2
実家への道すがら、三田老人は相変わらずの辛気臭い口調で、彼が出て行ってからのA村の現状まで……大した起伏もない話を、繰り返し九柳に語って聞かせた。
死人に口なし、そこここに誇張の見える品行方正に歪んだ渡村治良像に突っ込むわけにもいかず、上の空に相槌を返す彼の心は、次第にネオンの光のひしめく頃に引き戻される。
『新宿歌舞伎町にはな、治良……九柳侍郎って悪魔みたいな野郎がいるんだ』
組に入ったばかりの頃、とりわけ可愛がってくれた兄貴分が言っていた。
喋りながら喉仏を左手の指先で擦る妙な癖のある兄貴で、そんなもんだから喋っている言葉が随分聞き取り辛かった。ただ、その指先はピアニストのように綺麗だった……本物のピアニストなんざ目にしたことはなかったが、そんなようなことをみんな言っていた。
綺麗な左手が兄貴の自慢で、真夏でも手袋は欠かさない。右手も当然綺麗だったそうだが、自分が組に入ったときにはもう既に肘から先がなかった。少し前にあった別の組との抗争中に、ドスで斬り落とされたんだそうだ。組長を庇った名誉の負傷らしく、そのお陰で若頭補佐になったと言う触れ込みだ。
不便だろうに義手を付けないのは、あんまりにも生身の手が綺麗過ぎたから、幾ら高価な義手を作らせても、どれも気に入らなかったかららしい……左手を大袈裟なくらい大事にしていたのは、多分その所為だろう。
『悪魔も味方に引きいれりゃあ、あんなに心強い野郎はいない。代償さえ差し出せば、見返りはそれ以上だ……治良、お前も面倒なことがあったら、奴を探すんだな』
兄貴は一体何を差し出して、どんな見返りを得たのか?
幾ら訊いても、喉仏を擦りながら薄気味悪く笑うだけ、結局答えてはくれなかった。
その後、組を裏切って追われるようになってから、自分も九柳侍郎なる人物を探そうとしなかったわけではない。
けれど、兄貴が教えてくれたのはその名前と歌舞伎町を根城にしていると言う断片的な情報だけ……その兄貴からも命を狙われている自分が、いつまでもそこに居座り続けていられるわけもなく、よしんば見つかったとしても、逃亡者である己に差し出せる物があるわけもなく。大体、ただの都市伝説、兄貴のほらかも知れないのだ。
結局、東京を出て、二十年前にも逃げ出したこの地に帰ってきたのだ。
「……こっが、じろぉの家よ」
砂利を踏み締める草鞋の音が途絶え、三田老人は振り返って言った。
指差すその先には、漆喰壁の横に長い塀があった。黒と白が交互に染め抜かれた幕が掛かっており、その向こうには取り囲むように松の木の枝が見えているだけで、中の様子は窺い知れない。
それまですれ違ってきた家々と一線を画した重厚な日本家屋、それをぐるりと一周した四季の全てを取り込んだような広大な日本庭園が、彼の頭の中には塀を透かして映像化されていた……実家の場所さえうろ覚えになっていても、寂れた村には似つかわしくないその佇まいは、脳裏に焼き付いて消えてはいなかった。
そして、それが渡村治良の実家ではないことくらいは覚えている。
一体、どう言うことだ?
