一話
また新連載を始めました。
今回は自分が好きな設定を沢山盛り込んでいるので、嫌いな人もいるかもしれません。それでも大丈夫だよ、という素敵な方は、どうか温かく見守ってください。
「真心ちゃん、理科の教科書、持ってる?」
「うん。持ってるけど。……なぁに、まさか、忘れたの?」
教室。
ぽかぽか暖かい陽気に包まれて、六年二組の皆は今日もいつも通りに動いていた。
「そうなんだ。いくら探してもなくって。だから真心ちゃんに頼むことにしたんだけど……」
明るくて可愛い真心ちゃんが、頬を膨らませて、考える素振りを見せる。私はおずおずと、「……どうかな?」と尋ねてみる。
真心ちゃんは黙ったままだったけど。
「どうかなって言われても、貸すよそりゃあ」
ほのかに明るくなった真心ちゃんの一言で、私の口角はみるみる上がっていく。
「やった!」
「ただ……」
真心ちゃんは私の目を見ながら何かを考えているようだった。蛇に睨まれた蛙のように、私は黙りこんでしまう。
その姿を見た真心ちゃんは、ぷっ、と音をたてて噴き出した。
「か~わいいな~! 前まではすっごく大人しかったのに!」
ふぇ、なんて言う私の間抜けな声は、果たして真心ちゃんの耳に届いたのだろうか。
「本当に可愛いなー真織は!」
真心ちゃんに微笑みかけられて、私もえへへっと笑みを返した。
私がこんなに笑えるのは、貴方が声をかけて、親友になってくれたから……。
なんて、そんなことは言えないな。真心ちゃんはきっと、水くさいって言うもの。何そんな水くさいこと言ってんの。ウチら、親友でしょ? みたいな感じで。
じんわりと暖かくなっていく心。そのとき、私はふと思い出した。
もう、三月。
卒業したら、中学受験をしてしまう真心ちゃんとは、離れ離れになってしまう。
こんな時間が、永遠に続いてくれたらいいのに。
そう思いながら、私は、真心ちゃんが貸してくれる理科の教科書を、有り難く受け取った。
◆◇
「篠崎さん? 篠崎さーん!?」
「……は、はい!」
先生の言葉で、私ははっと我に返る。
「あれ? 篠崎さんで合ってるよね? 篠崎真織さんだよね?」
バインダーに挟まれた名簿を見ながら、先生が言った。座りながら先生の話を聞く背の順の列の、丁度真ん中にいる私は、それに「はい」と頷いて、先生の顔を見た。
今は中学校の体育の時間で、初めての授業だから、先生が男女混合で体育館の設備とかを紹介しているんだ。今、私は多分、体育担当の女の先生に注意されている。
何故名前が分かったのかと、私はしばらく考えてみる。そして、体育着を着ている自分の左胸に、篠崎と書いてあることに気付いた。
「あ」
「あ、じゃなくてさ。篠崎さん、ゴムとか持っていないの?」
キャップを被った体育の先生が、困ったような表情をしている。
私は咄嗟に輪ゴムを連想して、持ってません、と何とか口にしようとした。
「も、ももも……も……」
「何あれ、コミュ障?」
誰かの心ない一言が、私の心に、ずしっとのしかかってきた。
意地悪っぽい笑いを含んだその声。男子だったのか、はたまた女子だったのか分からない。でもその声は、あの言葉と重なって、何だか無性に気持ちが悪くなる。
知ってるよ、私が情けないってことぐらい。
親友もいなくなってしまった今、何を信じて生きればいいのか分からないと言うのに。
「持ってません……」
そこまで言ってから、私は先生が言っていた「ゴム」という単語が、髪を結ぶ「ゴム」だと言うことに気付いた。
……まぁ、髪を結ぶゴムすらも、持っていないんだけど。
「本当に? 小学校の時は分からないけど、一中では、髪が肩までかかる人は髪を結んで体育を行いましょうって、説明されてたと思うけど……」
え?
