密度が高くなって気温もそれに比例するかのように高くなるのだ。
だから私は今廊下を歩いて、図書室に向かっている。零れ落ちる汗をハンカチで拭って、周りの生徒と目を合わせようともしなかった。長袖で汗をかいている姿なんて、「じゃあ半袖着ろよ」と呆れられてしまうに違いないからだ。
教室でも、残っている佐藤さん達に「ほら、今日も暗い」と悪口を言われてしまうのが嫌だからっていうのもある。
佐藤さんは相変わらず二つ結びで、クラスカーストの上位であると私は認識している。男子や他の人がいる手前では「篠崎さん」と愛想よく笑ってくれるが、周りに誰もいないときは、平気で「篠崎ブスだよね」と言っている。それもご丁寧に、私に聞こえよがしに。
私はそんな佐藤さんがあまり好きではなかったし、このクラスにも溶け込めそうにはないな、と自分でも理解していた。自分が周囲から浮いているのは伝わってくるし、こんな私と仲良くしてくれる人なんて誰もいないって分かっていたから。
だけど少しだけ、本当は願ったことがある。
信頼できる友達が、一人ぐらいはほしい。
優しくて、人の悪口を言わない。そんな子が、男子でも、女子でも良いから、私の近くにいてくれたらいいのに。
そんなこと思っても、誰も私とは一緒に行動してくれない。
体育の時間も、ペアを組みましょうというときは、他の友達と組みたかったらしい子が一緒にペアを組んでくれる。それが何だか申し訳なくて、私は心の中で「ごめんなさい」とずっと謝っていた。
誰も私と話してくれはしないから、結果的に図書室に入り浸る日が続く。図書室はクーラーも効いていて、人口密度もかなり低い。ときどき小さな話し声が聞こえるだけで、かなり快適に読書が出来る空間であることは間違いない。小学校の頃の図書室は、廊下での鬼ごっこの延長線で図書室を走り回る人が多かった。
それを思い出すたびに、「男子って馬鹿だよねー、真織」と笑っていた彼女の姿が頭に浮かぶ。
真織、と両親が呼ぶ声が、今もちょっと怖い。真織、というイントネーションが、真心ちゃんの呼ぶイントネーションとそっくりなのだ。
あの笑顔の裏に潜んでいた感情が、今も思い出す彼女の口から溢れ出ていそうだった。
あの頃に戻れはしないんだと分かって、どうしても切なくなる。
じゃあ、あの時も、私が嫌いだと分かった上で、あんなことを言ったの? あの時も、この時も……。
考え出すと止まらなくて、思わず身震いする。初夏も過ぎたのに、背筋が冷たくなる。
「駄目だなぁ……」
そう呟きながら、私は図書室の本棚から本を取り出す。一昨日から読み始めていて、何だか面白いとそのまま読み進めていた本だ。
図書委員会に佐藤さんの友達が所属しているから、その人が当番の時は本を借りない。「篠崎がこの本借りたんだけど」「マジ? 気持ち悪」とか何とか、悪口を言われるに決まっているから。
確証はないけれど何故だかそんな気がして、その人が当番の日は図書室にすら行きたくないと思っていた。
だけど。
私を揺るがすような、決定的なことが起こった。
普段と何ら変わらない教室に、普段と変わらない、静かな図書室。
そんな日常が、変わった日。
私がいつもと同じように、図書室に行った日のこと。
最近ハマっていた作家の小説。図書室にあるその作家の本は、読み終えた本ばっかりで、読んでいない本はあと一冊だけだった。
その一冊を取り出して、いつもと同じように椅子を引いて、ハンカチで汗を拭いて、ページを開く。
真っ白い紙面に印刷された活字を読み進めていく。
頭から、ふと、声が降りかかってきたのだ。
隣、いい? と。