神の子
朝。山の向こうから太陽が顔を出し、辺りで鳥が鳴き声をあげ始める。
彼は朝の気配を察し、飛び起きた。硬い地面にそのまま寝ていたためか若干体が痛いが、それを気に死していられるほどの余裕はない。そばに転がっている水筒と袋を取り、袋の中に入っているライ麦パンの欠片を口に入れ、水筒の水で流し込む。
あわただしく朝食を終えた彼は、袋を服のポケットに突っ込み、立ち上がる。日が差し込んでくる方向で方角を確認し、森の北の方へと走り始めた。
おそらく彼を追ってくる者たちは、朝日とともに、彼を捕まえようと近づいてきているはずだ。昨日は日が暮れた後も森の中を歩いたので、少しは距離を稼げたはずだが、それでも全く油断は出来ない。追ってくる者達は彼よりもずっと体が大きく、狼のごとく狡猾で、蛇をも音を上げるほどに執念深いから。
森の中は静かだった。聞こえてくるのは、彼自身の激しい息づかいと落ち葉に埋もれた地面を踏みしめる音だけ。むせるような薄緑色の空気が、息を吸うたびに肺に流れ込んでくる。ちりちりと背中に痛みが走る。憎悪の心が、彼へと突き刺ささっていた。
彼は見えない追っ手への恐怖に怯えながら、必死になって北へと走る。太陽は既に南を少し過ぎている。後半分。彼は自分にそう言い聞かせる。そうでもしなければ、恐ろしさに気がどうにかしてしまいそうだったから。追ってくる者達の気配は、確実に近づいてきている。
しばらくは無我夢中で走っていた。しかし彼は突然、ふと正気を取り戻す。恐怖と焦燥、そしてもう何日になるかもわからない逃亡の疲労から、彼の走りへの集中力が一瞬切れてしまう。がつっ、と足が木の根に引っかかった。そのまま足を取られ、顔から地面に倒れこんでしまう。鼻と胸のあたりに鈍い痛みが走る。声にならない空気が口から漏れ出してしまう。咳き込みながらも彼は懸命に酸素を求めて呼吸をする。
速く立ち上がらなければならない。彼はそう理性から彼自身に言い聞かせる。けれど、走りに走って疲れきった足も、木の枝で大量にかすり傷を作った両腕も、彼の思うようには動いてくれない。そもそも、彼には既に立ち上がろうという気力がほとんど残ってはいなかった。
大体、どうして自分がこんな目にあわなければならないのだろう。自分にはこんな風に追いかけられる理由も、死の恐怖に怯えなければならない理由も、全くないはずではないか。なぜ、どうして。疑問が彼の頭の中をぐるぐる回り、彼の思考はその渦の中に飲まれていった。
僕はある村の長の息子として生まれた。暖かい母の体温と、父の優しげな顔、それが最初の記憶だ。父が僕を村のみんなに見せた時、誰かが僕のことを神の子だと言った。それから僕はその村の神になった。父と母は司祭となった。
神として祭り上げられた僕は、田の豊穣を願われ、狩人の安全を祈られ、村の幸福を望まれた。そのたびに僕は、父と母がお膳立てしたそれらしい儀式をこなした。そんな日々を大体十年続けた。窮屈ではあるが、それなりに幸福な日々だった。
僕の幸福が壊れたのが、今からおよそ半年ほど前だろうか。最初にまず、作物が枯れ始めた。村の人々は僕に助けを求めた。僕が何も出来ないまま、次は家畜が死んでいった。飢えて死んでいく人も出てきた。そしてついに、僕の父を母が死んだ。他にも大勢の人が死んだ。奇妙な流行り病のようだった。
村の人々はその間ずっと、僕に祈りをささげていた。しかしなんの効果もなかった。当たり前だ。僕は別に神の子ではない。勝手に村の人たちが祭り上げた、ただの子供なのだから。なのに彼らは僕を許さなかった。僕は神の子ではなく悪魔の子だったのだと罵り始めた。そしてついに彼らは、僕を殺そうとしたのだ。僕はどうにか家にあったわずかな水と食料を持って、森に逃げた。
ふと、彼が意識を取り戻した。どれほどの間気絶をしていたのかわからない。しかし手足が自由に動かせるようなので、まだ捕まってはいないようだった。辺りを見回すと、既に日が落ちて暗くなっている。彼は体を起こし、息を吐き出し安堵した。追ってくる者達は、夜の森には入って来ない。村の掟でそう決められているから。
せめて風がしのげるところに行こうと、ぼろぼろの体に鞭を打って立ち上がる。幸い近くにちょうどいい虚をみつけた。彼はその中に入り、胎児のようにじっと身を丸め目をつむる。
孤独と恐怖をかかえて彼は今日も眠る。それは長い長い旅路の、つかの間の休息。




