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A村の葬儀は一風変わっている。
村人達が持つ宗教文化の違いと言うよりも、もっと根本的な村全体に根付いている共通認識の所為だ。
いつ頃からそうだったのかは不明だが、A村には寺や神社と言った冠婚葬祭施設がなかった。宗教さえ、あるのかないのか曖昧である……結婚も葬式も、小さな役場が一つあれば事足りるし、過疎が進む寂れた村に、そんな維持費の掛かる施設は要らなかったのだ。
だったら、故人の墓や遺骨はどうするのかと言えば、大抵の家が敷地内の庭に土葬にするのが慣習になっていた。かさ張るから墓石だって立てない。山から降りてくる野犬、その他の獣に掘り返されないように、遺体を埋めた土の上に大きく育つ苗木を植えるだけだ。大体が実のなる木だ……たわわに実った果実を残された家族がもいで食べることが、故人に対する一番の供養と言われていた。
他所ではよく言われる死後の世界なんてものも、この村にはない。故人は文字通りその遺族の血となり肉となり、永遠に生き続けるのだから……美味いものを食えば、家族を亡くした悲しみも和らぐだろう、と言うある意味では合理的な考え方に基づいているわけだ。
九柳が子供時分、よく登った柿の木は死んだ隣の家の爺さんの上に生えていたが、村全体がそんな考え方だったから、気味が悪いと思うこともなかったし、実がつけばもいで食べていた。人の死骸は他に勝るものがないぐらいの肥料になるようで、どの木の実もとても甘くて美味かったことを覚えている……物心つく頃には既に実がつくようになっていた親父の枇杷も、果汁が滴るようですこぶる甘かった。生前は甲斐性なしの親父だったらしいが、唯一感謝出来るところである。
そんなわけだから、東京に出てきて入った組で先代組長の葬式を出したとき、おやっさんの木は何にするんだ、俺は石榴がいい、なんて何の気なしにこぼしたら、兄貴達に一様に怪訝な顔をされてしまった。何処の未開地から出てきやがったんだと呆れ半分に、遺体は火葬場で燃やして骨にするんだと説明されて、随分と驚いた。より一層、A村には帰るまいと思った。
そんな自分が帰ってきた初っ端、母親の葬儀にかち合うなぞ皮肉もいいところである。
三田老人に別れを告げ、異父妹の紅乃に案内されて入った邑輝邸は閑散としており、葬式自体は既に終わっているようだ。当時、最後の子供だった自分が出ていってからも人口は減り続けているだろうし、村長夫人の葬式と言えど、集まっていいとこ十数人だろう……そんなどうでもいいことを頭の片隅で思いながら、目の前を歩く紅乃の後頭部を見つめる。手を伸ばして触れたくなるほどサラサラの黒髪、旋毛まで可愛らしく見えてしまうのは、命懸けの逃亡生活で久しく女にご無沙汰だった所為だろうか。思い返してみれば、二年そこそこ女を抱いていなかった。
まだ若干十七歳だと言う紅乃の清廉な佇まいの中に、どうしようもなく蠱惑的な色香を感じてしまう。ともすれば、母の死を悼む為に纏っている筈の黒い着物の中の姿態を、その瞳の裏に想像しようとしている。
自分が彼女に抱いているのは、肉親の情に収まらない畜生じみたものだ。散々犯罪に手を染めて、道徳観念が希薄になった九柳だったが、幾ら女に飢えていても、半分は血の繋がった妹に手を出すことを躊躇う気持ちは存在した……存在している筈なのに、この右手には、さきほど誘われたときに伸ばされた少女の細い指の感触が絡みついて消えない。
「こちらです」
自分の内心の葛藤なぞ知るよしもない紅乃は、中庭に面した廊下の先の障子の前で止まり、振り返った。邪気のない微笑みなのに、やはり九柳はその熟れた果実のような唇ばかりを眼で追ってしまう。
果実と言えば、彼女もこの村で育ったからには何の疑問も持たずに庭の木の実を食べて育ったのだろうか?
