第124話 まだ先があった
ソプロニアの朝は、ディヌヴリア川の川面を這うように立ち上る冷たい濃霧とともに始まった。
開け放たれた窓から、冷たい川風が容赦なく吹き込んでくる。
僕が身じろぎすると、その気配に気づいたオルハンが、窓辺から振り返った。
「あ、ノア、起きた?ギルド行こうよ」
「なぜ窓を開けているんです?」
「霧が出てたからさ。どんな匂いがするだろうって」
「寒いので閉めて下さい。身支度したら行きましょう」
僕は外套を羽織ると、ブーツを履いて一階に降りた。
「あ、待ってよ」
弓を背負ったオルハンが、慌てて後を追ってきた。
食堂でスープとパンの簡単な朝食を済ませると、僕たちはギルドへ向かった。
道中、何にでも興味を示しては落ち着きなく長い耳を動かすオルハンの袖を引きながら、ギルドへの道を歩く。
やっと石造りの建物へ足を踏み入れる頃には、すっかり日が高くなっていた。
獣脂の燃える匂いに、かすかな酒の匂いが混じって鼻を突いた。
鉄格子で区切られた受付カウンター。依頼票が貼られた掲示板。冒険者たちがたむろする酒場。そして、屈強な男が見張る二階への階段。
壁の燭台が辺りをほのかに照らし、高窓から差し込む光の筋が宙に漂う埃を浮かび上がらせている。
どこのギルドでも見かける、ありふれた光景だった。
「へえ、酒場もあるんだ。二階には何があるの?」
オルハンは物珍しそうに辺りを見回している。
「登録するんですよ。行きます」
オルハンの腕を引いて受付へ向かい、どうにか登録を済ませた。
「これで僕も冒険者だね!」
革紐に通した真鍮の登録票を、オルハンは誇らしげに掲げてみせる。
「さっそく依頼を受けてみようよ!」
そう言うなり、彼は掲示板へ駆け出していった。
僕が追いついたときには、オルハンはすでに掲示板から一枚の依頼票を剥がしていた。
「最初からそれですか?」
依頼票には、『グリフォン討伐』の文字。
「これでも長生きしてるからね。危険な状況は何度もくぐり抜けているよ。だからノアは気楽についておいで」
オルハンの気負いのない様子に、僕は改めて彼に『鑑定』を向ける。
【名 前】オルハン
【位 階】Ⅶ
【魔 力】S
【スキル】樹魔法 精霊魔法 弓術 魔力感知 樹木化
【魔 法】グロウプラント グリーンシェルター フォレストステップ フェアリーサークル シルフィーアロー ルナソーサリー
――位階Ⅶ。
まだ先があったのか。
その戦いを、この目で確かめたい。
それだけで、この依頼を受ける理由としては十分だった。
「わかりました。行きましょう」
「いいの?やった!」
「グリフォンの巣は森の奥です。準備して向かいましょう」
「いいね。野営も楽しいよ!」
オルハンは楽しそうに笑った。
依頼票を手に受付へ向かおうとした時だった。
「おいおい、坊主」
背後から声が飛んできた。
振り返ると、酒の匂いを漂わせた大柄な男が立っている。
「こんなところで遊んでないで、家に帰った方がいいんじゃないか?」
視線は僕と、その隣にいるオルハンへ向けられていた。
まあ、そう見えるのも無理はない。
十三歳の子供と、細身で頼りなく見えるエルフ。
これだけを見れば、冒険者には見えないだろう。
「グリフォン討伐?冗談だろ」
男はオルハンの手にある依頼票を見て笑った。
「そんな細腕で何ができるっていうんだ?」
周囲から笑い声が上がる。
僕は男を観察する。
昼間から酒が入っている。
自分より弱そうな相手を見つけて、優位に立ちたいだけ。
なら、簡単だ。
彼には役割を与えよう。
オルハンに、僕という存在を印象付けるための役割を。
「そうですね」
僕が口を挟むと、男がこちらを見る。
「僕たちでは危険かもしれません」
「だろう?」
男は満足そうに笑った。
「ですが」
僕は続ける。
「あなたはグリフォンを討伐した経験があるんですか?」
男の笑みが止まる。
「……いや」
「では、僕たちと同じですね」
「何?」
「経験者の助言なら聞く価値があります。でも、経験がないなら、ただの感想です」
男は言葉に詰まった。
周囲の視線が集まる。
僕は穏やかに続けた。
「あなたは強そうに見えるので、てっきり経験者かと思いました」
男の顔が赤くなる。
「上等だ!表に出ろ!」
思った通りだ。
少し煽ればすぐに乗ってくる。
中庭に向かう男の後をついて行く。
「大丈夫?僕がやろうか?」
オルハンは心配そうに僕を見た。
「ええ。足手まといにはならないってところを見せてあげますよ」
僕がそう言うと、オルハンは意外そうな顔をした。
その程度でいい。
長く生きたエルフの記憶に残るには、ただの子供では足りない。
オルハンにはまだ聞き出せていない何かがある。
興味を持たせれば、いずれ口も軽くなるはずだ。