「……ここじゃねぇ」
「あんたぁ……なぁに驚いとるんね、さっき話したがぁ。じろぉのお母ぁの美津さんがよぉ、じろぉ出て行った後ぉ、流行り病で逝んだ村長さんの奥さんの、後添いになったがぁ。
じろぉの実家は吹かぁ飛ぶよぉな長屋だきぃ、美津さんがぁ村長さん家ぃ移った後ぉ、解体されたがぁよ」
思わず洩れた言葉に、三田老人は呆れたように再度顛末を述べた。
偽名のルーツをなぞっていて聞き漏らしていた事実に九柳は、ああ、と頷く。
A村の村長は、邑輝晴十郎と言う男だ。
死んだ魚のように赤黒く濁った目に、脂ぎってテラテラと光っていた禿頭、それなのにザックリと開いたシャツの胸元や手の指先まで黒々とした体毛で覆われていた……背の低いずんぐりむっくりとした体型は、まるで出来損ないの木彫りの熊のようだった。
自分は、奴が嫌いだった。
母一人子一人の渡村家に何か理由をつけてはやってきて、後家の母・美津に色目を使っていた。
そして、美津もそんな晴十郎に満更でもなかった。
あんな醜悪な男に嬉々として股を開く母も大嫌いだった。
狭い村中に二人の関係は知れ渡っており、口さがない村人達の陰口に毎日幼い心は晒されていた……刺激のない退屈な村、自己に責任のない蔑み、それが嫌で自分はA村から出て行ったのだ。
「……ははっ……」
「……あぁ? どしたんね、急に……」
九柳が発した短い笑い声に、三田老人は訝るように白眉を顰めた。
「いや……こんな村にでかい屋敷だなと思ってな……っと」
慌てて取り繕ったつもりが、それもなかなかに失礼な口ぶりになってしまい、九柳は慌てて口許を押さえる。
「……あぁ、えぇんよ。じろぉもそんで出て行ったにぃ……やけど、神さんの巡り合わせかぁ、お母ぁの葬式の日ぃに、じろぉまで逝んだぁ知らせがなぁ」
「えっ……?」
しかし、割り切っている三田老人の次なる言葉に、再び彼は驚きの声を発してしまった。三田老人を通り越した視線が捕らえた塀を覆う鯨幕に、今更ながら気付く……上の空にならず、今後の身の振り方にも重要だった話を、もっとしっかりと聞いておくべきだった。
「……あんたぁ、大丈夫だかぁ? おらが話、なんも聞いとらんどぉ」
「……っ、……ここまで遠かったから、疲れてんだよ」
非難めいた視線に、九柳はそれでも毒づくように答える。実際、嘘は吐いていない……命懸けの逃亡生活に、心身ともに疲れ切っていた。折角の格好の潜伏先がなくなってしまった事実、疲れを口に出してしまったことで、身体は更に重たくなったように感じられた。
自分は一体、何の為にこんな薄汚れた芥溜に帰ってきたのだろう。
「……そぉかぁ、すまんなんだぁ。遠いとこぉ、来てくれたになぁ……美津さんはおらんどぉ、村長さんと娘さんはおるきにぃ。
義理でも唯一の家族やきぃ、美津さんのお位牌んも、報告してつかぁさぃ」
三田老人はそう言って、九柳に頭を下げる。命の終焉の近い年寄り特有の仏の心情か、教師になるくらいで本来の性か……薄汚れ、うらぶれた風体ではあったものの、彼は疑うことを知らない甚だ善人のようだった。ここまで案内してくれたのもよそ者への好奇心だけかと思ったが、親切心の方が強そうだ。そう言えば中学担任時代、彼だけは蔑むような目で自分を見ていなかったような気がする。
「……分かったよ」
薄くなった旋毛に嘆息を一つ吐き掛けながら、九柳は首肯する。
ただ、それは自分が故郷を捨てる原因になった母の死に顔見たいわけでも、三田老人の姿に絆されたわけでもなかった。
よくよく思い返してみれば、この村の住人は総じて噂好きで刺激に飢えている。外界から来た自分には興味津々だろう……巧くすれば、薄汚い長屋よりもよほど居心地のいい邑輝邸に暫く厄介になれるかも知れない。
それが無理なら、この馬鹿が付くほど人の好過ぎる三田老人にたかればいい。今も変わっていなければ、独り身でもう年金も貰っているだろう……年寄りの寂しい一人暮らし、食い扶持が一人くらい増えてもそう文句なぞ言うまい。鬱陶しいが、その乾いた愚痴にちょっと付き合ってやるだけで、歓待してくれる筈だ。
「……あのぉ、もし……家に何か御用でも?」
そんな楽観的思考に耽っていた九柳の背に、幼いと言ってもいいような女の声が掛けられる。この村に若い女などいる筈がない……訝る思いが随分と九柳の眼光を鋭くしたらしい。振り返った自分を認めた人物は、小さく息を呑んで立ち竦んだ。
二十歳には満つまい。行って、せいぜい十七、八だ。
おかっぱの長い黒髪を無造作に垂らした彼女は、大きな円らな瞳を飾る長い睫毛を小刻みに揺らしている。小高くすっきりとした鼻梁、やや小さく引き結ばれた唇はそれでもぽってりとして赤く濡れ、黒子一つない肌理細やかな白い肌の上で一際鮮やかな艶を放っていた。九柳よりも頭一つ背の低い華奢な身体は喪服と見られる黒い着物を着ていて、邑輝の家の縁者であろうことが知れた。
「……あぁ、紅乃ちゃん」
紅乃だと……?
