小牧・長久手の戦いの章~第十一話~
一瞬にして主将を失った森隊は大混乱に陥った。兵士たちは四散し、侍大将の指示も通らない。
「鎮まれ!鎮まれぃ!!」
「逃げるな!逃げる者は斬り捨てる!!」
馬上で刀を振りかざしながら侍大将達が怒鳴るが、集団で逃げだす雑兵たちの波を止める事は出来ない。
そしてこの森隊の混乱は、戦場が見渡せる岡崎城の天守で徳川軍の指揮を執る真田信幸の目にもハッキリと映っていた。
さすがに森長可討死の報までは知らなかったが、今まで統率のとれた動きで徳川軍の包囲にかかっていた一部隊の動きが大きく乱れたのだ。戦巧者の父・真田昌幸のもとで培われた信幸の目はそれを見逃さなかった。
「森隊の動きが乱れた・・・森隊を突破し、包囲を脱するよう合図を!」
「はっ!」
法螺貝が鳴り、眼下の徳川軍が森隊目掛けて殺到する。あっという間に森隊を抜いた徳川軍はさらに反転し、朝駆けによって体勢を崩して後退し続けている池田元助隊に襲い掛かった。
徳川軍に強襲され、続けざまに崩れていく娘婿と長男の隊。戦馴れした池田恒興には、すでに娘婿と長男がこの世にないと分かってしまっていた。
「勝負は時の運とは言うが・・・たかだか小娘の奇襲に婿殿と息子が討たれるとはな」
若き日の事を思い出す。たかだか尾張一国をやっと統一したばかりの無名の若者だった織田信長が、三・遠・駿の三ヶ国を統べる当時最強を誇った『東海の弓取り』今川義元を討ち取った桶狭間の戦い。徳川軍を率いる鷹村秀康という少女を遠くから眺めていた恒興は、その勇戦する姿に若き日の信長を重ねていた。
森隊・元助隊を破った徳川軍はすぐにでも片翼の輝政隊に襲い掛かるだろう。長男を失った今、二男の輝政まで失うわけにはいかなかった。
「輝政に使者を送れ。兄と父は戦場を離脱したので、お前も撤退せよと」
「と、殿は如何なされるのです?」
顔面蒼白の若い家臣に対し、恒興は彼を落ち着かせようと気の利いた事を言おうとして――やめた。
「黄泉の上様に叱責を受けに行く」
池田恒興と織田信長は、幼少の時からの付き合いである。恒興の母が信長の父・信秀と再婚し、信長の乳母となって以来、彼は織田家の数々の戦に参戦してきた。信長にとって信頼のおける歴戦の武将であると同時に、気の置けない友人のような存在であった。
謀反を起こした荒木村重討伐の報告の為に安土城の信長を訪れた時の事。報告を終え、退出しようとした彼を信長が呼び止め、茶席に招いたのだ。
「まぁ、寛げ」
「は。頂戴いたします」
信長が点てた茶でのどを潤す。言動はガサツなこの主君だが、幼少の頃より父の信秀を頼って下向してきた公家たちから連歌・蹴鞠などの教育を受けてきており、こういった事にも造詣が深いのである。
「・・・何か失礼な事を考えていなかったか?」
「いえ、何も」
ジト目でにらんでくる主君の視線から顔を逸らす。昔から彼女は勘が鋭い。
「まぁ、いい。本題に入ろうか」
「はい」
信長が居住まいを正し、和やかだった雰囲気を一変させる。
「勝三郎。上杉謙信が没し、本願寺も佐久間が包囲して優勢だ。丹波・丹後は光秀が平定寸前だし、荒木を破ったことでサルの対毛利戦も優位に進むだろう」
「さらに言うなら関東の北条氏政も俺の敵じゃない。武田勝頼も家康が抑えてくれている。東北の団栗どもも俺の前に屈するのは時間の問題だ。四国と九州は少し厄介かもしれんが、倒せない相手じゃない・・・さて、ここで問題だ」
信長はズイと身を乗り出し、彼にとっては信じられない問題を提起した。
「この情勢下で、俺が唯一恐れている奴がいる。それは誰だと思う?」
恒興には彼女が冗談を言っているとしか思えなかった。彼の主君・織田信長はもはや天下統一を手中におさめかけている。その彼女が恐れている者がいる?しばらく考え込んでいたが、全く答えが出てこない。
(いや、いる。あの御仁が)
答えが出ていないわけではない。ただ、脳内に浮かんだその名前を口にしたくなかったのである。
「お前の思っている通りの奴だよ」
恒興が口籠っていると、信長の口から恒興が脳内で想像している通りの人物の名が飛び出した。
「織田家中国方面軍総大将・羽柴筑前守秀吉だ」
その名を口にした時の信長の目、その目を見たとき、恒興は生涯忘れないだろうと思った。
(妹君、信行様を討つと決心した時と同じ目だ・・・)
「俺は奴を信頼している。奴も俺を慕ってくれているし、信頼してくれている。俺を裏切ることは絶対にないと確信している。だけどな・・・妙に胸騒ぎがするんだよ。奴はゆくゆくは織田家に取って代わる存在になるってな」
だからその時は―――
「勝三郎、お前は織田家を守ろうと思うな」
「え・・・?」
織田家を守ってくれ―――そういうかと思っていた恒興は、拍子抜けしたような表情で信長を見つめた。
「そう意外そうな顔をするな。俺は元々守護代の織田大和守や織田伊勢守、守護の斯波義銀に取って代わってここまで来た。俺が取って代わられるのは因果応報だ。だが、俺が一番怖いのは、この日ノ本が再び戦乱の炎に包まれることだ」
『天下布武』―――百年続く戦乱を終わらせるという大志を抱き、信長たちはここまで来た。
「だからな、勝三郎。もしサルが俺に取って代わったら、その時はサルを助けてやってほしい。お前の経験は必ずサルの力になり、天下を鎮める一助となるはずだ」
(上様、申し訳ありません。この恒興。羽柴殿の力にはなれそうにもありませぬ)
輝政は逃れた。堀秀政も秀次を守って退却中であるという。この戦場に残っているのはもう自分一人になった。
「この地が、わしの墓となるか」
徳川軍はすでにそこまで殺到してきている。恒興は傍に小者を呼び、家督を二男の輝政に継がせる旨を初めに書いた遺言状を認めさせた。
「父や兄の死など些細な事。仇を取ろうなどと考えず、天下の事を第一に考えよ。天下を乱す一助となり、池田の名を汚す事こそ父や兄に対する不忠と心得よ・・・書いたか?そうか、では早々に息子に届けてくれ」
遺言状を持たせた小者が駆け去っていく姿を見送り、彼は床几に深く腰掛けた。
「若い力・・・か。上様、歴史を動かすのは歴戦の経験ではなく、若者の情熱だったのかもしれませぬなぁ」
かつて、上様が今川殿を討ち取った時のように―――
―――1584年。『本来起こるはずではなかった』岡崎城の戦いにて、池田恒興討死。この岡崎城攻略の失敗で勝機は一気に徳川方に傾くことになる。
「申し上げます!長宗我部勢の攻撃により、淡路洲本城主仙石殿敗退!淡路を奪われたとの由!」
「敵勢先鋒、紀伊雑賀衆とともに岸和田城攻めにかかる模様!中村一氏殿より援軍要請が来ております!」
「一大事にございます!越中の佐々成政、大軍を率いて能登の末森城の包囲を開始!前田殿より後詰要請が!」
―――聖一が植えた逆転の秘策。その芽が一気に芽吹いたのである。




