世界のTOYOTA社長
浮洲西高臨時コーチ就任の新聞記事は豊田のとある豪邸でも読まれていた。
「あらっお父さん。ちょっとちょっと。この新聞記事見て。西高の浮洲さんが出ていますよ。ねえわかる?もしかして浮洲さんて(トヨタの)野球部にいらっした方じゃあないかしら。お写真が似ているし年齢もたぶんそうじゃあないかなと思えますわ」
お父さんと呼ばれる細身の紳士は朝食のサラダ皿をテーブルに置きどれどれと新聞を手にする。
初老の紳士はメガネを直しながら紙面に目をやる。
「うーん確かに野球部にいた浮洲さんだ。どれどれ記事の内容はなんだい西高のコーチ?」
朝の出社前慌ただしくしていた時の話だった。
紳士は朝食を済ませ身支度をする。同居する孫の顔を見てからお迎えのハイヤーにスルリと乗り込む。黒塗りセンチェリーは豊田市トヨタ町の本社工場に向かった。
本社に着くと女子従業員から挨拶を受け社長室に入る。おはようございますと秘書課一同より挨拶を受ける。社長第一秘書からは一日のスケジュール表を受取り日程をチェック。
長い社長の一日の始まりだった。渡辺社長は椅子に座り机の書類に目を通す。まあいずれも問題はないであろうと判断。次にパソコンを立ち上げてメールのチェックだ。大体は秘書が管理してくれるから苦労はないがそれでも午前中いっぱい時間を取られてしまう。
「社長コーヒーが入りました」
秘書の運んだコーヒーを飲み提出書類から見ていく。書類から解放されたらパソコンを開きメールチェックに移る。メールの山の中に"西高"という文字が見えると、
「あっ、そうかそうだったな。西高に浮洲さんがコーチ就任したんだったなあ」
浮洲を思い出していく。
画面を中日新聞HPに開示。地方記事欄に浮洲のことが掲載されていた。
渡辺は記事をどれどれと読む。ふう、一息入れてコーヒーを飲む。
それから深く椅子に座りなおし天井を眺める。
「浮洲さんか。懐かしい名前だな。あれは何年前になるのだろうか」
椅子に座る渡辺はトヨタ自動車の社長室がかつて所属をした野球部のグラウンドに思えてきた。昔が蘇っていたのだ。渡辺は内線で秘書を呼び出し、
「すまないが(トヨタ自動車)野球部の資料を持ってきてくれないか。見たいのは昭和40年台の所属社員とコーチ名簿。実は僕もプレーをしていたんだ。それと、コーヒーのお代わりを頼もうかな。うん?(コーヒの飲み過ぎは)体に悪い…あらあら(こぶ茶にしますか?)まっ、それでいいよ」
すぐに秘書は野球部のファイルを持参し社長室に入ってくる。また子細なデータは野球部HPを御覧くださいとURLを指定していく。おっと、こぶ茶も忘れないようで持ってきた。
渡辺はメガネを触りながらトヨタ野球部の資料に目を通す。昭和40年台は渡辺が大学院を終えトヨタ自動車工業に入社した頃だった。少し懐かしい気分にもなっていた。
「私がトヨタに入社した頃の野球部はそんな強いことはなかった。実業団チームと言うよりはクラブ活動か会社のサークルのようなものだった。そんな弱いチームに元中日の浮洲さんがコーチ兼任で入ってくれてメキメキ野球部は強いチームに変わっていった」
三重生まれ豊田育ちの渡辺社長は幼い時分から野球に親しむ少年ドラゴンズだった。中日スポーツの子供会員クラブに入っていた。
会員番号は02020。杉下投手の"背番20"が二つも入っていたから友達に自慢したことがある。少年野球を経験して中学野球(軟式)では1番ショートだった。コツコツ当てるタイプで足も早かった。当時の中日の1番本多逸朗(昭和29年優勝の中日1番バッター)に憧れていた。
「あの頃は野球一筋だったなあ。野球選手で中日に入ることが最大の目標だった」
中学軟式野球部は非力な渡辺に1番ショートをプレゼントした。渡辺の名は豊田市の中学野球シーンに名前を轟かせもする。足が早い1番渡辺。やつを出塁させてはならないと対戦相手らは渡辺をなんとか打ち取ろうとした。
「正直ね、打者よりもランナーとして活躍したかな。バントヒットなんてのは今のイチローよりうまかった、アッハハ」