そんな記憶があったような気がするし、なかったような気がする。
私はメモを残しておく几帳面な性格ではないし、そんなに髪は長くはないと思っていた。肩よりちょっと長いくらい、いいじゃん。
そう思っていたけれど、これは結構ヤバい状況なんじゃないかと、瞬時に感じ取ることができた。
これで、授業が長引いてしまうかもしれない。髪を結ぶゴムが中学で重要視されるなんて、知らなかった。
「あの、説明されたこと、忘れてて……」
私の自信なさげな声を聞いて、先生はちょっとだけため息をついた。
「それじゃあ、今日、ゴムは持ってきてないってことね?」
「はい……」
ゴムを持ってきていないのではなくて、ゴムを一つも持っていないんだと、言える雰囲気ではなかった。
「そんな髪長いくせに持ってきてないとか、女子として終わってね?」
明らかに悪意のある女子の声が、私の耳に届いた。
二クラス合同だから、他の女子の言葉かもしれない。だけど、もしかしたら同じクラスの女子かもしれない。初っ端からこんな言われようじゃ、これから一年、どうすればいいんだろうと思っちゃう。
「持ってきてないなら、しょうがないよね。誰かから、借りることはできない?」
先生が辺りを見渡してみるけど、男子はもちろんのこと、女子も皆一様に目を伏せて、私と視線を合わせないようにしている。
「誰か、二つ結びにしている子とか、一個貸してあげるってことはできない?」
先生の言葉にも、女子は応じない。器用に二つ結びの編みこみをしている佐藤さんも、下を向いて、蹲っているように思える。
先生の呼びかけに誰も応じず、誰かが「持ってきてないのが悪いんじゃん」と言った矢先、先生は自分の髪をほどいて、ゴムを私に差し出した。
「先生は結ばなくてもいいから、それで大丈夫?」
迷惑をかけたはずなのに、今もなお優しげな先生の声に、私は「はい」と頷いた。
誰かが舌打ちをして、居心地悪そうに私が座り込んで、それに気付いているのか気付いていて気付かないフリをしているのか分からない先生が、授業を再開する。
居心地の悪いこの体育館から、出たくて出たくてたまらない。自由時間だとか何だとか、先生が言うと、皆がわっと立ち上がって騒がしくなる。
いつだって支えてくれてた真心ちゃんは、もういない。中学受験してしまったからじゃなくて、もっと、もっと別で。
彼女は、私のことが嫌いだった。
これだけは断定して言える。彼女は私のことが、暗くて友達が一人いるだけで舞い上がってしまうような、ブスな私なんて、大嫌いだったんだって。
それに私が気付いたのは、春休みの市立図書館での出来事だった。
図書館の自習ルームで、私が読書をしているときに、私に気付いていない様子だった、元同じ六年二組のクラスメートの女子達が、話していたのだ。
ってかさー、真心って真織のこと嫌いだったんでしょ?
あーねー。LINEでめっちゃ悪口言ってたもんね。
あんなブスなんて死ねばいいのに、なんて、マジ腹黒いよねー。
表向きはあんな明るいのに、裏はとんでもないよね。
多分、あの言葉の本質では、真心ちゃんの悪口を言っていたんだと思う。
だけど、充分に私は傷付いた。
親友だと思っていた真心ちゃんが、私の悪口を言っていたなんて。
あの時、目まいと吐き気がした。あの女子達が言っていることが、どうしても信じられなかった。
私は女の子達に気付かれないように、こっそり自習室を抜け出した。そして、図書館の中を早歩きして、逃げるように図書館から離れた。
真心ちゃんは、私のことが、好きじゃなかったの? 私のことが、死んでほしいと思うぐらい、嫌いだったの?
そう思えば思うほど、図書館から家に帰る足取りは重くなっていた。何を信じて何をやればいいのか分からない。そんな考えが頭から離れずに、私は家に着いた。
◆◇
体育で悪い意味で目立ってしまった私は、体育着を片手に、家に帰った。
賃貸マンションの二階にある篠崎家は、かなり周りの評判が悪い。夫婦喧嘩をしているとか、そんな噂話ばかりがされているが、それは決して間違いではなかった。
私の家族は、とても仲が悪い。
何で結婚したのか、不思議なほどに。
今日もまた、聞こえてくる怒号。帰ってくるんじゃなかったと、毎日思う。
だけど、しょうがないことだと思う。
たとえば、自分が大切に使っていたおもちゃが、壊れてしまったとき。原因が良く分かって場合もあれば、いつどこで壊れたのか、全く見当のつかないこともあったりする。
何とか直してみると、元より良くなったり、悪くなったりする。
でも間違いないのは、壊れる前の状況に戻りはしないということだ。壊れる前より良くなるか、壊れる前より悪くなるか。必ずどちらかになるし、自分で無理に直そうとした場合、壊れる前より悪くなるのが大半だ。
そして、多分私達家族も、その大半の部類に入る。
どこで壊れたのか分からないのに、今、確実に壊れているというのは、手に取るように分かってしまう。
学校でも家でも、居場所がない私。だけど、居場所がほしいと強く願ったことだってある。
なのに、今日みたいに、人に迷惑をかけてしまう。
引っ込み思案だから、人に対するコミュニケーション能力が欠如してしまっているのだ。
今日もまた、帰ると聞こえてくるネチネチとした陰湿な声。
「だから言ったんだよ。お前はいちいち、要らないもんばっかり買ってくるよな」
「はぁ!? 要ると思ったから買ったんだよ! 必要な物も全部捨てるお前に言われたくなんかない!」
