【1】バラの花束は突然に・1
今日は世間一般で言うところのクリスマスイブ。
前々から予約をしていた店に彼女とふたりで訪れた。
窓外からは客室の窓の灯りをツリーに見立てた高層ホテルと東京の夜景がパノラマのように広がる。
席にはあらかじめ赤いバラの花束を用意しておいた。
彼にエスコートされた彼女は、窓からの風景に小さく感嘆の声を上げ、両手いっぱいのバラに瞳を輝かした。
彼女と会う時は欠かさず小さな花を贈っていた。けれど、ここまで大きなバラを花束にしたものは初めてだった。
些細なプレゼントでも本心から喜ぶ彼女を見て彼は思う、ふたりでクリスマスを過ごすのは初めてかもしれないと。
つきあい始めてもうすぐ3年。3年目の正直で、クリスマスディナーがやっと実現した。
去年も一昨年もこの時期は、都合がどうしてもつかなくて、イベントとしてのクリスマスは成立しなかった。
恋人同士でありながら、クリスマスというイベントを共に過ごせないなどありえない。
この3年の間、彼は日本と海外を往復し、彼女は日本で、それぞれのつとめや学業をおさめながらも着実にふたりの関係を温めあってきた。
インターネットを介してのメールやチャット、もちろん従来通り電話でも連絡はできる。話も、インターネットカメラを使えば、パラパラ動画並みではあるけれど顔を見ながらの会話だって可能だ。
でも、時々、彼女から小さな声で「会いたい」と言われると、自分も切なくなった。
飛行機の直行便で12時間ほど、すぐに会える距離ではないから。
今年はやっとクリスマス休暇の頃に時間がとれ、一時帰国できたわけだが、仕事に忙殺されて思うように時間がとれず、やっととれた再会の時もほんのわずか。明日、午前の便で任地に戻らなければならない。
短い日本での日々を可能な限り時間を取って会い、丸々一日時間が作れた今日は、朝からとりとめもないことを延々と、寒空の下で、カフェで、行く先々で話していた。
ふたりだけの時間を楽しめる関係ではまだない自分たち、食事が終わった後もいわゆる『お泊まり』はなしだ。彼女の親、特に父親がうるさいので、決められている門限時間を守るのが彼氏の役目と心得ている。
急ぐことはないさ、と彼は思う。
しかし、今日だけは、日本を発つ前にどうしても伝えたいことがある。
また、それとは別に、彼には別のことが心にひっかかっていた。
今まで、彼女とは一度も夜ごはんをまともに完食できたためしがない。
ファーストフードなら平気、牛丼店でのカウンターで急場しのぎのごはんでもまったく文句は言わないのに、改まった店には行きたがらない。
彼女は「ハンバーガーとか牛丼は味に期待してないから気にならないけど、その他のお店は……ちょっと……」と言うのだ。
予想に違わず、席について運ばれてきた前菜やスープを口にして、彼女は言った。
「おかあさんのごはんの方がいい」
またかよ。
毎度のことなので彼は仏頂面を隠さず彼女を見た。
ごめんね、と前置きをして、気まずそうに前の席に座る彼女は言った。
「不味いわけじゃないの、お店の雰囲気も、何もかも素敵だし、誘ってくれてうれしいし。でも……ごはんだけは別。おかあさんのごはんの方が美味しいの」
それは何度も聞いている。
実際、彼女の両親の親族でもある彼の恩師は言った、姪がそう言うのも無理はない、義姉の料理は天下一品だから、と。
「そんなに美味い?」
早くに母を亡くしていて、おふくろの味には郷愁を感じない彼は言う。
「うん、うちでは外食はあまりしない方だから、比較できないんだけど……でも、デパ地下とかの、へたなお総菜より数倍おいしいと思う」
「じゃ、今日はここを切り上げておかあさんの手料理を頂くというのはどうだ」
つい、彼は言う。
「それ、いいかも」
ぽん、と弾くように返ってくる答えに、彼は「え?」と瞠目した。
「聞いてみるね」
彼女は席を立ち、バッグから携帯電話を出しながらレストランの外へ出た。
おいおい、マジかよ。
今のは言葉の綾というやつだったんだけど……
内心の焦りをつとめて表に出さないように、彼はひとり残された席で所在なく座っていた。
ほどなく、彼女が頭を振り振り戻ってくる。
「あのね、おかあさん、いいって言ってた。いつでもどうぞ、って」
ぱちん、と携帯電話を閉じながら言った。
「でもね、きちんとお食事は頂いてきてからになさい、って。せっかくのお料理を粗末にするなんて、作ってくれた人にも、あなたにも失礼だ、って叱られた。だからね、ご馳走になります」
いただきます、と手を合わせながら、彼女は目の前のコース料理に手をつけた。
一見すると我が儘この上ないことを言っている彼女、普通の男なら、こちらのもてなしにケチをつけられたともとれることだから、怒っているはずだ。
けれど、彼にはちっともそんな気になれなかった。
多くを望まず、贅沢も言わず、同年代の女子なら言いがちな、あれが欲しい、これを買ってというような物欲に走ることは一切ないかわり、難点があるとしたら外食が苦手ということだけ。
いつもさびしい思いをさせている彼女の我が儘ならきいてやりたい。
自分にだけ見せる素の姿が愛しいと思えるのだから。
本来、しっとりと夜長を楽しむはずのクリスマスディナーを、店員をてんてこまいさせるペースで片っ端から片付け、寸分漏らさず平らげて、それでもたっぷり小二時間ほど食事を楽しんだふたりは、彼女の自宅がある方面へ向かうタクシーに乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
都立霊園が徒歩圏という、閑静な住宅街に贅沢な敷地を持つ家で。
もうそろそろ着くころかしら、と柱時計を見上げて、この家の家長の妻である尾上加奈江は思った。
ホントに誰に似たのかしら、とさっき電話をかけてきた娘を思ってため息をついた。
久方ぶりに帰国した彼氏とのせっかくのディナーだというのに、家でごはんを食べるから二人前作って、などと言い出すのだから。
これは、絶対、夫の影響だ。
彼は会合などで会席がある時も理由をつけて中座したりほとんど手をつけず折り詰めにして持って帰ったりしていた。
たまには食事作りから解放されたいのに、家族で外食したいと言うと、夫のみならず娘まで、決まって反対した。
豆に手を焼きすぎた自分の半生を反省してもかなり遅い。
今日は外せない宴席があるので、さすがに早じまいして帰ってくることはないだろうと高をくくっていたら、娘がいることを失念していた。
もてなしを受けておきながら、それをフイにしかねないことを言い出したのだから。
娘の方は、彼氏の今後の教育に期待することにしよう。
二度目のため息をついた時、玄関前に車が止まる音がする。
「帰ってきたみたいね」
まだ8時には届かない、おそろしく早い時間帯だ、困った客に、さぞかしレストランの皆さんは難儀したことだろう。
セッティングをした彼氏も。
関係各位に同情しながら、加奈江はよっこいしょと言いながら席を立った。