(8)
彼は、黄昏始めた南京路の通りをガラス窓越しに見下ろしていた。
街の灯が点り始めている。
眼下を東西に貫いている大通り、南京路。
紛う事無き、上海のメインストリート。日が落ちてからますます増えた人波から生じるさざめきが、ここまで聞こえて来るようだ。道往く彼らを照らすネオンは、四馬路に見るような淫靡なものではなく、あくまでも明るく眩い。
どの都市の街区にも、ランクと言うものがある。サッスーンを筆頭に、先施公司、新新公司と一流の企業がここに集まる。誰もが、いつかはここに自分の城を構えたいと夢を見て、この街で生きている。
修英は、この景色を手に入れたかったのだ。
この光の中に、君臨したかったのだ。
だが、自分はどうだ。
上海人が嫌いなのよ――
リーナの挑発だとわかっていても、その言葉が月陵の胸の中の何かに触れた。
紫闇が降り始める街を見下ろす月陵の胸に、寂莫感が染み出す。
自分は、果たして上海人と呼べるのか。
そう呼ぶには、母の血が濃すぎる。
上海の街を嫌い、この街の暮らしを嫌い、この街の人を呪いながら死んで行った母。その呪いの言葉を物心つく頃から聞かせ続けられて育った自分。
「我恨上海――」
母は自分の夢の中で、そう繰り返し呟いた。幼い息子を胸に抱きながら、何度も何度も息子の耳に囁いた。
そんな思い出のある街を、人は愛せるのだろうか。
「月陵」
呼ばれて、振り向く。
「僕らは食事に行こうと言ってるのだけど、君はどうするの。四馬路の店の方は?」
「ああ」
月陵は夢想を追い払いながら、自分を現実に引き戻す。
「僕は戻るよ。姐さん、あんたも一緒?」
咎めるようにリーナを見ると、リーナは長袍にコートを羽織りながら顔をしかめた。
「今日はオフをもらっていたでしょう。しっかりして頂戴」
そうだったかな。
月陵は頭を振った。
「じゃあ、先に行くよ?」
「ああ」
月陵は再び背を向け、窓の外に視線を移した。既に、空から降りる闇を跳ね返すかのような光の波が煌いている。
眩い。だが、これもまたイミテーションの光なのだ。この街がこんなにも眩く輝くのは、この街の闇が深すぎる故、それを照らす灯りが必要だからだ。
「我恨上海……」
月陵は一人呟いた。