(5)
「受け取って―」
車が走り出すと、女は一人に封筒を差し出した。
「林修英からのせめてものお詫びよ」
一人が不審そうな表情を女に向けてから封筒を開くと、中には米ドル札が厚みを持って重なっていた。治療費にしてはいかにも多額だ。
「こんなに受け取れない…」
「受け取ってもらわないと、わたしが困るわ」
「そう言われても、えーと」
「リーナでいいわ。リーナ・翁」
「リーナ。やっぱり受け取れない」
「強情なお坊っちゃんね。何なら、受け取れない分は叔父さんへの香典にでもして」
一人は驚いて、リーナの横顔を見詰めた。
「女だからと言って、わたしが何も知らないとは思わないで。彼らの知っている事は大抵わたしも知っているわ。それ以上もね――」
リーナは一人の視線を受けて、微笑む。
慰めるようなその優しい微笑に、一人はまた驚く。月陵や馬羽を前にした時の、男たちを撥ねつけるような態度とは全く違った。
「老周とは…… あなたの叔父さんとは顔なじみだったのよ」
「え?」
「と言っても、ただのお客よ。以前、公館馬路の近くに住んでいたわ。少しの間だけど。老周のお店にはよく行ったの。ほら、西洋ケーキ風の点心が評判良かったでしょ。わたしも二日に一度くらいはあれを食べに通ったわ」
「そうなんですか…」
「修英にも言ってないわ。彼と知り合う前の事だものね」
運転手がリーナの言葉を聞きとがめ、ルームミラーを覗く。リーナもちらりとその視線に硬い視線を返す。
「太太もいい人だったわ。優しくて。でも、気の弱い所が心配。一人で大丈夫かしら。あなたは上海にいつまで居る予定?」
「……わからない」
次の船便で帰る予定だった。だが、今となってはそんな気になれそうもない。
「そう。余計なお節介だけど、叔母さんに出来るだけついててあげて欲しいわ。お子さんがいらっしゃらなかったから」
「そうしたいと思います。でも、余計に心配させてしまいそうだ」
一人は自分の足に視線を落として呟いた。
「そうね――」
「叔父を殺した犯人は捕まるんでしょうか」
リーナは小さな溜息を吐いた。
「どうかしら…」
窓外には、ヨーロッパと見紛う瀟洒な街並が続いている。しゃれた洋装店やカフェやレストランが並び、その前を反日デモ隊が行進して行く。
「上海にはずっと憧れてました」
一人がその風景を目線で追うようにして呟くと、小首を傾げて、そう、とリーナが答える。
「今は?」
「どうかな……」
「私はこの街が好きな気持ちが半分、嫌いな気持ちが半分。希望が半分、失望が半分ってところかしら。でも、この街でしか出来ない事もあるわよ」
「何ですか」
「新しい世界を夢見る事かしら」
一人はリーナの横顔を見た。
「着いたわ」
リーナが目線で指した先に、そびえるようなホテルの建物が見えた。
美しい白亜の近代的なビル。ファサードには、頭に赤いターバンを巻いた屈強な印度人ガードマンが立っている。その回転ドアの向こうには、清潔で、安全で、街の喧騒が届かない、租界の中の租界が待っている。だが。
突然、一人は自分の帰る場所がそこではない事を悟った。
一人はリーナを見て、言った。
「すみませんが、このまま城内まで行ってもらえませんか。ホテルには帰りません―」