聖走
聖剛は喉の痰を切るような音をさせ、風を裂く。走る。走る。走る――彼は冬の寒い公園を横に睥睨し、走る。汗は出ていない。走る。走る。エナメルを塗ったような空から雪が降っている。粉雪である。さらさらとした粉雪が降っている。聖剛は走る。雪はアスファルトに勝手に落下し、勝手に溶ける。ゆるく溶ける。水になる。すぐに消える。積もることはない。落莫。それでも、だからこそ聖剛は走る。ただ、それだけの風景。電柱が一瞬で過ぎ去る。消える。聖剛は見てすらいない。
クリスマスなんて関係ねえ――と聖剛は思う。天使的な誘惑が世に蔓延っている――とも思う。……彼は頽廃の思想を持っていた。虚無主義者であった。彼の諦念のきっかけである幼少期の記述は書くまでもないが、彼は世俗というものを嫌悪していたのだった。無惨な世の中を死んだ目で見ていた。政治や恋愛など興味はなかった。生きるために生きていた。死ぬことは怖くなかった。(すべては虚飾だ)とひとりごちる。
走る聖剛の周りではキラキラと電飾が発光していた。赤と白のシンボルだけが街中を歩く。そう――今日は聖夜である。12月24日の夜である。彼のもっとも嫌いな日であった。彼は走っている。徒労感はまったくない。月は見えない。星も見えない。雪は降っている。
どうして彼が走っているかを説明しよう。影が一抹の寂しい彼を襲ったのは数分前のことである。唯一の友が死んだのだ。芥川未映子。彼女は聖剛と同じく17歳であった。彼女との出会いは特に記述するまでもない。特に目立った邂逅ではない。ただの友達だ。それだけ説明すればよい。この物語に変化はない。
「セイゴウ」彼女はいつも艶美な声で彼を呼んだ。「あなたって綺麗ね」彼女は言う。彼は最初それに眉を顰めていた。語調を強めて反抗の声を放つものだった。しかし、彼はそれが楽しいものとなっていく。その声を注意深く聞くと上質の練り絹のように柔らかくほぐれていくのだ。聖剛は甘い声に虜となった。単純にエロティックな意味ではない。友人を超え、人間的な愛、これも恋愛的な意味では決してない。人間として最低限必要な愛だった。信念を持ち、他人の俗悪を否定する彼は、ただ一人の人間として未映子を「愛していた」のである。
――しかし、彼女の声はもう聞こえない。彼女は死んだ。突然トラックに轢かれた……というわけではない。聖剛は前もってから知っていた。彼女は若年性の死に至る病であった。そう、聖剛が彼女と出会った場所は病院である。
芥川未映子はいま、さっき死んだ。――死んだのだ。
(聖夜に死んだ――と彼女らしい)と聖剛は一人声にならない声を呟いた。彼は知っていた。近いうちに彼女が死ぬことを。死は仕方ない。病気だ。と納得していた。しかし、その意識はなかなか理解の中に収斂されない。心のどこかに引っ掛かりを感じていた。そして、彼女は今日、死んだ。享年17歳。彼はつくづく思う、若いと。自分と同じ年齢だ。自分はぴんぴんに生きている。現にいま走っているではないか!
彼は走るのをやめ、携帯電話を開き、メールを確認する。文字の一つも変わらないけれど、彼は碁石のように並んだ小さな文字を読む。<未映子が死んだ>。小さな文字を読む。(はあ、はあ、はあ)息が途切れながら未映子の母親から送られたメールを三度見る。雪が液晶にあたり水の塊となる。はっ! 聖剛はふと自らの隣の空間に気配を感じる。
その横を、男女のペアが通り過ぎる。その女は男に言う。
「ラブホテルにでも行こうよ」男は「うん」と肯定した。聖剛は舌打ちした。不愉快だ、という心の残り滓は残る。怒りが心を満たす。が、そのカップルに喧嘩を売る暇などなかった。――はやく、病院にいかなければ。頭をすぐに切り替え無愛想に再び走る準備に取り掛かる。雪が雨に変わった。
聖剛は走る。その理由。それは彼女の死体を見るために、その聖なる身体を見るために。汚れのないその綺麗な身体を――そして、まだ飛び立っていないだろう、彼女の魂を掬い、悼むために。それが彼が走る理由だ。だから彼は走る。この聖なる夜に走るのだ。この行いなど、誰も振り向きもしない。むしろ、奇異な目で聖剛を見る。このような聖なる夜に何を走っているのだろう? と誰何する者たち。もしくは邪推する。そんな民衆を聖剛は穢れた雰囲気で感じる。間違った知識で聖なる夜を過ごす。……聖とはなんであろうか。世間なんて閉塞している。
彼は走る。聖なる夜に走る。ただ友人の死体を見るために走る。聖剛は病院まで走る。未映子の死体を撤去されるまでが彼の制限時間だ。聖なる――夜――に走――る。卒倒しそうな眩惑に、もしくは白い雲に見えない月に近い闇に犯されそうな幻に触れながらも走る。病院は近い。
五分後……白亜の病院に到着した。彼女の病室に駆け込む聖剛は、見た。目的を果たした。彼女の家族に許可を取り、見た。未映子の聖性の身体を。後光を発しているように感じる。白い病室に、真白い半裸体の美しい女性。「醜さ」という概念が失われたような感覚。罪も罰も失われ、そこに存在するものは美のトークンである。……ただ、そこにあるのはシンボルだけである。実質的な美などない、死という呪われし現象には。精彩を欠いた表情の女の子。顔だけ見ると汚穢の塊にすぎなかった。顔が紫色に変色しただけではなく、ガリガリに痩せたその顔は骸骨を窺わせる。よく考えれば奇妙な死体ではある。顔以外は神に見染められたかのように美麗であり、その顔はというと死神に魅入られた……いや、死神の想像そのものの貌といってもいいほどの崩壊した顔である。
聖剛は、その顔を、見て、絶望しない。裏切られた、とは思わない。彼の思う通りの顔であった。未映子の顔は爛れても綺麗だ、と思う。――これこそ彼女の聖性だ。無限の繭に包まれた彼女。改竄されない彼女の身体。異端扱いされても聖剛は彼女を信じた。(これは堕落ではない。零落だ)。彼は、その誰も近づこうもしない毀れた死体に抱きついた。
そして、彼は泣いた。叫んだ。悼んだ。彼は走るかわりに泣いた。叫んだ。悼んだ。嗚咽混じりに泣く。大量の涙を眼窩から流す。貪るように泣く。これまでかというほど泣く。神の偽善か。それとも天使の贖罪か。涙の雪崩。意識の奔流。瀟洒な球体。水。液体。透明なテロル。静謐な病室には、――死体を「人」と数えるかどうかは知らないが――ただ二人しかいない。男の子と女の子。これだけで、世界は完成すると言わんばかりの、聖なる空間であった。
窓の外では白い雪が森々と降っていた。
【了】