天下統一の章~第六話~
徳川家康と和を結び、後顧の憂いを絶った秀吉は次々と範秀吉の勢力を切り従えていく。
四国を平定した長宗我部元親、紀州の国人衆を圧倒的な物量作戦で屈服させると矛先を北の越中国の佐々成政へ。こちらはほとんど戦わずして降伏させることに成功した。さらにこの年には元関白近衛前久の猶子となり、朝廷から関白に任じられた。これで素性も知れぬ農民の娘であった羽柴秀吉は朝廷から天下人と認められたのである。次いで九州地方に向けて大名同士の私闘を禁じた『惣無事令』を実施。九州を席巻していた薩摩国の島津氏がこれに従わぬと見るや、秀吉に救援を要請した豊後国の大名大友宗麟の求めに応じて島津征伐の軍勢を送って島津氏を降した。
今や、この日ノ本で秀吉に服従せぬのは関東の北条氏、そして東北諸氏だけとなった。
九州征伐後、朝廷より『豊臣』の姓を拝領し、その名を『豊臣秀吉』と改めた秀吉は九州に続いて関東・東北地方に『惣無事令』を発布。いまだに彼女に従わない関東の北条氏政・氏直親子と東北地方で暴れまわる伊達政宗に向けたものであった。
そのような状況の中、北条氏は上野国に領地を持つ真田氏と諍いを起こし、秀吉に討伐の大義名分を与えてしまう。
天下人・豊臣秀吉は東北地方を含む全国の大名に出陣を命令。今や豊臣大名となった徳川家康もこの軍に加わった。
徳川家康の夫である鷹村聖一は豊臣軍が小田原に向けて出陣したころ、聖一は大和国郡山城にいた。大名の伴侶や子は大坂住まいを命じられており、聖一もまた、子の松姫とともに大坂で暮らしていた。
「佐渡殿のわざわざのお見舞い、忝い」
「大和大納言殿は豊臣家の柱石。早く良くなって頂かなくてはと思い、参上いたしました次第」
今日の用事は、ここ数年病に臥せっている秀吉の弟・秀長の病気見舞いであった。枕元には彼の家臣である藤堂高虎がともにいた。最近は病が特に篤く、高虎は徹夜で看病に当たっているといい、端正なその容貌からは疲れが見えている。
「高虎、少し外せ」
「・・・でも」
「少しの間じゃ・・・わしは鷹村殿に話がある。『先日の件』じゃ」
高虎は表情を硬くしたまま首肯し、部屋を出て行った。聖一は改めて枕元近くに呼ばれ、顔を近くに寄せるよう秀長に言われた。
「わしは、毒に侵されておる」
「なっ―――!?」
秀長の口から囁かれたあまりにも衝撃的な一言に、聖一は唖然とした。天下人・秀吉の弟であるこの男を毒殺だと?
もしも姉である秀吉とこの秀長の仲が悪いのならば話は分からないでもない。しかしこの姉弟の仲はとても良く、秀吉も秀長を頼りにしている面がある。
「声が大きいですぞ」
思わず声を漏らした聖一を窘め、秀長は続けた。
「高虎の調べによりますると、数年前から遅効性の毒を少しずつわしに盛り続けていたとのこと。料理番と毒見役を買収していた様子でしたが、彼らは何も知らぬとの事」
「トカゲの尻尾きりですね」
「左様。それに最近気になるのは姉上の取り巻きどもの顔が以前より変わりつつあること・・・」
参謀として貢献した黒田官兵衛孝高は遠ざけられ、失態があったとはいえ古参の家臣である仙石秀久や尾藤知宣は追放され、神子田正治は処刑された。
「一番の懸念は石田三成にござる。あの男、確かに姉上への忠誠比類ないものであるが、そのそばに影のように控えるあの覆面の男―――大谷吉継とか言ったか。あの男には気を付けられよ」
秀長が語るところによると、大谷吉継は常に影のように三成に付きまとい、彼に献策をし続けていたという。そして三成を介して伝えられるその策は、常に秀吉を勝利に導いた。
「わしは空恐ろしゅうござった。あの男の手にかかると、いかなる問題もたちどころに解決してしまう。まるで『未来を見てきたかのよう』だった」
かの有名な『中国大返し』も賤ヶ岳の戦いでの『美濃大返し』も、はたまた今回の真田氏と北条氏の領地争いの諍いによる小田原征伐も彼は『予め知っていた』かのように準備を三成に行わせていたという。
「無論、わしらとて将来北条と干戈を交えることは考えており申した。柴田殿が信孝殿と滝川一益殿と手を結んで兵を挙げることも。だが、織田の上様が明智殿に討たれるなど誰が考えたか?奴はそれまで見越して準備をさせたのだ!・・・奴は献策をすることで三成を大きくした。それだけなら良い。だが、奴は豊臣家の為、姉上の為と三成に言いながら、何を企んでいる?奴は―――」
「わしを殺して、何をするつもりだ?」
死にゆく大和大納言・豊臣秀長は断言した。自らに毒を持ったのは『豊臣家の御為』と謳う石田三成―――その後ろで糸を引く大谷吉継だと。
しかし確たる証拠は手に入れることができず、また姉の寵臣を糾弾することでせっかく収まりつつある戦乱の日を再び燃え上がらせることを避けたいという。
(姉上とわしはご存知の通り足軽の娘と息子。譜代の家臣などおらぬ故、姉上は殊の外子飼いの家臣を可愛がっておられる。わしが証拠を持って糾弾しても、姉上は家臣をかばい、御不興を買う可能性が高い)
「秀長殿は甘い・・・」
姉を傷つけたくないのかもしれない。だが、その甘さは豊臣家にとって命取りではないだろうか?
