第38話 衰えぬ野心
「ああ、それなら」
白い髪の少年は、屈託のない笑顔でそう言った。
「ボクなら、あなたの助けになれますよ」
話は、少し前に遡る。
「くそっ、いったい、なぜ私がこんな目に」
かつて、この北部地区を実質支配していた軍の指揮官、オットマー。宿のないものが集まる貧民街に彼はいた。壁に寄りかかり、なけなしの金で買ってきた酒をあおってきた。
まずい。しかし、今はこんなものでなければ酔えない。現実から逃避できない。
敵に攻め込まれる前にダーボン城から脱出し、それからも方々を逃げ回った。家はすでに革命軍の監視下にあった。残した家族に会うこともできない。とはいえ、情愛などほとんど残っていない相手ではあるが。
全てを、仕事に注いできた。もちろん、褒められた仕事では無いかもしれない。しかし、オットマー自身は必死にしがみついてきたのだ。少しずつではあるが、着実に積み上げてきた。
それを最後はあっけなく。全てを失って、ここにいる。こんな惨めな思いをするくらいなら、死んだ方がましかもしれない。
「くそっ、私を誰だと思っている」
しかし、金がつきたとしても残っている、彼のなけなしの自尊心は自ら命を絶つことを是としなかった。なんとか、やり返してやらなければ気がすまない。
オットマーの、そんな濁った輝きを放つ瞳を、じっと見ている朱い瞳。ゆらりとその奥にある暗い炎が揺れた。
「こんにちは」
声をかけられた瞬間、オットマーはびくりと体を震わせた。ここに至るまでにも、何度も革命軍所属らしき兵士に追われつづけている。この酔った体では逃げ切れない。ここまでか。
そんな覚悟をしているオットマーに、白い髪をした少年は微笑みかけた。
「ああ、大丈夫ですよ。オットマーさん。ボクはあなたを知っていて、それでいて、ただお話をしたいだけなんですから」
「なんだと?」
そう言われても、オットマーは警戒を解かない。得体の知れない子どもだ。オットマーは精一杯の力でにらみつける。
少年はそんな彼の視線を軽く受け流す。意に介さず、話を続ける。
「ここは、罪人が流れ着く場所。生き抜くのに精一杯。誰も他人の素性なんか気にする暇はないんです」
「おまえもか」
「さぁ? どうでしょう」
くすくす、と少年は笑った。時折、見た目の年齢通りの子供っぽさを見せる。しかし、すぐに余裕のある、大人の表情に戻った。
「ボク達にとっては、革命だとか関係ないんです。弱い立場の者のために、なんて口だけです。結局、権力が強い者が退いたあとに武力が強い者が立つだけなんですから。本当の弱者は置いてけぼり。誰も見てくれない」
その権力者側にいたオットマーは何も言うことはできない。
「ああ、でもあの若い士官はうまいことやりましたよねー。自分の出身を高らかに公言して、それを自分たちと同じ位置まで落ちることを宣言する。ああ、あれはやられますよ。確か名前は……」
にやりと、少年は笑った。
「シルク・アルビス、でしたっけ?」
シルク、という単語が聞こえてオットマーの眉がピクリと動いた。
「そうだ、シルクだ」
オットマーが口を開く。そんな様子を、少年はにやけ顔で見下ろしている。
「あいつは私のものだった。あいつが、変な考えを起こさなければ私はもっと出世できた。こんなところにいる人間ではない。私は、こんなところにいていい人間ではない」
壊れた仕掛けのように、オットマーはぶつぶつと呟いている。彼の暗い感情が膨れ上がっている。
そんな様子を見て、少年はくすりと笑った。
「ああ、よかった」
軽い声に、憎々しい視線を向けるオットマー。そこには薄ら笑いの張り付いた少年の顔がある。その笑みは、全く崩れない。
「あなたの野心は、何も衰えていない。それでこそ、オットマー・ストラトフだ。ボクの見込み通り」
何も無くなった。無くなったからこそ、残っているのは欲望だけ。そんなオットマーに対して真正面から、今度は慈愛の満ちた笑みを向ける少年。
その目が、朱く、怪しく輝いた。
引き込まれる。その目を見ていると、何も考えられなくなる。
「しかし、野心だけあってもどうすれば」
もはや、自分の意思ではない。操られるように、少年のほしがっている言葉を口にする。
「ああ、それなら」
少年は屈託のない笑顔で、こう言った。
「ボクなら、あなたの助けになれますよ」
彼は座っているオットマーに手を差し出す。吸い込まれるように、手を伸ばす。少年はその手をつかむと、ぐいっと引き上げた。
驚くほど軽く、オットマーは立ち上がる。予想以上に力強い。しかし、オットマーはすでにそこを気にする精神状態ではなかった。
「ボクも嫌いなんですよ。シルクみたいな人間は」
オットマーの憎悪に同調し、彼は笑う。オットマーの心をかき乱し、シルクへの憎しみを増加させていく。
気づけば、オットマーは復讐という歪んだ炎にとりつかれていた。
「ああ、でも」
少年は悪戯っぽく笑う。彼の瞳に、怪しい炎が浮かぶ。
「多少の犠牲は払ってもらう必要がありますけどね」
「ふん」
少年の忠告にオットマーは鼻で笑う。オットマーが犠牲にできるものなど、何かあるのだろうか。あったとしても、そんなものでシルクへやり返すことができるなら本望だ。
「……今更、何を惜しむ?」
「すばらしい」
少年は満足げに拍手をした。
飛び込んだ革命戦争。そのゴールは未だに霞にかかって見えず。それでも、北部の平定を目指すシルク達。新たな仲間として、マリアが加わり彼らの行く末は順調そうに見えた。しかし、シルクは知らなかった。
この地を、悪しき心で満たそうとしているものの存在を。
安寧は許されない。シルクは再び、大きな戦渦に巻き込まれることになるのであった。