(2)
ドアを押すと、正面のデスクに不機嫌そうな修英が居た。煙草を持った方の手で顎を押さえ、ジロリと大きな目で月陵を睨む。
月陵は黙って後ろ手でドアを閉じた。
修英の指先で、煙草の灰が伸びる。面倒くさそうにその灰を落すと、もう一口吸ってから、煙草を灰皿の中で押しつぶした。
こう言う時は、決して自分から口を開いてはいけない。
月陵はその鉄則を守った。
修英は紫檀のデスクをコツコツと指先で何度か叩いてから、言った。
「何故、周公命の葬儀に手の者を送り込んだ」
やはりその事か。
月陵は自分の靴先に置いていた視線を、ゆっくりと上げた。
「あの男が偶然あの場所に居合わせたのかどうかが気になるんです」
「何故そんな事が気になる。張殺しはお前には関係無い。俺にもな」
「――」
「周公命がどんな理由があってあの場所で殺されていたのだとしても、俺にも俺の組織にも一切関係がない」
そう言い切ると、落胆の表情を見せて新しい煙草に火を点けた。
「俺も安く見られたものだな」
怒っているのだ。
月陵は再び目を伏せた。
沈黙が二人の間に流れる。
いつもの緊張感とは違う。それどころか、月陵に感じるのは手を伸ばしても埋められない修英との距離感。以前にはそんなものを感じた事が無かった。彼が何を望んでいるのか、何をしようとしているのか、月陵に何を求めているのか、手に取るようにわかった。
だが、近頃ではそれがわからない――
「では、誰が張を殺ったのです? 黄大人? 張のシマを一旦あなたに渡して、その後にあなたを陥れれば、彼は一気に張とあなたのシマを掌握出来る」
「お前がそんな事を考える必要はない」
修英は遮るように言い放った。
月陵は軽いショックを受けて、目を見開いた。
「……以前は僕の拙い考えにも耳を傾けてくれた」
月陵は思わず呟く。
修英は頭を振る。
「お前は南京路の店の事だけ考えていればいい」
「何 故? あなたは僕に目隠しするつもりですか? 南京路の店? そんなもの、いっそリーナにでもやらせればいい。彼女の方がよっぽどうまくやれそうだ。あな たはまさか僕が林の兄たちに仲間入りしたがってるとでも思ってるんじゃないでしょうね。それとも、僕が邪魔ですか?」
「やめろ」
修英は平手でデスクを叩く。
はっとして月陵は口をつぐむ。
修英の眉が不機嫌そうに寄せられていた。
ゆっくりとチェアの背もたれに体を預け、修英は少し疲れた表情で月陵を見た。
「小弟」
久しぶりに、修英は月陵にそう呼びかけた。
「言った筈だ。お前にはお前の仕事をしてもらうと。不服か? 女にでも出来る仕事だと? それとも、そんなに殺し合いがしたいか?」
月陵は少し落ち着きを取り戻して、視線を返す。
「それが、いずれ自分の歩く道だと、とうの昔に覚悟を決めていた」
その目に重い意志が宿っている。
死んだ母の体を前にして、泣く事も忘れてぼんやりと佇む少年――
辺り一面に血の匂いが立ち込めていた。十八歳の修英が、少年の名を呼んで抱き上げる。
「大丈夫だ―」
だが、耳元で安心させるように囁く彼の体からもまた、微かに血の匂いがした。
そう。あの日から。
自分の体には血の匂いが染み付いている。
今更それを拭えと言うのか。日の光の下で歩いて行けと――。
月陵は反抗的な視線を、修英に向ける。
修英は軽く溜息を吐いた。
「いいだろう。その話はまた別の機会に回そう。とにかく、張の事も周公命の事も忘れろ。一切手を出すな。命令だ」
「……知道了」
月陵は仕方なしにそう答えると、少し唇を噛んだ。
「周と言えば、あの少年、あれも様子を見て動けそうなら明日にでも帰せ」
「好的」
「それから、タイが歪んでいる。直せ」
最後は苦笑混じりに言うと、修英は右手を挙げて下がるように命じた。