お酒を飲んで椅子に座りながらため息をついているお母さんと、隣の部屋にも響き渡る大声で喚き散らすお父さん。
今日は何があったんだと、私は玄関からそっと部屋を見回す。賃貸で一つの部屋が小さいから、全体像は玄関からでも見える。
お父さんのすぐ横には、ネットで有名な通販の段ボール箱が置いてある。恐らく、お父さんが何か買い物をしたのだろう。
そして机の上には、照明の光を受けて、この部屋のくすんだ空気とは対照に輝いている透明なコップ。かなり新しそうだから、恐らくこれがお父さんが買ったっていうものだろうな。
「お父さん、お母さん、ただいま……」
「要らないもんばっかり買ってくるから、この家にゴミが溜まってくのよ」
お母さんが缶のお酒を口に含みながら、ごくっと喉を鳴らした。
「そっちの方が、高いバッグとか洋服とか買ってんだろ!? 何だよオフショルダーって。本当に下らないものばっかり買ってくるのはそっちだろ?」
「はぁ? 言いがかりつけんのもいい加減にしてよね!?」
缶がぐしゃっと握りつぶされた音がする。見るとお母さんは拳を怒りに震わせていた。
そのまま、まだお酒がちょっと入っている気がする缶を、床に叩きつける。がしゃん、という音がして、私は目をつぶる。
「オフショルダーは、あたしが着なくなったら、真織が着るの! だからお前が気にする必要ないんだよ!」
「んなこと言ったって、真織はあんなもの着ないだろう! あいつは地味なんだから!」
大声で喚き散らす両親。このマンションやマンションの近くに同じ学校の生徒が住んでいなくて、つくづく良かったと思う。
それにしてもお父さん、自分の娘が今目の前にいるのに、地味って何ですかい。
そう突っ込む気力も、既に失せていた。
この人達は、私が帰ってきていることを知っていて。
それでも、自分達の世界に入り浸っているんだ。
木製のドアを開けると、そこには私の部屋が広がっていた。中に入って、両親の怒号を遮断するかのようにドアをばたんと閉める。
学校に持っていく用のリュックを棚に置いて、私は自室にこもる。
小学校の頃、自分の部屋を持たされた。そして、そこに私の色んなものを置いている。
畳んであった自分の布団を敷いて、そこに寝転がる。制服を脱ぐのも忘れて。
さっきの体育での出来事が脳裏に浮かんで、何故だか無性に泣きたくなった。今日、ゴムを買ってきてもよいかと聞いてこようか。お小遣いをもらっていないから、お父さんかお母さんに頼まなくてはいけない。
お母さんはショートカットだから、髪を結ぶ必要がない。私も今まで一度も結んだことがないから、ゴムなんて、この家にはないと思う。だから今日買おうと思うのに、お父さんとお母さんが運悪く一緒にいるから、喧嘩に発展してしまう。
いつだってそうだ。
お父さんとお母さんは、顔を合わせれば喧嘩ばかり。
好きで結婚したくせに、好きで一緒にいるくせに、そのままずっと愛していることも、自分の気持ちを偽ることも、私に対する気遣いも、自分の気持ちを抑えつけることも、出来ないままで。
知らない間に大人になってしまったようだ。心もまだ、本当は幼かったりして。
喧嘩を止めようとしたって、無駄。そんなこと、とっくのとうに分かり切っていることだから、何も言えることはなかった。
意を決して、立ち上がる。
木製のドアに手をかけようとして、私はふと考える。
あの人達にとって、今私はいないも同然だ。いきなり話しかけて、また変に思われたら大変だ。
「いっか……」
勉強机の隅っこに置いてある貯金箱に手をかける。地域のお祭りに、家族三人で遊びに行ったときにもらったお小遣いのときの残りが、確か一万円ぐらい残っていたはず。
あの時は、顔を合わせれば、毎日笑い合っていたはずなのに……。
ふと、小さかった頃の思い出を掘り返してみては、また暗い気分に浸ってしまう。
そんな自分が、過去から抜け出せない弱い奴なんだってことを、充分に自覚する。
頑丈な貯金箱は中々あかない。爪でひっかこうにも、どうにもはずせそうではずせないのが、貯金箱の嫌みなところなのだ。
「いたっ……」
爪に思いの外深く食い込んでしまったらしく、私は小さな悲鳴を上げた。
しょうがない。ここはハサミの刃を使って開けようか。そう思い立ち、勉強机に置かれているペン立てからハサミを取り出す。
小学校の頃からいたけれど、中学校になってから、筆箱の中にコンパクトなハサミを入れるようになった人が増えた。
私はコンパクトなハサミを持っていなかったから、今こうしてかなり大きめのハサミを使っている。だけど筆箱に入らなくて、たまに隣の席の男子に貸してもらっている。その男子も、私のことをあまり良くは思っていないだろう。
「よし、開いた……」
貯金箱を人差し指で漁って、百円玉を取り出す。そこからまた十円を取り出す。
うん、これで大丈夫だよね……。
いまどき、百円ショップでゴムぐらい売っているよね。そう思って、またドアに手をかける。
「もういいわ。お前と話してると、無駄に疲れる。酒買ってくる」
「買ってこい。ついでに俺のビールも頼む」
「はぁ!? んなの自分で買ってこいよ!」
「誰だよ、俺が長年使ってたシャーペンゴミに出した奴は!」
喧嘩が収まったと思ったら、またぶり返したらしい。激しい怒鳴り声が、ドアを通しても伝わってくる。
もう、分かり切っていたはずなのに。
両親の仲が悪いのはしょうがないって、諦めていたはずなのに。
なのにどうして、涙が出てくるんだろう。