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上海1932 恋恋不舎(中)  作者: 田中しう
もうひとつの顔
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(5)

「受け取って―」

 車が走り出すと、女は一人に封筒を差し出した。

「林修英からのせめてものお詫びよ」

 一人が不審そうな表情を女に向けてから封筒を開くと、中には米ドル札が厚みを持って重なっていた。治療費にしてはいかにも多額だ。

「こんなに受け取れない…」

「受け取ってもらわないと、わたしが困るわ」

「そう言われても、えーと」

「リーナでいいわ。リーナ・ウォン

「リーナ。やっぱり受け取れない」

「強情なお坊っちゃんね。何なら、受け取れない分は叔父さんへの香典にでもして」

 一人は驚いて、リーナの横顔を見詰めた。

「女だからと言って、わたしが何も知らないとは思わないで。彼らの知っている事は大抵わたしも知っているわ。それ以上もね――」

 リーナは一人の視線を受けて、微笑む。


 慰めるようなその優しい微笑に、一人はまた驚く。月陵や馬羽を前にした時の、男たちを撥ねつけるような態度とは全く違った。

老周ラオヂョウとは…… あなたの叔父さんとは顔なじみだったのよ」

「え?」

「と言っても、ただのお客よ。以前、公館馬路の近くに住んでいたわ。少しの間だけど。老周のお店にはよく行ったの。ほら、西洋ケーキ風の点心が評判良かったでしょ。わたしも二日に一度くらいはあれを食べに通ったわ」

「そうなんですか…」

「修英にも言ってないわ。彼と知り合う前の事だものね」

 運転手がリーナの言葉を聞きとがめ、ルームミラーを覗く。リーナもちらりとその視線に硬い視線を返す。

太太おくさんもいい人だったわ。優しくて。でも、気の弱い所が心配。一人で大丈夫かしら。あなたは上海にいつまで居る予定?」

「……わからない」

 次の船便で帰る予定だった。だが、今となってはそんな気になれそうもない。

「そう。余計なお節介だけど、叔母さんに出来るだけついててあげて欲しいわ。お子さんがいらっしゃらなかったから」

「そうしたいと思います。でも、余計に心配させてしまいそうだ」

 一人は自分の足に視線を落として呟いた。

「そうね――」

「叔父を殺した犯人は捕まるんでしょうか」

 リーナは小さな溜息を吐いた。

「どうかしら…」


 窓外には、ヨーロッパと見紛う瀟洒な街並が続いている。しゃれた洋装店やカフェやレストランが並び、その前を反日デモ隊が行進して行く。

「上海にはずっと憧れてました」

 一人がその風景を目線で追うようにして呟くと、小首を傾げて、そう、とリーナが答える。

「今は?」

「どうかな……」

「私はこの街が好きな気持ちが半分、嫌いな気持ちが半分。希望が半分、失望が半分ってところかしら。でも、この街でしか出来ない事もあるわよ」

「何ですか」

「新しい世界を夢見る事かしら」

 一人はリーナの横顔を見た。

「着いたわ」

 リーナが目線で指した先に、そびえるようなホテルの建物が見えた。

 美しい白亜の近代的なビル。ファサードには、頭に赤いターバンを巻いた屈強な印度人ガードマンが立っている。その回転ドアの向こうには、清潔で、安全で、街の喧騒が届かない、租界の中の租界が待っている。だが。

 突然、一人は自分の帰る場所がそこではない事を悟った。

 一人はリーナを見て、言った。

「すみませんが、このまま城内まで行ってもらえませんか。ホテルには帰りません―」


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