天下統一の章~第八話~
今回は2話投稿です。
2話目は4月8日0時に投稿されます。
「この城を仰ぎ見るのも今日限りか」
馬上の人となった北条氏直は、小物が曳く馬上から自分が生まれ育ち、幾度も仰ぎ見た小田原城の天守閣を改めて眺めた。巨大にして威容を誇る天下の堅城―――自分がこの城の主であったことは、自らの生涯の誇りである。
「氏直よ」
馬を寄せてきたのは、氏直の父である北条氏政。恰幅の良かった体は、このたびの籠城戦で精神的に参ったのか、少し痩せ、目の下にクマが出来ている。
「わしが時勢を読めぬばかりに、今日を迎えてしもうた。お前を北条の最後の当主にしてしまったことを、謝らねばならぬ」
「父上・・・」
「さてさて・・・父上様やおじい様たちに何と言って謝ろうか。父上の予言通りであったわ、わしが北条の家を滅ぼすと」
氏政の父―――氏直にとっては祖父にあたる小田原北条家三代目当主・北条氏康は、北条家五代のうち屈指の名君にして、かつては今川義元・武田信玄・上杉謙信ら強豪と戦いぬいた名将であった。
そんな氏康が息子の氏政と食事をとっている時の事。飯に味噌汁をかけた氏政だが、その量が少し足りず、また飯に注いだのを見た氏康が、嘆いたのだ。
「氏政よ、お前は毎日食べる飯にかける味噌汁の量も一度で計れないのか。そんな事では家臣や領民を推し量る事が出来ようか」
氏康はこう嘆いて自分の死後に氏政の代で北条が滅びると予言した逸話だが、結局は予言通りになってしまった。
「父上。北条を滅ぼした当主は私です。父上がおじい様に怒られるならば、私もともに叱られましょう」
「氏直・・・わしは、わしは・・・」
氏政は扇を開いて顔を隠した。しかしその肩は震え、声は震えていた―――
豊臣軍の本陣が置かれた石垣山城からすべての城門が開かれた小田原城と、そこから続々と出てくる人々の姿が見えた。豊臣秀吉は徳川家康をそばに呼び、天守からその様子を眺めていた。
「北条が屈し、東北諸侯もボクの軍門に降った。これから宇都宮に移って東北諸氏の仕置きをしなきゃならない。あともう一仕事だ」
「はい。それが終われば、いよいよ・・・」
「そう。戦乱の世が終わる」
秀吉による小田原征伐に無断で従軍しなかった東北の大名は取り潰されることになる。その遺臣たちによって多少の混乱は起こるだろうが、もはや大勢を覆すほどの力はないだろう。
「家康殿。氏直殿の正室だった鳥居殿は?」
「氏直殿とともに小田原城を出て、我ら徳川の陣営に身柄を移しています」
当主氏直と隠居の氏政以下北条一門と重臣は、徳川や織田信雄らの諸大名に一時身柄を預けられた後に秀吉の引見を受けることになる。
「殿下、その・・・氏直殿の事ですが」
家康が口を開こうとすると、秀吉は「心配ないよ」と笑った。
「氏直殿は豊臣に対して特に敵対している様子でもなかったみたいだし、一年くらい高野山あたりで蟄居でもさせた後、伯耆に領地を与えて大名として残そうと思ってる」
秀吉はかつて敵対していた者でも、自らに屈せばそれなりの待遇を施している。柴田勝家滅亡後、前田利家や金森長近などの寄騎大名はほぼそのまま秀吉の配下となり、越中の佐々成政は肥後一国を与えられ、島津も薩摩・大隅を残された。長宗我部氏も本国土佐を安堵されている。
「腹を切らせるのは氏政と氏照、大道寺政繁に松田憲秀」
氏政と氏照兄弟は主戦派だったとして責任を取らせる。大道寺と松田は主戦派でありながら、早々に降伏・内応して主家を裏切った不忠者として腹を切らせるという事だった。
「さて、この後の話をしようよ」
秀吉は手を打って小姓を呼び、一枚の大きな紙を広げさせた。
「これはこの国の地図、ですか」
現在使用されている地図は、江戸時代に伊能忠敬が作った物である。しかしこの当時ははっきりとした国の形は分かっておらず、『尾張国の東隣が三河国』『摂津国の南に行けば河内国と和泉国がある』というざっくりとした情報から作った地図しかなかった。
「このたびの戦いで、関東はほぼ丸々無主の国になる。関東で北条を除けば大きな大名は常陸の佐竹と安房の里見だけだからね」
各地に反北条として秀吉に領地を安堵される下総の結城や下野の那須などの小領主たちはいるが、概ね北条領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総などは大きな大名がいなくなる。
「そこでボクは考えた。北条の後、関東を治めうる大名は誰かと。でもね。どう考えても、徳川家康以外に関東を任せられる人間はいないんだよね」
「駿河大納言徳川家康―――」
夫(聖一)が駿府を発つ前に言っていた。小田原征伐後、徳川家は大変革を余儀なくされると。
なるほどこれは大変革だ。先祖代々の土地を離れ、昨日まで敵の土地だった大国を預けられるのだから!