A村に……否、東京でも滅多にお目に掛かれないような上玉の娘を食い入るように見つめていた九柳は、三田老人の言葉にその眉を逆立てる。
紅乃と言う名の女には、心当たりがある。
邑輝紅乃、晴十郎が死んだと言う先妻との間に儲けた一人娘だ。
先妻は昔大阪でホステスをしていた女で、けばけばしい顔をしていた。化粧の力を借りてそこそこの美人だった。
ただ、その娘の紅乃はお世辞にも美しい娘とは言い難かった。残酷なことに、晴十郎にそっくりな面相をしていたのだ。晴十郎を嫌っていた自分は、もちろん彼女も嫌っていた。
その紅乃と目の前の少女は、顔の輪郭からして違う。彼女のえらの張ったゴツゴツとした顔は、この娘の卵形のそれの優に二倍はあった。
「三田先生、あたし……あの、何か?」
不躾な九柳の視線に初心そのものに目を伏せ、頬を薄っすら桜色に染めながら、少女・紅乃は三田老人に救いを求めるように呼び掛けた。
「九柳さん、こん娘がさっき話したぁ村長さんの娘さんの紅乃ちゃんよぉ。
紅乃ちゃん、こん人ぁね、じろぉ兄ぃの知り合いん人ぉなんよぉ……九柳侍郎さん、ゆぅんよ」
「お兄様のっ……?」
しかし、三田老人のお互いの紹介を聞くと、彼女は大きな双眸を更に丸く見開いて九柳を見遣った。その吸い込まれそうな瞳に今度は九柳が妙な気恥ずかしさを覚え、その目を逸らしてしまった。
治良を兄と呼んだところを見ると、この娘は晴十郎と美津との間の娘なのだろうか?
当然行き着く結論だったが、九柳にはどうにも腑に落ちなかった。
不器量だとまでは言わないが、自分の母親も決して美人とは言えない。晴十郎が美津に興味を抱いたのも、肉感的なその体躯と床上手なところだったと断言出来る。
あの二人の遺伝子が結合し、例え奇跡が起こったとしても、こんな人形のように美しい娘が生まれたとは到底思えなかった。
それに、どうして長女と同じ名前を妹にまで付けたのだろうか?
今の自分は九柳侍郎であり、それらの疑問点を問い質すことは出来ないのだが……。
「あのっ、九柳さん……!」
視線を足元の砂利に落とし、答えの出ない疑問と戦っていた彼の耳に、鈴の音のような少女の呼び掛けが届く。顔を上げると、自分に何かを期待するようなキラキラした双眸とかち合った。
「治良お兄様は元気ですか? 今は何処に? 一体、どんな人?」
そして、押し寄せる疑問に、どうしたものかと眉間に微細な皺を刻む。紅乃がまだ見ぬ兄に対し、過度な親愛の情を抱いているのは明白だ……自堕落な生活を続けて二十年、見慣れない澄み切った少女の双眸は、九柳の心にほんの僅かな後ろめたさを覚えさせた。
「……残念だがぁ、紅乃ちゃん……じろぉ兄ぃは逝んだんよ。こん人ぁ、九柳さんはぁそんことぉ伝えんきたんよぉ」
人の好い三田老人は、躊躇する自分の代わりにその事実を話してくれた。
「えっ……」
その言葉を耳にした途端、輝くようだった少女の顔が一変する。
円らな瞳はワナワナと震え、ダムが決壊するように大粒の涙が溢れ出す……あまりにも突然のことに九柳は驚くが、考えてみれば今日は彼女と自分の母親の葬式でもある。もともと深い悲しみを抱えていたところ、兄の知人を名乗る自分が現れて心が慰めを求めて急浮上、そして、間髪置かずにその死を知らされたことで再び絶望の底に叩き落されたと言ったところだろう。
少女にしてみれば、泣くなと言う方が難しい筈だ。
「紅乃ちゃん……辛ぃんなぁ、可哀想になぁ……やけど、九柳さん、中ぁ案内してあんでぇ」
ささくれ立った手で彼女の丸い頭を撫でさすりながら、三田老人は己も滴るような涙混じりの声で諭す。それでも暫く俯いたままだった紅乃……さすがに九柳も急かすような声は掛けられなかった。
「……っ、……ごめんなさい、先生……九柳さん」
ごしごしと手で擦り、まだ赤い目を何度か瞬かせて、ようやく顔を上げた少女は、再びまっすぐに九柳を見つめる。
強かに泣いた所為で上気した頬に赤くなった鼻の頭、引き結んでプルプルと震える唇は幼さへの庇護欲の他に、何とも言えない男の欲を駆り立てる。彼女、紅乃には穢れない、天性の色香があった。
半分は血の繋がった妹であると言う意識が、九柳の胸の内の警鐘を鳴らす……この地に来たのは、間違いではなかったかと。
「行きましょう、九柳さん……父を紹介しますね」
しかし、気丈にも笑みを浮かべて己の手をとった少女に、全ての疑問は突然霧が晴れるようにいなくなってしまった。