人間の死体を養分にして実った果実は至極瑞々しい。邑輝の家の木は、確か桃だった筈……乙女の臀部のような薄ピンクの果実をぷっくりとした唇が食み、グシュリと溢れ出た果汁が実を掴んだ腕の肘まで伝う……汁を舐めとる彼女の舌使いまで思い描いた自身にハッとして、ようやくその視線を開け放たれた障子の向こうにやった。
「おぉ、紅乃ぉ……どいたがぁ?」
そして、部屋の中から投げられた野太い声に、九柳の身の内に燻り掛けた熱は四散した。
村長の邑輝晴十郎は、相変わらず脂ぎった醜悪な男だった。まだ鯨幕の巡らされただだっ広い客間で、上座の分厚い座布団の上に、それこそ熊の置物のように座っている。
寺も神社も墓もないことから、彼の後ろの床に掛けられた登り竜の掛け軸の前、本当に木彫りの鮭を加えた熊の置物があったのは、弔問客の忍耐を試す嫌がらせか、ただの悪趣味か……九柳にものの価値を見定める目があったなら、その他の調度品や晴十郎が身に付けた着物も一級品であると気付き、少なくとも後者でないことは分かったのだが。
それでも、一定水準以上の美的感覚は持ち合わせていても、本人の心根が悪趣味であることだけは確かだった。
「お客様です、お父様。九柳侍郎さんっておっしゃって、治良お兄様のお知り合いの方なんですって」
「あぁっ……? じろぉやどぉっ……!」
しずしずと奥に座る父親のもとへ進み、説明する紅乃と、治良の名に驚いて眼を剥く晴十郎を交互に見遣りながら、本来なら最初に気付くべきだった差異にようやく気付く。
A村特有の言葉の訛り……それが、紅乃には全くなかったのだ。
異母姉と同じ名であることといい、異父妹には一体どんな秘密が隠されているのだろう……両親のどちらにも全くと言っていいほど似ていない美しい少女、妹ではないと言う可能性だってあるだろうし、その可能性の方が遥かに高い。彼女に抱きつつある微妙な感情が、そうであって欲しいと渇望もしている。
疑いが芽生えてしまえば、もう引き戻すことは出来なかった。自分との血の繋がりを否定し尽くす確証が、喉から手が出るほどに欲しい……けれど、薄暗い理由で正体を偽っている我が身に問い質す術はない。
「……そぃだかぁ、じろぉが東京でのぉ。残念だがぁ、ほんにぃ」
ぐるぐると考えを巡らしている内に、全ての説明は済んだらしい。
湿地帯のような僅かな産毛の残る後頭部に噴き出す汗を、既に湿ったハンカチで拭い拭い、晴十郎は神妙な作り顔で言っていた。ハンカチの下からチラチラと九柳を窺う下目蓋の肉の垂れた目は濁った光を湛え、東京から来た到底真っ当には見えない男の身分を疑っているのは一目瞭然だ。
「あんたぁも、どこまで立っとらんでぇ入りぃ……美津、じろぉがおかぁに、ゆぅてぇつかぁさぃ」
しかし、そう言って浅黒い頭皮よりよほどしっかりとした毛に覆われた手で、九柳を手招きする。疑いながらも、珍しい外界からの客人に対する好奇心の方が勝ったようだ……いまだ金よりも物々交換の横行するA村で詐欺も何もないだろうと言うことは、晴十郎が一番分かってもいることであったろうし。
九柳は小さく頭を下げ、客間の敷居を跨いだ。
しかしながら、ようやく部屋の中に入った九柳の目は、晴十郎も紅乃も、母の遺体が納められた棺桶でもなく、上座の晴十郎からもっとも離れた部屋の片隅で、何の音も発さず……まるで名匠が作った精巧な人形のように、どこまでも静かに正座している男に注がれていた。
無造作に刈り込まれた短髪に意志の強そうな太い眉毛、切れ上がった鋭い双眸、小高い鼻に引き結ばれた真一文字の口許、余分な肉のそぎ落とされた輪郭は鋭い顎の下に生やした短い無精髭と相俟って、猛々しい印象を与えていた。そんな精悍な顔立ちをしたその青年は、自分よりも幾分若そうな上に体格も良い……紅乃にも言えることだが、およそこの村には似つかわしくなかった。それは、アスリートのように引き締まった筋肉質の身体を覆う着衣からも言えることだった。
医者なのだろうか?
青年が身に付けているのは、医師が着るような真っ白な白衣だったのだ。葬儀の場に、彼と言う存在はあまりにも不釣り合いだ。
九柳の半ば睨み付けるような強い視線を正面から受け止め、動じた風もなく小さく目礼する男は、やはりその声を発することはなかった。
「あの人は片城先生です……先生って言っても、お医者さんじゃないんですけど」
すぐ傍らまできて、紅乃がそう言った。医者ではないと言うなら、あの白衣は一体何なのか?
