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コレクター  作者: 小田マキ
第一話「眼」
2/5

 そこは地図にさえ載っていない寂れた村だった。


 村と言っても少し大きめの集落と言ったようなもので、地元民しかいない。よそからわざわざ人がやって来るような観光名所はなく、あるのは村を取り囲む鬱蒼とした深い山々。至極閉鎖的な場所だった。


 神にさえ忘れ去られたようなその村に、外界から一人の男がやって来ることでこの物語は始まる。


 男はよそ者ではなく、この村(今では正式な名前を知っている者は誰もおらず、仮にA村と呼ぶことにする)の出身者であった。


 辛うじて電気が通っているだけと言う娯楽もないこの土地では、皆が己の食いぶちを得る為だけの痩せた畑を耕し、ただ死に向かって生きている……そんな生活に嫌気が差した男は、二十年前に陰気なこの村を捨てて東京に出て行ったのだ。


 A村とは比べようもない大都会での生活は刺激と誘惑に溢れ、男を虜にした。灯りの途絶えない不夜城のような場所・歌舞伎町に生活拠点を置いた男は、煌びやかな生活にすっかり呑みこまれていた……善良ではなかったかも知れないが、それまで罪と呼べるような罪を犯したことのなかった男は、いつしかその世界で生きたいと言う願望のみに取りつかれるようになった。目を刺すようなネオンの下で、男が欲したのは善悪を見極められる判断力ではなかったのだ。


 気が付けばチンピラと呼ばれ、ヤクザの手下になり下がっていた。血も繋がらない兄貴達に、たくさんの仕事を任されるようになった。それは命に関わるような危険な仕事、国家権力に追い回され、薄暗いコンクリートの塀の中に放り込まれたのも一度や二度ではなかった……それすらも、男の生を刺激する発奮材料だった。骨の髄まで善悪を超越した甘い毒に侵されていた。


 危険こそが、男にとって生きていることを実感させる唯一のものだった。


 そんな都会の澱みに染まり切った男が、何故再び忌み嫌う故郷に戻って来たのだろうか?


 自堕落な生き方を悔いたのか?


 もちろん、否……チンピラと呼ばれた男の現在の呼び名は、逃亡者だった。


 快楽に貪欲になった男は、いつしか二つの組を股に掛けて仕事をするようになり、それが露呈して裏切り者の烙印を押されたのだ。


 刺激的な生活に身を浸していた男だったが、身内からまでその命を狙われるようになり、もう歌舞伎町……そして、東京にはいられなくなった。


 着の身着のままで命からがら逃げ出し、それでも組の威信をかけて追手は男を追い続ける。





 逃亡に疲れ果てた男の夜の光に鈍った頭が思い出したのは、あの地図にも載っていない故郷……A村。





 それが、男が今この地に立っている顛末だった。


 自分が村を後にしてから、そこは何一つ変わっていない。周囲に立ち込める澱んだ空気に吐き気がした……軽犯罪を犯して刑務所に逃げ込むことも考えたが、それも嫌だった。監獄はここと変わらず薄暗く卑屈で、受刑者に組の手の者だっているかも知れない。





「……あんたぁ、よそから来なすったかね」





 薄ぼんやりとした記憶を頼りに自分が生まれた家を探して村中をうろつく男に、老人が渇いた声を掛けてきた。着流しの、薄汚れた風体をしている。


「……ああ」


 一瞬頭を振り掛けたが、思い直して頷く。今の自分は、素性を知られるのは危険だ……さて、どうしたものか。


「こげなトコにぃ……なぁに、しに来なすった」


 渇いた口の中に唾液を広げるように、老人はモゴモゴと言葉を続ける。


 鬱陶しいが、狭い村のこと……自分の来訪はきっとすぐに知れ渡る。男は注意深く老人の濁った目を観察しながら、口を開く。


「……知り合いが、この村の出身なんだと聞いた。そいつから、死に際に家族に自分の死を伝えてくれと頼まれた」


 急ごしらえで考えたにしては、なかなか上出来な話だと男は安堵した。


「そいつったぁ……誰だぁ?」


「……あんた知ってるか、渡村治良とむらじろうって男だ。今年で……生きていたら、三十四になる」


 ヒュッ、と老人の喉が鳴る。


「じろ、……じろぉがっ……ぁああぁぁぁあぁああああぁぁぁっ……!」


 老人は少ない頭髪を掻き毟るようにしてその場に蹲り、身も世もない泣き声を上げた。


 男……治良はその様相に、眉を顰める。


「知っているのか?」


 こんな老人に、心当たりなぞない。


「じろぉ、なぁ……おらが教え子だぁ。十四で、こん村ぁ出てった……こん村、最後の子供やったにぃ」


 老人の言葉に、男はまじまじと涙と鼻水で汚れた顔を見つめた……ぼんやりとした記憶が、徐々に老人を元の姿に戻して行く。


「……あんた、三田先生かい」


 この村唯一の中学で、担任だった人間だ。担任と言っても、さきほどこの三田老人が言った通り、治良の学年は治良一人しかおらず、教員も三田一人だった。


「……じろぉ、……あんたぁに、おらがことを……?」


 濁った湿り気で覆われ、充血した眼を治良の知り合いを騙る男に注ぎながら、三田老人はボタボタと滴るような声音で言う。彼の警戒心は、ただの一言だけで解けたようだ。


「……ああ、治良の家まで案内してくれるかい? 三田先生」


 彼にしてみれば極力善良に見えるように、ニィと口角を吊り上げて笑ってそう呼び掛ける。


 治良にしてみれば、三田老人の存在が心に焼き付いていたと言うほどの強烈な記憶などありはしなかったが、あまりにも人口の少ない村でただ一人の教員ともなれば思い出すことは容易かった……ただ、それだけなのだ。


「……あぁ、ああっ! もぉちろんだぁ!」


 久しぶりの呼称、老いさらばえた我が身を知ると言う男を三田老人は今ではしっかりと信用している。人も娯楽も少ないこの村で、自身にも関わり合いのあるよそからの客人はそれだけで十分に刺激的だったのだろう。


「あんたぁ、名前は?」


「……あぁ、俺か……」


 しかし、次いで問われた言葉に僅かに眉根を上げる……急ごしらえの作り話の出来栄えに安堵していた彼は、まだそこまで考えていなかった。


「……くりゅう、九柳侍郎くりゅうじろうだよ」


「はぁー……あんたぁも、じろぉゆーんね」


 そいで仲良ぅなったんかぁ……そう勝手に納得する三田老人に、渡村治良改め九柳侍郎は内心ほっと胸を撫で下ろす。





 九柳侍郎くりゅうじろう





 咄嗟に口を突いて出た名が、今後の人生を大きく変えることになろうとは、今の彼には知りようがなかった。

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