「豊臣秀吉の名において伊豆・相模・武蔵・上野・下野・上総・下総の関東七ヶ国への転封を命じる。真田・結城・安房里見らを寄騎として遅滞なく統治すべし。なお、旧領三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国は召し上げる」
「しかと、承りました」
駿府城に代わる徳川家の新たな居城は武蔵国江戸城。かつて非業の死を遂げた名将・太田道灌が築きし城にして―――
現在は荒れ果て朽ち果てた、小さな城であった。
徳川家の陣に身柄を移した北条氏直は、家康から北条家の処分について通達を受けた。自分が生きて父や叔父が腹を切るという内容に氏直は心中穏やかではなかったものの、家康から説得を受け、処分を受け入れると決めた。
「お前も付いて来るのか」
「何度も言わせないで下さいまし。私は氏直殿の妻。あなた様が行かれる場所、それが私の場所ですわ」
氏直は翌日、秀吉の謁見を受けた後、叔父の氏忠や氏規らとともに高野山へ出立することになる。家康は元忠の意思を尊重し、氏直とともに高野山へ送り出すことに決定。鳥居家の家督は甥で彼女の養子である鳥居忠政に譲ることとされた。
そして翌日。小田原城受け取り業務に当たる徳川本軍と別れた北条氏直は、豊臣本陣に身柄が移されることになった。
氏直と対面した秀吉は彼の英断と夫人の献身に敬意を表し、高野山に流される北条一門に対して一万石を支給する旨も通達した。
戦後処理が終了し次第、氏直は高野山に送られることになり、それまでは織田信雄に身柄を預けられることになった。
しかしその夜―――関東の太守から流人に身を落されようとも、穏やかな生活を掴まんとした夫婦を銃声が引き裂いた。
北条夫妻の身柄の引受人である織田信雄から知らせを受けた家康は、とるものもとりあえず織田家の陣に駆け付けた。
「氏直殿、彦ねぇ!」
2人の座所に案内されると、そこには呆然とした様子の元忠と、物言わぬ骸となった彼女の夫の姿がそこにあった。
「いきなり・・・銃声がして。殿は私をかばって・・・」
呆然自失の様子の元忠は力なく座り込み、虚ろな様子でポツリ、ポツリと口を開いた。
「下手人は2人の砲手。身柄は抑えましたが、自害してござる」
犯行に使われたのは2丁の雑賀筒。つまり紀伊国雑賀出身の者の可能性が高いが、そのような事はどうでもよかった。
大切な姉を抱きしめる。自分より大きなはずの彼女が、今日ばかりは自分より小さく感じた。その中で感じるのは、ひたすら『なぜ』という疑問。
なぜ元忠が狙われねばならなかったのか?元忠が死ぬことによって生じる利点は?