「片城先生は、亡くなった人のお医者さんなんです。お母様の死化粧をして下さったの……えぇと、エンバーマーと言うお仕事なんですって……ね? 先生」
そう微笑み掛けた紅乃にも、片城と言うらしい男は黙って頷くだけだった。何とも得体が知れない……が。
「……エンバーマー」
口に出して反芻する。
九柳は、一度だけその言葉を聞いたことがあった。
エンバーマー……事故や事件に巻き込まれ、損壊した惨たらしい遺体に外科手術に近い処置を施して、生前の姿に近付ける技士のことをそう呼ぶらしい。それがどんな技術かは知らない。
例の組長の葬儀のときだ……先代の組長は、闇討ちにあって死んだ。顔面が完全に潰されていて、二目と見られないくらいに酷い有様だった。犯人は当時、抗争中だった組の手の者と考えて間違いなかった。葬儀が終わった後、兄貴達とお礼参りに行って完全に潰してやった。
ただ、告別式で棺の中に入っていた組長の顔に、そんな様子は全く見当たらなかった。生前からその面相はお世辞にも男前だとは言えなかったが、眠っているみたいな、本当に安らかな死に顔だった……どんな魔法を使ったんだ、と驚いたが、モグリだが驚くほど腕の立つエンバーマーに依頼して、そこまで綺麗にしてもらったのだとか。
そう思い出しながらも、納得がいかないことが三つほど浮かんできた。
美津は病死だと三田老人は言っていたが、姿かたちが変わり果ててしまうような酷い病気だったなら、人が好い彼のこと、殊更哀れを誘うように自分に伝えた筈だ。他人には病死と説明しているだけで、本当の死因は別にあるのだろうか?
エンバーマーは技術こそ医者のそれに近いかも知れないが、あくまでその位置づけは納棺師などと同じで葬儀業者だと聞く……なのに、何故これ見よがしに白衣を着ているのか?
そして、どうして一言も喋らないのか?
それが、A村で生まれながらも、そこを捨て去った自分だからこそ感じる疑問であるような気がしてならない……かつて子供時代を過ごした故郷は、閉塞感のある退屈な村だったが、ここまで薄暗くわけのわからない秘密は抱え込んでいなかった。
何故か全ての疑問の答えがそこに隠れているような気がして、九柳は黙したまま決して語らない男の顔から目を逸らすことが出来なかった。
そんな彼の視線に、片城はやおらその手を持ち上げる。
「なっ……!」
直後、九柳の口から驚きの声が漏れた。
方城は白衣の下に着ていたタートルネックの黒いシャツの首に手を掛け、大きく喉元を肌蹴させる……自分に見せつけるようにしたそこには、喉仏から左の鎖骨に掛けて、刃物で切り付けられたような深い傷跡があった。
「……片城先生ね、昔大きな事故にあって喉を怪我してから、喋れなくなったんですって」
致命傷にほど近く見えるその傷のわけを、口をきくことの出来ない彼の代わりに紅乃が説明してくれた。事故に言及した一瞬、今まで決して揺るがなかった片城の鋭い双眸に、ほんの僅かにだけ苦痛のようなものが浮かんだような気がする。
「事情も知らねぇで、……」
思わず謝罪を口にし掛けた九柳に、彼は頭を振る。
喋らない理由が分かれば、さきほどまでの不気味さは半減し、強面の外見に特化された不器用な男に見方は変わり始めた。
それでも、まだ疑問は幾つも残っている。
「九柳さん、治良お兄様のことをお母様に教えてあげて」
敷居を跨いだばかりのところにいつまでも留まっている彼に、少々痺れを切らしたらしく、紅乃はそう促した。美津に、とは言っているものの、自分が兄のことを聞きたいのだろう。
そうだった、と九柳は当初の目的を思い出す。何も口を挟んではこないが、座布団に座ったままの晴十郎も隙なく己のことを注視している……これ以上余計な時間を掛ければ、疑いは深まるばかりだ。
九柳は部屋の中央に眼を向ける。そこには時代劇に出てくるような桶の形をした棺桶がドンと置かれ、異様な存在感を醸し出していた。母の遺体は座位にされ、その中に納められているのだ。
A村に外界での葬儀の一般常識は当てはまらない。祭壇は設置されず、上座の床の前には喪主が陣取り、故人の遺体を納めた棺桶は部屋の中央に置かれる。遺族、弔問客全員で取り囲んで、酒や件の庭の木の果実を食らう……それがA村で一般的な葬儀だ。夜半を過ぎれば、遺族が棺桶を担いで庭に出て土を掘り、蓋を開けたまま棺桶を穴に納めて、また土を掛け、その上に苗木を植えるわけだ。
よそ者の自分は、当然そのことを知らない。小さく息を呑み、圧倒されたような表情を作り出す。
自分が今なすべきことは、彼らの信用を得る為に巧く立ち回ることだ。
そう頭を切り替えた九柳は、自信なさげな体を装い、ようやく美津の遺体が納められた棺桶にその歩を進め始めた。
故郷を捨てた男の末路……どんな尾ひれをつければ彼らの同情を誘い、歓待を受けることが出来るだろうか?
頭は不幸な男の生涯の脚本を書き上げる為に、フル回転していた。