小牧・長久手の戦いの章~第一話~
甲斐・信濃の武田旧領を制し、希代の謀将・真田昌幸を味方に付けた徳川家はしばらくぶりの平穏を味わっていた。三河半国の領主にすぎなかった徳川家康は、今や五ヶ国の太守として各地の大名に影響力を与える存在となった。
徳川家が東に目を向けている間に、西では大きな動きがあった。
織田家筆頭家老であった越前・北ノ庄を本拠とする柴田勝家が岐阜の織田信孝と結んで兵を挙げるが、織田信長の後継者としての地位を確立した羽柴秀吉に近江・賤ヶ岳の地に敗れ、勝家は北ノ庄城で滅亡。信孝も秀吉を呪う辞世の句を残して自刃して果てた。
続いて羽柴陣営が触手を伸ばしたのは、尾張・伊勢を領する信長の養子のひとり・織田信雄。
彼の者の陣営を崩すために暗躍する羽柴家臣がいることを、鷹村聖一はまだ知らなかった・・・
平安の昔、宇治川の戦いに敗れて北陸に落ち延びようとする源義仲を粟津の地に討った相模国の武士・石田次郎為久。
彼の子孫と言われる人物が、日本史上に姿を現す。その者の名は、石田佐吉三成という。
三成は織田氏が江北の浅井氏を滅ぼし、その旧領を治めることになった羽柴秀吉に仕官。主に戦時の後方支援や内政・外交面で辣腕を振るい、本能寺の変以降の羽柴家の勇躍に貢献した。
その彼に、影のように付きまとう人物がいる。公の場には姿を現さず、石田家中でもどのような人物か知られていない。しかし、賤ヶ岳の戦いで柴田軍・佐久間盛政隊の突出を誘い、羽柴軍を勝利に導く策を三成に献じた―――
男の名を、藤津栄治という。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、天下人への座を手繰り寄せた羽柴秀吉はそれまで居城としていた播磨国姫路城から摂津国・石山本願寺跡地に壮大な城郭を築き始め、居を移していた。その一室で、2人の男が膝を突き合わせていた。
1人は中肉中背、精悍な顔つきで誠実な人柄がうかがえる若い男。現代風に言えば『イケメン』というところだろうか。
もう1人は痩身の陰気な雰囲気の男。ともすれば集団の中で見落としてしまいそうな人物だが、その眼差しはギラギラと輝き、野心溢れる人という印象を与えた。
前者が石田三成。後者が三成に仕える藤津栄治である。
文官の三成は、どうしても武に関しては疎い。そこで彼は少禄ながら持ち前の実直さと余人の想像を超える方法で全国に名を知られながら浪人している豪傑を家中に迎えるなどしたが、謀略に優れている者―――もう亡くなったが主君秀吉に仕えた竹中半兵衛重治や現在も秀吉の参謀を務めている黒田官兵衛孝高といった者が三成には欠けている。
そこで彼の前に現れたのがこの目の前に座る痩せぎす男であった。
「して、これで賽は投げられたのだな?」
「ああ。これで信雄はあの三家老に疑いの目を向けるだろう」
すでに羽柴陣営は次の敵―――旧主織田家に残った最後の敵対勢力である伊勢・尾張の織田信雄、そして彼が助けを求めるであろう東海の雄・徳川家康との戦いに向けた謀略を開始していた。
信雄らに宣戦布告をさせる為の策略―――それは、信雄を支える3人の家老である津川義冬・岡田重孝・浅井長時に謀叛の疑いありという流言を広めて信雄の彼らに対する信頼を失わせて謀殺させ、それを大義名分に兵を起こし、信雄、そして彼が助けを求めるであろう徳川家康を叩くという流れである。
その戦略を立てたのが、この藤津栄治であった。
「しかし・・・お主はなぜ、羽柴家中でも敵が多く、禄も特にあるわけでもない私にこうも良くしてくれるのだ?」
「言っているだろう。お前は現代の蕭何として秀吉公の覇業を支える器がある。俺はその補佐をしたいだけだ」
「そして、徳川殿の夫君である鷹村聖一を討ちたい・・・だったな」
鷹村聖一―――その名が栄治から語られるとき、彼の表情が酷く醜く歪む。三成はその醜悪さに内心辟易しながらも言葉を続ける。
「お主は私の所に来た時から徳川殿とそれを補佐する鷹村殿を殿の最大の障壁と言い、排除を訴えてきたな。今回がその機会か。此度の戦、必ず殿を勝利に導かねばならん」
三成は「殿がお呼びです」と自らを呼びに来た小姓にすぐ向かう事を伝え、座を立った。
「此度の戦も頼むぞ、我が友・藤津栄治。いや―――」
傍らの布に手を伸ばして自らの顔に巻き始めた栄治を、普段彼を呼ぶ名で呼ぶ。
「―――我が参謀・大谷吉継よ」
部屋を出て行った三成の足音が聞こえなくなった頃、吉継―――いや、現代日本から迷い込んできた藤津栄治は三成を小馬鹿にするように呟いた。
「何が我が参謀、だ・・・三成、貴様は俺が脚本した舞台で演じている役者にすぎねぇんだよ」
時空書の発動に巻き込まれてこの一風変わった戦国時代にやってきた聖一と栄治。駿河国に降り立ち、すぐに当時の松平家に拾われた聖一とは違い、栄治が降り立ったのは近江国(現在の滋賀県)であった。
彼を拾ったのは、近江守護職・六角家の旧臣である大谷家であった。ここがどこかを理解した彼は、自分と同じく戦乱渦巻くこの地に降り立ったであろう聖一を殺すことを考える。
実は彼がこの世界に降り立ったころには、すでに桶狭間の戦いが終わり、聖一の名も少しは広がってきていた。徳川家に仕えているという事も。
それを知った栄治は、自らの身分を隠す事に決めた。聖一も栄治もこの世界から見て未来の人である。本能寺の変で信長が死ぬことも知っていたし、これから起こる戦いの結末も知っている。
栄治は聖一がその知識を使って家康に取り入ったと思っていた。歴史の結末を知っている者がほかの陣営にいると知れば、戦いの際に向こうも警戒してくるだろう。
ならば、自分の存在を抹消すればいい。実在した歴史上の人物とすり替わることによって。そういった意味では、大谷家に拾われたのは栄治にとって僥倖であった。大谷家当主・大谷伊賀守吉房の子は、『あの』大谷刑部少輔吉継。病の為にではあるが、頭巾を被って顔を隠していた彼は存在を隠したい栄治がすり替わる格好の人物であった。
彼にとっての幸運は続く。この世界では吉継は未だに幼名を名乗っていた。病弱で屋敷の奥で寝込んでいることが多かった為か、大谷家中でも若君を認知している者が少なかった。
そしてある年・・・若君吉継が病気で亡くなる。悲しみに包まれる大谷家の屋敷の中で、栄治はあることに気が付く。
―――結局この世界に、『大谷吉継』は誕生してねぇじゃねぇか・・・?