今夜、京の夫に手紙を送ろう。彼ならば、何か解決してくれるかもしれない―――
北条氏を滅ぼした秀吉は鎌倉に入って鶴岡八幡宮に詣で、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝の故事に倣って下野国宇都宮城に入った。ここを本陣として陸奥国への巡察及び、奥羽諸侯を豊臣政権下に組み込むための仕置を行った。これにより小田原の陣へ参戦しなかった葛西氏・大崎氏らは改易処分とされ、遅参した伊達政宗は減封。参陣及び秀吉と親交のあった最上氏・秋田氏・相馬氏などは本領安堵とされ、蒲生氏と木村氏が新たに陸奥国に封じられた。
さらにここで徳川家から人質として預けられていた鷹村秀康が下総国の名門である結城晴朝の養子となる事が決められた。後に彼女は養父である晴朝と結婚して名実ともに結城家当主となる。
そして織田信雄が北条氏直暗殺を防げなかったとして改易され、下野国に配流となった。
日本国の諸大名は秀吉に屈し、彼女のもと天下統一は果たされた。
「悪いがそうは問屋がおろさねぇんだ。あんたには、俺の目的のための撒き餌になってもらわなきゃ困るんでね」
力なく倒れ伏した少女を見下ろし、白覆面で素顔を隠した男は歪んだ笑みを浮かべた。柏手を打つと、3人の小柄な人物が部屋に入ってきた。しかしこの3人、目は虚ろで焦点があっておらず、一目で様子がおかしいと分かる状態であった。3人は秀吉の身の回りの世話をする少女の小姓たちであった。
「おい。天下人サマはご病気になられたみたいだ。『例の場所』でお休み頂け」
「・・・」
彼女たちは男の横柄な物言いを咎める事もせず、男の指示に淡々と従い、倒れた少女―――天下人豊臣秀吉を抱え上げ、どこかに消えて行った。
「・・・終わったのか、吉継?」
「ああ」
次に部屋を訪れたのは端正な容姿の男―――秀吉側近である石田三成。白頭巾の男・大谷吉継は三成の咎めるような視線を感じ、釈明する為に言葉をつづけた。
「心配しなくても殺しちゃいねぇよ。秀吉には大人しくしてもらうための薬を飲ませただけだ」
「殿下を牢に閉じ込めるという事は聞いていないが?」
「牢ってひでぇこと言うな、三成。あの『場所』もれっきとした城の一部、牢なんかじゃねぇよ。きちんとした施設じゃねぇか」
なおも何か言いつのろうとした三成を、吉継は尤もらしい口調で封じた。
「いいか。秀吉は徳川に対して信を置き過ぎだ。このままじゃ確実に豊臣は徳川に滅ぼされる。お前はそれを許せない、そうだな?」
「それはそうだが・・・」
「なら俺を信用しろ。秀吉には多少窮屈な思いをしてもらわなきゃならんが、お前の大義を知ったなら、必ず徳川討伐を許してくれるはずだ」
「ならば言葉を尽くして殿下をお諫めするべきでは―――」
「今はダメだ」
吉継は確固とした口調で三成の口を封じた。
「分からんか?今や徳川は名実ともに豊臣家中一番の大大名だ。加えて戦上手、秀吉ですら敗れた相手だ。これを倒すには諸大名が連合して立ち上がらなければならん」
「連合軍、か」
「その為には時間がいる。そして大大名を操るために実権を握らなければならん」
その為の秀吉幽閉だと言い聞かせる。秀吉の目を覚まさせるにはこれしかないと。
「・・・心得た。私もすでに長束・増田・前田入道の三氏を説き伏せておく。だが、殿下に危害を加えることは許さんぞ」
「分かってるよ」
「へっ、馬鹿な野郎だ。あいつも俺から見れば歴史に踊らされた人形に過ぎないっていうのによ」
三成の大義など関係ない。大谷吉継は―――藤津栄治は、自分から何もかも奪った鷹村聖一に復讐する為にこの世界にやってきたのだ。
弓道の家の嫡流に生まれた自分が受けるはずだった栄誉をすべて奪って行ったあの男を、恨まなかった日はない。幼馴染の少女の心を掴んだあの男を妬まなかった日はない。
そして―――この世界でも、名声を得たあの男を憎まなかった日はない。
秀吉が大坂城に凱旋して数日後、秀吉側近の石田三成より秀吉の触れと称する命令書が諸大名に向けて発布された。
「太閤殿下御病臥に付き、政務一切を長束大蔵大輔正家・増田右衛門尉長盛・大谷刑部少輔吉継・前田民部卿法印玄以、そして某、石田治部少輔三成に委任するとの仰せがござった。我ら五名恐れ多くも御下知に従い、殿下に代わって合議によって政務をおこなう事を諸大名に通達いたす」
突然の秀吉の病臥とそれによる側近五人の政務代行―――静まったと誰もが感じた戦乱の火は、再び燃え上がろうとしていた―――




