天正壬午の乱の章~第三話~
小諸城。信濃国東部、現在の長野県小諸市に築かれた城である。滝川軍を破り、上野国から信濃に入った北条軍は、徳川方の依田信蕃を破って小諸城に入った。
北条軍総大将・北条左京大夫氏直はひとり、部屋に籠って瞑想をしていた。
氏直は父の氏政とは違い、均整のとれたスタイルで城の侍女や町の娘たちから人気がある。寡黙で必要なこと以外は口を開くことは少ないが、侍女や町娘たちは『それがいい!』と言うそうな。
黒い瞳に長い黒髪、精悍な顔つきで名門北条家の次代を担うに相応しい青年である。
彼が瞑想をする部屋の戸が叩かれ、家臣が戸の外から声をかけてきた。
「若殿、諸将が集いました」
「・・・そうか、今行く」
氏直は家臣に案内されながら、敵将・徳川家康はどのような手でこちらを迎え撃つつもりだろうかと思案を巡らせた・・・
ユラユラ、ユラユラ。
彼女が見上げる甲斐の空。大好きな人に背を預けて尊敬する女も見上げた空はなかなかいい景色だ。
雲一つない快晴の空、というわけではないが、眺めていて気持ちの良い空模様。先ほど西から軍を返して甲斐の新府城に入った徳川家康は、夫の胸に背を預けてポツリと呟いた。
「絵でも描きたいですねぇ」
「・・・竹は絵、得意だっけ?」
「気分ですよ、気分」
空を見上げて今度は鼻歌を歌ながら、彼女は先日の出来事を反芻していた・・・
(備中から韋駄天のごとき速さで退き、お姉様(織田信長)を討った明智日向を僅か十日前後で山崎の地に葬った・・・羽柴筑前。これから起こるであろう、織田家の主導権争いで一歩前進したといってよいでしょう。主導権争いでまず真っ先に立ちはだかるのは柴田修理殿・・・しかし、柴田殿では羽柴殿には勝てない。織田家の主導権を奪った彼女が柴田殿を倒した後に何らかの手を向けてくるのは我が徳川家)
近い将来、徳川と羽柴の対決は避けられない。対決に備えて甲斐・信濃を掌握し、なおかつ背後の北条家と何らかの形で良好な関係を築かなければ・・・
「あらあら、相変わらずお熱いお2人ですね~」
「ひ、彦姉っ!」
聞きなれた声に慌てて振り向くと、聖一の背中越しに彼女の姉的存在である鳥居元忠―――通称彦姉が微笑ましげに見ながら立っていた。
普段ならこの夫妻は主君と家臣の立場に戻るが、現れたのが彼女なら話は別。家康が生まれた時の事も知っている元忠は、夫妻が自然体でいられる数少ない人物だ。
「もうっ。いつからいたんですか?」
照れくさそうに抗議しつつ、聖一から降りて頬を膨らませる家康。それに元忠はニコリと笑みを浮かべて
「殿が聖一さんに胡坐をお命じになって、その上にお座りになられてから見ておりました」
「それはもう最初からって言うんですよぉ!」
頬を赤らめてバタバタと地団駄を踏む彼女。聖一は我が妻ながら、何この可愛い生き物!と思った。
「コホンッ。そ、それより彦姉、何か用があったんじゃないですか?」
家康が咳払いをして誤魔化すと、元忠も表情を引き締めた臣下の顔で告げた。
「申し上げます。北条氏忠率いる別働隊がこの新府城に向かって進軍中との知らせが入りました。御下知をお願いいたします」
「・・・北条の別動隊はどこから?」
聖一もスイッチが入り、緊張感を纏った表情で元忠に向き直る。
「草(忍びの者)からの知らせによれば、敵勢は1万。御坂峠から郡内地方に入る模様ですわ」
「・・・そうなると、迎撃地点は黒駒(現在の山梨県都留市)辺りね・・・聖一さん!」
「はっ」
「そなたに鳥居・三宅康貞・水野勝成の3将と兵2千を預けます。黒駒に向かい、北条勢を撃退なさい!」
『ははっ!』
聖一と元忠は頭を垂れ、足早に当主の間を去った。
「聖一さん、ひとつお聞きしても?」
黒駒に急行する徳川軍別働隊の中で、甲冑と弓を持った聖一の隣に並んだ元忠は口を開いた。
「何か策はありまして?」
「特にないです」
キッパリと言い切った彼に、キョトンとしている元忠に少し付け加える。
「北条軍は対滝川・対上杉などの連戦に加えて山道の多い信濃の山々を行軍してきてかなり疲労しているはずです。それに対して我が軍は疲れもなく、士気も高い。黒駒は狭い地形故、北条軍の動きを封じて側面攻撃を仕掛ければ容易く撃退できましょう。それにこの戦いにさえ勝てば、北条はこちらに対して今回以上の軍事行動は起こせませぬ」
「その根拠は?」
小首を傾げて質問してくる元忠に対し、聖一は人差し指を口元に充ててウィンクした。
「それは内緒です」




