天正壬午の乱の章~第五話~
まだまだちょっと話は進みません・・・
小諸城に戻った北条家の外交僧・板部岡江雪斎は北条氏直に帰還の報告をするとともに、出発前は明らかにされなかった講和条約のひとつの真意を彼なりに見抜いていた。
「・・・鳥居殿は、さしずめ坂額御前といったところでしょうか?」
坂額御前は平安時代末期から鎌倉時代前期の人物で、越後平氏の城氏の出身。兄弟には信濃国横田河原の戦いで1万もの軍を率いながら小勢の源義仲に敗れた城長茂がいる。
坂額御前と城氏は源平の戦いにおいては平氏方であった。平氏が滅びた後、1201年に彼女は甥の城資盛とともに越後国で鎌倉幕府に対して反旗を翻す。これを建仁の乱という。この時に越後の要害・鳥坂城に籠った城軍で活躍したのが坂額御前であった。彼女の射る矢は百発百中、敵を次々と射倒したという。最終的に反乱軍は敗れ、彼女も捕虜となって鎌倉に連行されたが、時の二代将軍・源頼家や並み居る幕府の宿将たちを前に堂々とした振る舞いで彼らを驚かせる。この振る舞いに感心した甲斐源氏の浅利義遠という武将が「彼女を妻に貰い受けたい」と申し出た。将軍・頼家は「なぜ謀叛の徒を妻に望むのか」彼に問うたところ「彼女との間に武勇に秀でた子を儲けて、幕府や朝廷に忠義を尽くさせたい」と答え、頼家は笑ってこれを許したという逸話がある。
江雪斎が故事を引用して指摘すると、氏直はゆっくりと首を振って答えた。
「坂額御前の強さと九郎判官(源義経)の母君・常盤御前の美しさを兼ね備えた御仁よ」
「は、はぁ・・・」
平安時代、英雄として謳われた人物を生み、絶世の美女と言われた女性を引き合いに出すところを見ると、べた惚れのようである。
「江雪斎よ」
「はっ」
「この講和・・・多少徳川が無理を言ってきても構わん。一命に賭けても成立させよ」
「ははーっ!」
威圧を込めた氏直の命に、江雪斎は思った。
(この講和、失敗するわけにはいかぬ・・・!)
失敗すれば、先代氏康公のもとに旅立つことになるかもしれない・・・そんな悲壮感を胸に、彼は再び新府城に向かう準備を整えるのだった。
「まぁ・・・氏直殿が私を?」
新府城の当主の間に呼び出された元忠は、当主家康が告げた講和の内容に驚いているようだった。
「他にも未婚の娘はいるというのに、なぜ私を・・・?」
「それは分かりませんが・・・北条家からの使者殿は『是非鳥居殿を若殿の正室にお迎えしたい』とのことでした」
いきなりの隣国次期当主の告白に、困惑が隠せないようだった。
「聖一さん、北条家は他に何とおっしゃっているのですか?」
彼女の質問を受けて、家康の傍に控えている聖一は元忠の嫁入り以外の条件を口に出した。
「彦姉さんの嫁入り以外は・・・『徳川家の甲斐・南信濃の領有』と『上野国は北条家の切り取り次第とし、互いに干渉しない』です」
『切り取り次第』とは「自力で勢力を伸ばす」と言う意味である。徳川家の方針としては北条家と同盟を結んで背後を固めたうえで、天下取りに台頭してきた羽柴秀吉と戦うというものだ。今はこれ以上東に攻め込む意思はない為、上野国の云々は特に徳川家には関係ない。
「ただ・・・私としては、もう一つ条件を付け加えたいんです」
「もうひとつ?」
聖一は首肯し、『もう一つの条件』を口にした。しかし、この条件を巡って徳川家は大論戦を起こすのである。その条件とは―――
「信州は小県郡の真田本城城主・真田安房守昌幸殿の領地を安堵してほしいのです」




