第41話 重圧にすり減る心
机の上に地図が広げられている。北部地域、ダーボン城近くの高台に位置する王国の旧居住地。その上に、いくつかの駒が置かれていた。
一際目立つ黒いそれは、つかず離れず、まるで縄張りを見張るかのように居住地を闊歩している。シルクは、そう聞いていた。
(煌眼獣の動きを制限したい)
開けた場所では、煌眼獣の動きが予想できない。どうにかして、狭い戦場へと誘い込むすべは無いか。赤い旗のついた駒を動かそうとして、手が止まった。
「ん」
シルクは小さく首を振った。駒を手にした瞬間、その駒にミィナの血に濡れた顔が思い浮かんだのだ。その想像を振り払う。
気づけば、手のひらに汗がにじんでいた。
(少し、根を詰めすぎたか)
頭が、ずっしりと重い。
時間が無いのは、確かだ。こうしている今も、屍兵との死闘は続いている。この城にも、近場の戦場から負傷兵が次々と運び込まれていると聞く。
この状態で、煌眼獣まで動き出したりしたら。北部は地獄と化すだろう。
(先手を打てる機を逃してはいけない)
思えば、思うほど頭が回らなくなっていく。これでは、自分に託してくれた者の思いを裏切ることになる。
ふと、戦友の顔が思い浮かんだ。おそらく、シルクがどの策をとったとしても、重圧を背負わせる相手。しかし、その圧を託せる相手の顔を。
「……相談してみるか」
シルクは部屋の扉を開けて、外へ出た。
「む?」
人を探している途中で、気になる人影を見かけた。視界の奥の方、ふらふらと揺れる白い影。
「マリア?」
シルクはいったん人捜しを中断して、彼女の元へと向かった。
マリアの足取りは、重い。距離があったが、シルクは難なく近寄ることができた。
彼女が星神教会の僧侶であることを示す白い衣。その裾が、朱く染まっていた。マリアのものではない。おそらく、彼女が治療した負傷兵のもの。
シルクは唇をかむ。意を決して、マリアに接近した。
「マリア」
「あっ、兄様」
シルクの声に振り返るマリア。彼女は笑おうとしていた。しかし、笑えていなかった。口は半開きで、目の焦点が合っていない。シルクを見ているようで見ていなかった。
瞬時、シルクは悟った。彼女の状態が、手に取るように分かってしまった。
「マリア。僕の部屋に来て。話がある」
ここで話す内容では無い。シルクの紫の目に、マリアの動揺が映った。
「でも、救護室に戻らないと」
マリアがシルクから離れようとするのを、シルクは止めた。その、白くて、小さな手をつかんで。
「あっ」
マリアは、つながれた手を見て顔を赤らめた。
(よかった。戻ってきた)
彼女の愛らしい反応に、シルクは安堵の息を吐く。ふわふわとさまよっていた視線が、少しだけ光を取り戻す。
「責任感の強い君が自分から持ち場を離れるとは思えないから、他の者に追い出されたんでしょ。今戻っても同じことになるよ」
マリアは驚きで目を丸くする。ほぼ、シルクの言った通りだった。救護室で負傷兵の治癒に奔走していたら、その担当者から休憩を言い渡されたのだ。
まだ助けるべき人がいるから、と動こうとしないマリアは半ば強制的に追い出された。そして、ゆく当てもなく、ふらふらとしていたのだ。
「じゃあ、おいで」
シルクはそのまま、彼女の手を引っ張って自室へと連れて行く。何事か、と通りかかる人が見てくる。マリアは少し気恥ずかしい。
ただ、シルクの手から伝わってくる熱を感じると、それも気にならなくなった。
「はい、これ」
「ありがとうございます」
飲み物を手渡され、マリアは口もつけずにその液体の表面を見つめていた。そのまま、マリアは何も語らず固まってしまう。
シルクは、彼女の前に座ると、小さく息を吐いてから尋ねた。
「マリア。神聖魔法、どれだけ使った?」
シルクの指摘に、びくっと体を震わせるマリア。シルクが察したのは、彼女の精神状態だった。
神聖魔法は神降ろしと称される極度の集中状態が必要である。しかし、だからこそ、使い続けると精神をすり減らす。今もマリアの視線は時々宙をさまよっている。明らかに、心が摩耗した状態だとシルクは判断した。
「か、数えていません」
怯えながら、マリアは答える。その姿は、昔、自室を抜け出して行方不明になった後に発見された幼い頃の彼女に似ていた。
シルクは苦笑いを浮かべる。こんな状況なのに、少しだけ心が温かくなった。
「責めるつもりはないよ。それだけ、皆のために働いてくれたんだから。感謝している」
実際、シルクの耳にもマリアの奮闘ぶりは聞こえてきている。マリアがいなければ助からなかった、と恩義を感じた一部の兵が彼女の信奉者にまでなっていると。
シルクの笑顔を見ていたマリアは、うつむいた。彼女の小さな体が、もっと小さく見える。そして、その肩が震え出した。
「違うんです」
その紫の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。声が時折詰まりながらも、マリアは自信の思いを吐露していく。
「私、兄様に褒められるような仕事、できていない。私が、力不足だったから、助けられなかった。もっと、私にできたはずなのに」
マリアの脳裏に浮かぶのは、力尽き、落ちる腕。最期の時まで力を振り絞った。それでも、死の運命が決定している相手を救うことはできなかった。
最後に感謝の言葉をマリアに残しても、彼女はそれを素直に受け取れなかった。マリアの信念は、それを報酬として受け取ることを許さなかった。
そのあとは、声にならない嗚咽がマリアから漏れるだけ。言葉にできないほどの後悔と無力感が、マリアを襲っていた。
(ああ、確かに似ている)
――どう考えても、おまえだろ。
その姿を見て、アゼルの言葉をシルクは思い出していた。あまりにも頑固なマリアを見て、誰に似たのだとこぼしたシルクへ、アゼルが口に出した辛辣な評価だった。
「僕も同じさ。僕らは、きっと取りこぼすことができないんだよね」
「えっ」
唐突なシルクの言葉に、マリアは顔をあげた。
「僕もさ、いくら言われても諦めきれないんだよ。この犠牲は必要だった、そう言われても納得できない」
そんなシルクにアゼルは言った。救えない命まで勘定にいれると潰れるぞ、と忠告した。それを素直に聞けないくらいには、自分はかたくなであると自覚している。
彼の理想、皆が幸せである世界。その皆に、入れることができなかった相手のことを思い、いつも心を痛めていた。
確かに、その重さで潰れそうになったときもある。動けなくなる日もあった。しかし、今はこう思っている。
「忘れなければ、いいんだ」
シルクはまっすぐに、マリアを見つめて、強い口調で言い放った。
マリアの揺れる目に、淡い光が宿る。まだ頼りないそれは、微かに、しかし確かにそこにあった。