このままの史実をたどれば、豊臣渦中に内紛が起こり、『あの戦い』が起こる。
(家康が天下を望むならそれでいい。でも、彼女は天下なんか望んじゃいない・・・)
彼女が望んでいるのは天下泰平。それならば、豊臣家の一家臣でも満足するだろう。
だが、豊臣家が天下泰平を保てなくなったら?
戦乱の火種が燃え上がらんとし、それを抑えられるのが徳川家康だけだったら?
聖一はある決意を秘め、前を向いた。
「そろそろ休め、高虎」
「嫌」
強情なこの娘に、秀長は何度目かのため息をついた。
「お前もここ数日、ろくに休んでおるまい。そちまで倒れてしまうぞ」
「・・・」
「高虎」
秀長が強い口調で言うと、彼女は親に怒られた子供のようにビクッと震えた。
「嫌。お側にいる」
しかしそれでも高虎はフルフルと首を振った。
「秀長様、死んじゃ嫌」
その彼女の両の瞳には、涙が浮かんでいた。
「秀長様は初めて高虎を家臣として必要としてくれた人。高虎を頼りにしてるって言ってくれた人」
藤堂高虎は秀長に仕える前、今は亡き織田信長の甥・信澄に仕えていたが、家臣というよりは側女として見ていたようで、武功を挙げて藤堂家の家名を再興させようとする高虎とはそりが合わなかった。幸いにも高虎の志に共感してくれた者がおり、その者のおかげで貞操は守ることができた。
「秀長様が死んだら、高虎は・・・」
「泣くな、高虎」
秀長は少女の頬を伝って流れる涙を、優しくぬぐった。
「そちは口下手だが知勇人に優れ、情人に勝る事は誰よりもわしがよく知っておる。わしが死して後も、そちを大切に扱ってくれるものは必ずおる。」
彼女は口下手で人付き合いも苦手だ。その為彼女を誤解するものも多く、疎む者も多い。
「そちはわしを毒殺した者を殺そうとするだろう。だが、復讐を果たさんとするならば、それは違うぞ」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。それは実子のない自分が娘同然に可愛がった、遺していく者への遺言だと言外に告げて。
「わしに孝を尽くし、わしを毒殺した者へ復讐を果たさんとするならば―――天下を必ずや平和に導け」
「!」
「わしを毒殺した者は、天下にもう一波乱を起こそうとしておる。未然にこれを防ぎ、また戦乱の火を小さいうちに消し、天下を平和に導くことこそがわしへの孝行と心得よ」
小さく首肯した高虎に、言葉を続ける。
「波乱の来るとき、姉上は動けまい。その時にそちが頼りにすべき人物は三人・・・」
まず親指を立てて、告げる。
「前田利家殿」
秀吉の小者時代からの親友。人望篤く、義理堅い人。
「黒田如水殿」
続けて立てた人差し指。智謀優れ、それがゆえに人に恐れられる軍師。
「最後に」
中指が立てられる。最後に告げられる人物の名を、高虎は察していた。おそらく、彼女こそが秀長の本命―――
「徳川家康殿」
大和大納言・豊臣秀長。
誰よりも姉を愛し、誰よりも姉を案じた彼は、天下統一という偉業を見届けて永久の眠りにつくことになる。
そして―――彼の死から、日ノ本に再び戦乱という名の火が灯り始めるのである。
少しずつ、少しずつ・・・