昭和17年生まれの野球少年渡辺は昭和32年岡崎高校進学。岡崎高校は昭和29年春甲子園出場を果たしていた。
「高校でも野球部だったんだけどね。親父との約束で学業に支障が出たらすぐに退部と言われた。文武両立をモットーにしていたわけだ」
1年から渡辺はショートレギュラーを確保して高校硬式野球にものめり込んでいく。打順は7番からスタート。
「ともかく足を生かすことを考えて打っていたな」
塁に出たら必ず進塁を心がけ二塁に向かう。
「盗塁は1か八かの真っ向勝負だった。あのスリルだけはやってみた者だけが味わえる快感だと言いたい」
2年の秋から1番ショートの指定席を確保。快足巧打のランナーと呼ばれることになる。
「もうひとつ、岡崎の本多と呼ばれたかったなあ、アッハハ」
3年西三河大会。岡崎は勝ち進んでベスト8。
「3年最後の夏の西三河大会は満足している。次の愛知県地区大会は勝てるだけ勝ちたいとガムシャラに戦った」
第2回戦で古豪中京商(中京大中京)と当たる。
中京商のキャッチャーは木俣達彦(中日)。1年ながら見事なインサイドワークと強肩を見せていた。
「そりゃあ最初、木俣を見た時になんというキャッチャーなんだと思ったなあ。肩は強いわ、よく打つわ、岡崎だわと」
試合は実力に優る中京商の一方的な展開になった。
1番ショート渡辺はそれでも活躍をした。しぶとく足で稼いだヒットで出塁した場面があった。中京商の大量リードではあったが渡辺は2盗を試みた。
「自分ではいいタイミングでスタートを切ってセーフだと確信して2塁に滑り込んだ」
渡辺の前に2塁が見えた、果敢に滑り込む。やった!盗塁成功だあ。
「アウト!」
矢のような送球が木俣から送られたのだ。今でもあの審判の右手が夢に出てくるらしい。後に中日に入るキャッチャーは違った。このアウトを最後に渡辺は野球は引退して受験に集中をする。
「大学では野球はやらなかった。東京6大学はちょっとなあ僕の出るようなレベルではなかった。」
その後大学院に進んでトヨタに入社。
「入社をしてトヨタ自動車工業野球部のメンバーを見て驚いた!中日の浮洲投手が選手登録(コーチ兼任)されているじゃあないか」
渡辺は中日の浮洲を見たことがある。そして"浮洲の初登板初完封"は当時の子供仲間でも話題になっていた。
「あんな18歳の高校出たばかりの少年がプロ相手に完封をやるんだからとそりゃあ興味だった」
渡辺はさっそく野球部に行き浮洲を見ることにした。渡辺より7歳上の浮洲。30を越え少年の面影はなかったがそのスラリとした姿勢からは往年の快速投手を想像されるに値した。当時の浮洲は現役兼任総合コーチ。若いコーチもちらほら入社していたからサブの立場にしてほしいと会社に頼んでいたらしい。
「それでも浮洲さんは野球部部員だった。だから僕もひとつ浮洲さんがいるのならばと野球を始めた」
渡辺の高校以来の快足は健在だろうか。弱くなった視力は矯正で補えるのか。
あの時代トヨタ自動車は強くなかった。実業団なんだけど、社員のレジャー、リクリエーションみたいな感覚で野球部はあった。
「だから僕も楽しみながら野球ができた。浮洲コーチのお陰だ。教えてもらう選手としては元プロだからといって恐縮してしまいそうだが気さくな人柄だったからよかった」
確に浮洲は教え方がうまく選手個人個人に合ったアドバイスを的確に与えた。
専門は投手だが、野手も教え打撃守備も本を見ては覚えていったらしい。
渡辺は社長の椅子に深く腰掛け遠い昔を思った。
「あの浮洲さんか。懐かしい。確かトヨタを定年されていたはずだ」
中日新聞の浮洲の写真は優しく微笑み昔とあまり変わらない印象を受ける。渡辺はちょっと会いたいなと思う。社長という重責を担ってはいるが名目があれば会えないこともない。
「西高が甲子園に出場してくれたらトヨタ代表として会えるかな」
高校のスポンサーとして甲子園まで応援にも行ける。
渡辺はこぶ茶をぐいっと飲み干すと内線で秘書を呼ぶ。
「さて朝一番の訪問のお客さまと会おうか」
トヨタ自動車野球部員は静かに本を閉じた。