赤い髪と金色の男
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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記録の塔下層。
等間隔に並べられた長机に志願者たちは腰を下ろし、静かに待機していた。
誰もが声を潜め、空間全体がひそひそと息を詰めている。
衣擦れや椅子の軋み、遠くの足音。
すべてが、やけに大きく聞こえた。
フレアは机の端に座り、肘をついて両頬を支えていた。
背中は丸く、視線だけが、ずっと前列の向こう端の席に座る、黒髪の少年を追っている。
少年は両手を膝に置き、背筋を伸ばしたまま目を閉じている。
まるで眠っているようにも、祈っているようにも見えた。
……いや。
――まるで意識を一点に集中させ、感覚を研ぎ澄ますかのような。
フレアはそう思いながら、ちらり、ちらりと視線を送る。見すぎると気づかれそうで、視線を逸らしては戻した。
最前席には、フォルドとネレクが並んでいた。
フォルドは落ち着かない様子で何度も背筋を伸ばし、視線を扉のほうへやっては、すぐに逸らしていた。
ネレクは相変わらず無表情で、同じように扉を見つめている。
そのとき、面接室の扉が開いた。
ギィ……。
中から、ミックが出てきた。
一瞬、志願者たちの視線が、同時に彼へと集まる。
ミックは一歩、二歩と歩き出し――
ふと立ち止まって、こちらを振り返った。
何も言わない。
ただ、にやりと口角を上げて、軽く手を上げる。
ピースサイン。
それだけだった。
だが、その一瞬で、空気がほどけた。
フォルドは肩の力を抜き、ほっと息を吐く。
「……なにが、ピースだよ。このデブ」
小さく呟きながら、ミックに笑いかけた。
ミックは何事もなかったかのようにフォルドの隣に腰を下ろす。
ネレクは相変わらず無表情のままだったが、視線だけが一瞬、ミックに向き、すぐに戻った。
ほんのわずかに、胸を撫で下ろしたように見えた。
そのとき、扉の向こうから声がした。
「……次。フィオナ君」
フィオナの身体がびくりと震えた。
「は……はいっ!」
声が、少し裏返る。
フィオナは慌てて背筋を伸ばし、椅子から立ち上がった。
スカートの裾を整えようとして、指がもつれ、思わず何度も撫でてしまう。
フレアは顔を上げて、フィオナを見る。
小さな背中。
きゅっと握られた拳。
「……頑張れ」
小さく、けれどはっきりとフィオナを鼓舞した。
フィオナは一瞬だけ振り返ると、ほんの少し表情を緩め小さく頷いた。
「……行ってきます」
声は小さかったが、震えてはいない。
フィオナは扉の前に立ち、ノックする手を一瞬ためらわせた。
――コン。
軽い音。
「入りなさい」
中から、静かな声。
フィオナは深く息を吸い、そっと扉を押し開けた。
光の向こうへ、小さな背中が消えていく。
扉が閉まり、静けさがまた戻ってきた。
フレアは、拳をぎゅっと握りしめたまま、扉をじっと見つめていた。
――
扉が閉まる音が、背後で小さく響いた。
フィオナは一瞬、立ち尽くしたまま、部屋の中を見回した。
白い石壁。
高い天井。
正面に置かれた長机と、その向こうに座る人物。
逆光の中で、金色の縁を持つ鎧だけが、淡く光っている。
「……お掛けなさい」
フィオナははっとして一礼し、差し出された椅子に腰を下ろした。
背筋を伸ばそうとして、かえってぎこちなくなる。
指先が、膝の上でそっと絡まった。
「緊張していますか」
「……は、はい」
ユリウスはそれを責めるでもなく、ただ淡々と紙を一枚取り上げた。
「フィオナ君。ジュダ村出身……。
志願理由を教えてください」
フィオナは一瞬、息を吸い込んだ。
胸の奥にしまっていた言葉を、掬い上げるように。
「……北西のジュダ村には、孤児がたくさんいるんです」
声は震えていた。
「灯が足りなくて……食べるものも足りなくて……夜になると、寒くて……」
唇を噛み、言葉を整える。
「大人たちは、みんな必死で……誰も悪くないんです。でも……」
顔を上げる。
「それでも、あの子たちは……あのままじゃ、消えてしまいます」
指が、強く絡まる。
「記録官の人たちは、灯を運べる。決められた量を、ちゃんと届けられる。――だから……私、記録官になりたいんです」
ユリウスは静かに、ただ一度だけ、視線を答案からフィオナへ移した。
「……なるほど」
それは否定でも肯定でもない声だった。
「ですが……君に、その孤児たちとの直接の関係はありませんね」
言葉は柔らかかった。
だが冷たく、正確だった。
