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プロローグ

―――ボンヤリと、意識が現実の世界に打ち上げられていく。ふすま越しに耳に届く雀の囀りに、朝が来たことを悟る。朝の目覚めが早いことが数少ない取り柄の青年は、眠い目をこすりながら体を起こした。

取り立てて特徴のない青年である。黒髪に黒目とこの国の人間の標準的な容姿で、顔は・・・まぁまぁ整っているといったところか。『2枚目にあと少しで手が届きそう』な感じか。

しかし彼がただ人ではない一面があった。

青年の名は鷹村聖一(たかむらせいいち)。この戦国時代の日本に迷い込んだ現代高校生だった青年である。





「ふにゅ・・・」

ゴソゴソと彼の蒲団から這い出してきたのは、乱れた寝巻を纏った長い黒髪の女性。普段は強い意志を秘めているその瞳はいまだに眠そうであるが、少し時間が経てば彼女は誰よりも立派で、凛々しい君主になることは彼と彼女の家臣たちは知っている。

彼女の名は徳川家康(とくがわいえやす)。三河・遠江・駿河の三ヶ国の太守にして、『東海の弓取り』と呼ばれる英傑。そして、現代高校生だった鷹村聖一青年とは夫婦である―――







「おはよう、竹姫(たけひめ)

「おはようござます、聖一さん」

彼ら夫妻の朝は、向かい合ってのあいさつから始まる。これは出陣してるとき以外は欠かさず行う、決まりごとのようなものだ。

ちなみに聖一は家康のことを『竹姫』と呼んだが、これは『姫名』と呼ばれるもので夫の聖一しか呼ぶことが許されない秘密の名前である。

「さてと・・・今日の予定はなんでしたっけ?」

「茶屋殿の案内で、堺見物ですよ。早く着替えましょう」

聖一と家康、そして彼女の家臣たち20名弱は今、織田信長に武田家滅亡後に駿河を拝領した礼を述べに上洛し、その帰りに京で店を構え、徳川家とは昵懇の仲である茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)の堺の屋敷に逗留していたのであった。





――――歴史上、深い謎に包まれた事件の幕開けは、夫婦にとって何の変哲もない朝から始まった。




家康と聖一が着替えを終えて朝食の席に顔を出すと、福顔の中年男性が2人を待っていた。

「おはようございます、三河守(みかわのかみ)様に鷹村様。昨晩はよう眠れましたか」

「おはようございます、茶屋殿。おかげさまで、よく眠れましたよ」

彼はこの屋敷の主にして、京でも有数の豪商である茶屋清延(ちゃやきよのぶ)。かつては武士だったが、父の代に廃業して今は呉服商を営んでいる。ちなみに家臣たちは別の場所で朝食に舌鼓を打っているようだ。

茶屋も部屋を退いて、静かな朝食を食べ終えた2人はしばし談笑する。

「松姫も福松丸もお利口さんにしているでしょうか?」

ここで話題に上るのは、2人の愛しい我が子のこと。浜松城で留守を預かっている姉的存在に世話を任せているが、大人しい娘はともかくやんちゃな息子の世話は手が焼けるだろう。

「大丈夫だよ。2人ともいい子だから大人しく待ってくれているよ」





―――その時だった。

ドタドタと慌ただしい足音が響き、『殿!殿!』と家康を呼ぶ家臣の声がする。

「平八の声ですね」

平八―――本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)は、2人の部屋の前で膝を折って「失礼いたします」と声をかける。中にいた2人は、自然な動きで上座とそのそばに控える。仲のいい夫婦の時間はここで終わり、主君と家臣の関係に戻る。

「入りなさい」

「はっ」

入室を促す主君に従ってふすまを開けた忠勝だったが、明らかにいつもとは様子が違う。明らかに慌てた様子であり、朝食を抜け出してきたのか未だに口元にご飯粒がついている。

「どうしたんですか、忠勝?ああ、口元にご飯粒が・・・」

「ご飯粒の事は今はどうでもよいのです!・・・無礼なのは承知しておりますが、緊急のことゆえお許しを」

忠勝は深く首を垂れると、その口から今日の明け方に起こった出来事を報告した。








「明智日向守、謀叛!織田信長公、本能寺にて討死!」








「え・・・?おねえ・・・さまが・・・・討死?」

呆然とする家康。聖一も表面上は冷静を保ちながら、心の中では「ありえない」と連呼していた。

(そんな馬鹿な・・・あの明智殿が?)

この頃に『本能寺の変』が起こるのもわかっていた。光秀は京で徳川家の接待役を行っていた。すべて史実通り。だが―――

(信長殿に絶対の忠誠を誓っていた彼女が?)

信長の重臣として、愛人として仕えて寵愛を受けていた彼女が謀叛を起こすなんて考えられなかったのだ。

「・・・確か息子の信忠(のぶただ)殿も京にいたはず。彼は?」

信長によって家督を譲られ、当主となっていた織田信忠も先日会っていた。

「明智が本能寺で信長公を討った後、二条城で京都所司代村井貞勝(むらいさだかつ)殿たちとともに明智軍と戦い・・・」

続きは口にしなかったが、信忠や貞勝がすでにこの世にないというのは知れた。

「・・・すぐにでも、明智勢は僕らを殺しに来るだろう。茶屋殿にも話して、すぐに堺を脱出しよう」

「分かった。すぐに手配しよう・・・殿を頼むぞ」

忠勝が急ぎ足で出ていく。ふすまが閉められた後、聖一は懐に主君を抱いた。

押し付けるように抱きしめたのは、彼女の泣き声が屋敷中に響き渡らないようにだ。







「ぐすっ・・・聖一さん、ありがとうございました」

思う存分泣いたのだろう。目を真っ赤にしながら、彼女は礼をしてきた。

「聖一さん、帰りましょう。私たちの故郷に」

「うん。絶対に生きて帰ろう!」

準備を整えた後、茶屋や家臣たちと相談した結果・・・すでに封鎖されているであろう、近江を通って帰国する道はあきらめ、伊賀国を通って古くからの織田領である伊勢国から海路三河へ帰るという方針に決まった。

「伊賀越え・・・ですな」

一行の中では最年長の酒井忠次(さかいただつぐ)が厳しい表情を浮かべ、彼の隣に座る大久保忠佐(おおくぼただすけ)も嘆息する。

「信長公の命もあったとはいえ、三介(さんすけ)殿は少々やりすぎました。かの地の民が、織田と同盟している我らもともに恨んでいる可能性もあります」

三介殿とは信長の養子の1人である織田信雄(おだのぶかつ)の事である。信長には実子・養子を含めて3人の子がいる。実子の信忠に養子の信雄・信孝(のぶたか)だ。

養子の2人はともに一族の子で、それぞれ北畠(きたばたけ)氏・神戸(かんべ)氏という伊勢の名家との和睦の際に後継ぎとして送り込まれる際に、形として信長の養子にしていた。

しかし信雄は武将としての器量に乏しかった。以前、信長に無断で伊賀侵攻を行った上に惨敗を喫して叱責を受けている。再度攻め込んだ際にはその鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように伊賀を徹底的に攻め立てて、かの地を焦土と化したのだ。

「しかし、織田領ですらない紀伊や明智が網を張っている近江を通るわけにはいきますまい」

「大和は明智派の筒井順慶(つついじゅんけい)の領地だし・・・伊賀を通るしかないってことだよねー」

忠勝と康政の言うとおりだった。三河へ戻る一番の安全なルートは、伊賀しかないのだ。

「よし、出立しましょう!」

『ははっ!』

―――こうして、『神君伊賀越え』は幕を開ける―――


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