大谷吉継という人物は、この世界では幼名の『大谷桂松』として生涯を終えた。ならば、奴が受けるはずだった栄光、俺が代わりに受け取ってやる―――
栄治は早速行動を起こした。晩年でやっとできた我が子を失い、落胆している吉房老人の心の隙間に付け入って大谷家の家名を名乗りたいと申し出たのだ。失意のどん底に落ち、考える事すら放棄していた吉房は投げやりにこれを許した。
この時から藤津栄治は大谷吉継と名乗り、紆余曲折を経て三成と知り合い、彼から『我が友』と呼ばれるまで信頼を得た―――
頭巾で顔を隠した栄治が自邸に戻ると、自室では忍び装束に身を纏った人物が控えていた。この者は、栄治が『飼って』いる隠密集団のひとりであった。
「初芽か・・・何か良い情報はあったか」
「はっ。実はこのような情報を耳にしまして・・・」
初芽と呼ばれた忍びの者が栄治に情報を耳打ちする。先ほどの高い声から察すると、この人物は女のようであった。報告を聞いた栄治の瞳に喜悦の感情が浮かんだ。
「ほぅ・・・なるほどなぁ。これはいい情報だ」
ニヤリと頭巾の下で笑んだ栄治は、目の前に控える初芽を突然力に任せて押し倒した。驚きに目を見開く彼女の頭巾を無理やり奪い取る。
そこには、怯えた表情の少女があった。アメジストのような紫色の瞳に、肩まで伸ばしたくすんだ水色のような髪の毛の美少女である。彼女は、吉継に仕える隠密の少女・初芽である。
「フン・・・」
彼女の怯えた表情に冷たいまなざしをくれ、胸元を乱暴に開いた。
「や・・・やめてください・・・」
「ククッ、未だに未通女のような反応だな。上手い演技だ。これで騙された男がどれほどいるのやら・・・」
耐えるように目を固くして顔を背ける少女の蕾のような肢体に、獣と化した男が襲いかかった―――
「貴様は明日から徳川家の鷹村聖一に仕えろ」
身体を蹂躙されつくされて気絶した少女を蹴り起こした後、栄治は冷酷に告げた。
「た・・・鷹村に、ですか?」
「そうだ。貴様は鷹村聖一に仕え、その情報を逐一俺に知らせろ。あわよくば奴を籠絡し、徳川家の結束に楔を打て。ただし―――」
栄治は初芽の首を掴み、締め上げた。苦悶の表情を浮かべてもがく初芽。しかし、自らの『犬』を殺すほど彼は愚かではなかった。
首を放し、ゴホゴホと咳き込む彼女を見下ろして栄治は宣告した。
「しくじれば―――分かっているな?」
「わ、分かりました!私、やります!ですから、弟たちは―――!」
彼女は栄治の足もとに這いつくばって懇願した。自分の事はいい。だが、弟たちは―――!
彼女に必死の様子を見て、栄治は満足したようだった。蔑んだ眼差しを送り、初芽を蹴り飛ばした。
「よし・・・分かったなら行け!愚図愚図するなよ、この売女!」
なぜこんなことになったのだろう―――
主の―――いや、自らの『飼い主』が去り、閉じられた襖をぼんやりと眺めていた初芽の紫色の瞳から、涙がこぼれた。
殴られ、蹴られ、首を絞められ―――彼女が報告に戻るたびに難癖をつけられ、痣が出来た。純潔もとうに散らされた。逃げ出したいと何度思っただろうか。しかし、それは出来なかった。
初芽は『あの日』からあの男の奴隷。幼い弟たちの命はあの男に握られているのだ。弟たちが助かる為なら、敵軍の見知らぬ男に抱かれ、犯されることなど何でもない。
1日でも早く発たねば、血を見るのが大好きなあの男がいつ気が変わるか分からない。かつて憧れた愛のある情事とは程遠い行為の後の倦怠感は抜けないが、四肢に鞭打って無理やり脱がされた着物を集め、着替えた。
「待っててね、みんな・・・お姉ちゃん、頑張るから・・・」
旅の準備を終えた彼女は、人知れず大谷邸を出立した。目指すは、遠江国・鷹村聖一の屋敷―――