「彼らは君の家族ではない。君が養っているわけでもない。君の責任でもない」
フィオナは、言葉を失った。
「他の大人たちのように、関わらない事の方が、よほど理知的でしょう。――それでも、君は『助けたい』と言うのですか?」
静かな問い。
フィオナはしばらく黙り込み、それから小さく答えた。
「……放っておけないからです」
ユリウスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「放っておけない、ですか」
声は穏やかだった。
「君は優しい」
それは褒め言葉のようで、同時に距離のある言い方だった。
「では、もう一つ聞きましょう」
視線が、まっすぐフィオナを射抜く。
「孤児は、犯罪を犯しやすい」
フィオナははっとした。
「……え……?」
「統計上の話です。親も、居場所も、教育もない。規範を学ぶ機会も乏しい。結果として――配給から外れ、盗み、暴力、性犯罪、灯を巡る闘争を起こしやすい」
淡々とした声だった。
「君が灯を届け、彼らを救ったとしましょう」
一拍。
「そのうちの一人が、盗みを働いたら?」
「……」
「誰かを傷つけたら?」
「……」
「あるいは、灯を奪い、騙し、殺したら?」
フィオナの喉が鳴る。
「それは、君が生かした命です」
その言葉は、刃のように静かだった。
「君は、その責任を負えますか」
フィオナは俯いた。
指先が、膝の上で震える。
「彼らが生きていることで生まれるすべての善と悪、その両方を、君は背負えるのですか」
沈黙。
「記録官とは、配る者ではない。結果を引き受ける者です」
一拍。
「君は、それを望んでいますか」
フィオナは答えられなかった。唇が震え、視線が落ち、指先が膝の上で絡まる。
やがて、ぽつりと雫が一つ落ちた。
「……わかりません……」
心臓が高鳴り、声が震え、涙が瞼の奥に満ちてくる。
やがて――堰を切って、零れ落ちた。
「……そんなっ……ことまで……考えたこと……ありませんでした……」
フィオナは一度、喉を鳴らして息を吸った。
だが、それはうまく肺に入らず、途中でひっかかる。
「……でも……でも……、あのままじゃ……あ、あの子たちはっ……」
言葉が途切れ、息が混じる。
「助け……たいんです……」
ユリウスはしばらく黙り、やがて静かに息を吐いた。
「……そうですか」
声は低く、落ち着いている。
「君はまだ、責任を引き受ける覚悟を持っていない。 だが、目を逸らすこともできない」
それは非難ではなく、確認だった。
「それは弱さであり、同時に人間らしさです」
視線がわずかに和らぐ。
「記録官には理知が必要だ。だが理知だけでは人は救えない。そして感情だけでは、人は守れない」
視線が戻る。
「君はその両方を持っている。ですがまだ、制御できていない」
「……だ、だから――」
フィオナは何とか言葉を捻り出し、応えようとする。だが、遮られる。
「君が孤児たちを助けたいと願うなら――
その責任と覚悟を、この先の試験で示しなさい」
フィオナははっと息を呑んだ。
ユリウスはそれ以上何も言わず、ただ涙に濡れるフィオナの瞳を静かに見つめる。
フィオナは、暫く戸惑い、
そして小さく頷いた。
「……はい……」
――
面接室の扉が、静かに開く。
ぎい、と小さく軋み、中からフィオナが、出てきた。
顔を上げない。
おもむろに両手で顔を覆ったまま、
一歩、また一歩と歩いてくる。
足取りはどこか遅い。
机の列の前で、ふと立ち止まり、
指の隙間から、細い息が漏れた。
何も言わずにフレアの隣へ腰を下ろす。
肩が、ほんのわずかに震えている。
フレアは、思わず小さな声で尋ねた。
「……フィオナ。どうしたの?」
フィオナは答えない。
顔を覆ったまま、ただ小さく首を振る。
フレアは一瞬だけ戸惑い、それから視線を落としかけたその時。
フィオナが、ほんの一瞬だけ、指の間からこちらを見た。
潤んだ瞳。
まだ引ききっていない涙が、薄く残っている。
フレアは、思わず息を呑んだ。
何か言おうと、唇がわずかに動く。
だが――
「……次。フレア君」
静かな声が、面接室の奥から落ちた。
フレアはぴくりと眉をひそめ、短く息を吐く。
フィオナをもう一度だけ見てから、何も言わずに立ち上がった。
椅子が、小さく鳴る。
顔はむっとしたまま、視線は逸らさない。
一歩。
また一歩。
面接室の扉へ向かって歩き出す。
背中は真っ直ぐ、足音だけが静かな空間にはっきりと響く。
コン、コン……。
「入りなさい」
ユリウスの声。
ギィ……バタン。
逆光。
窓から刺す光の中で、机の上に組まれた両手と、ユリウスの影だけが浮かぶ。
「初めまして。
こうして出会えたことを、光栄に思いますよ……」
口元が、わずかに緩む。
「フレア・レヴァ……いや、失礼。フレア君。
これより面接試験を始めます」
「あの……!」
「どうしました?」
「フィオナに何か言いましたか。あの子、泣いてた……」
ユリウスは少しだけ間を置き、首を傾げた。
「他人の面接内容を詮索するのは、ルール違反ですよ。フレア君」
フレアは眉尻を上げ、何も言わずに椅子へ腰を下ろす。
ユリウスは一度だけ視線を落とし、手元の紙に目をやった。
「では、質問です」
顔を上げる。
「あなたはなぜ、記録官になろうと思いましたか」
フレアは一度、肩の力を抜き、ゆっくりと口を開いた。
「私の出身のティノ村は、冬の間、森と雪に閉ざされる山間の狩猟村です。だから灯の配給は乏しい。村が今より楽に暮らせるように、私はお父さんから、記録官になる道を示され、そのために狩人としての訓練を受けて育ちました」
視線は逸らさない。
フレアの声は静かで、揺れがない。
ユリウスは一瞬だけ瞬きをした。
「……ほう」
紙に一行、何かを書き留める。
「“助けたい”ではなく、“楽に暮らせるように”ですか」
フレアは小さく頷いた。
「はい。助ける、という言い方は好きじゃありません。私たちは施しを受ける側じゃない。雪山の岩塩も、獣の皮も、塔に寄贈するし、食べる為には狩りもする」
一拍。
「でも――それは、命を賭けてやっています」
ユリウスの筆先が、わずかに止まった。
「雪崩も、落石もある。獣に襲われて帰ってこない人もいる。吹雪で迷って、そのまま見つからない人もいる」
フレアの声は低く、だがぶれなかった。
「それでもやらなきゃ、生きられないからです」
ユリウスは、その言葉を咀嚼するように、ほんのわずかに口角を上げた。
「現実的ですね」
「それが狩人の現実です」
しばし沈黙。
「……灯があれば、それが変わると?」
「夜に明かりがあれば、作業は昼に偏らなくて済む。寒さを凌げれば、凍死する人は減る。弱い人が、無理をしなくて済む。それだけで、人は死なずに済みます」
ユリウスは静かに言った。
「それでも、他の村と比べれば、君の村は自立しているように見える」
フレアは、首を振る。
「人は、石じゃありません。削れたら、元には戻らない」
ユリウスはその言葉を、しばらく口の中で転がすようにしてから、紙にまた一行、何かを書いた。
「……なるほど」
「あの」
「何でしょう」
「私が摂ってきた卵はどうなりましたか?荷車のおじさんが、金色の上級記録官に渡してくれるって……」
ユリウスは、紙から視線を上げずに続けた。
「ああ、あれはあなたが摂ってきた物でしたね。
検分のため、いまは私の管理下に置いています。状態も良好です」
フレアは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「……よかった。だったらもう少し灯を――」
「ただ」
ユリウスは、言葉を切る。
「あれが何なのか、あなたは分かっていますか?」
フレアの眉がわずかに動く。
「……カムナ=トゥチカの卵でしょ。きっと、美味しい目玉焼きができる」
だが、その言葉に、ユリウスの筆が止まった。
「食べませんよ……」
低く、きっぱりとした声。
フレアは、思わず瞬きをした。
「……え?」
ユリウスはゆっくりと顔を上げ、フレアを見た。
その視線には、叱責も嘲笑もない。
「そう、カムナ=トゥチカ。あれを持ち帰る者が現れたのは正直、驚きましたよ」
フレアの胸に、わずかな違和感が引っかかった。
「……それってどういう意味ですか?」
「あなたが記録官になったら……
その時に、話せることがあるかもしれません」
フレアは、言葉を失う。
「……ていうか、あの筆記試験の問題、あなたが作ったんですか?」
「ええ。最後の問題。お気に召しましたか」
「……えげつない」
ユリウスは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「期待していますよ」
フレアは返事をせず、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
静かにユリウスを見返し、得体の知れないものを見る目で、その顔を刻みつける。
この出会いがやがて、彼女を世界の中枢へと巻き込んでいくことを、今はまだ知らない。
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